◆「自由の風」HP管理人宛にいただいた
投稿メールから紹介します。
 東京都教育委員会2003.10.23通達に関して、
以下の文章を都教委宛に送付した
という報告をいただきました。


東京都教育委員会教育長殿

教育における自由
(東京都教育委員会2003.10.23通達と
都立学校の行事に関連して)

遠藤 亨(高校生徒保護者・舞台音響家)

はじめに
 自由とは何か、というとき一つの考え方として、自己の身体への権利を出発点とする。つまりは「自己所有権」が基礎になっていると考えることができる。
 これは、人間の身体(個体)と外界とを分離する最も理解しやすい考え方だと思われる。ことに、諸個人の間の道徳的な領域については、「自己」「他者」という明確な境界が存在し、その境界内の領域では各人は、他人や政府からの強制的干渉をうけず、自分の好きに考え好きに行動できるが、それを超えて他人に手出しをしてはいけないという考え方である。

 しかし同時に、歴史が示すように人間は社会的存在(類的な存在)であることから、共同体への所属や参加が重要だということも認めねばならない。ただ、この人間の社会的存在について、このような社会的成熟を個々人の自覚的な成熟に待つべきであるか、あるいは、積極的に教化すべきであるかについては、重要な問題(教育学でいうところの発達の要件は、成熟と教育の相互作用が必要であるとする考え方が通説である=相互作用説)が含まれており、慎重に検討する必要があると思われる。

  1. 教育の文化的中立性
     統治機関と学校教育に関して考えるとき、教育を文化のひとつとしてとらえ、統治機関と文化の関係をどのように理解し、どのような関係を保つべきかというこについて考えていくことが必要であるように思われる。

    (中略)

  2. 教育の自由と公共性

    (中略)

     近代欧米諸国で在ったように、教育は親(保護者)の自由に属するものとされ、裕福な親は個人教師を雇い、そうでない親はせいぜい教会その他の学校へ通わせた。
    しかし、こどもを学校へやれないという家庭が圧倒的に多かった。それではまずいということで、やがて学校教育の公共的な性格に着目されるようになり、教会その他の学校に対して一定の補助金を出すとともに学校教育のあり方について、ある種の枠付けをおこなうようになった。すなわち、統治機関は学校教育と無関係ではなくなったのである(参考;コンドルセ「公教育の原理」/明治図書、堀尾輝久「現代教育の思想と構造」/岩波書店)。

     学校教育の公共性とは、家庭教育の延長としての公教育(私教育の組織化)は、教育の私事性をその限りで修正することを意味していると言える。
     それは、こどもが成人した段階で、(中略)職業につくこと、人間らしい生活を営むこと、そして、なにより主権者として政治の運用にかかわることになる以上それにふさわしい教育を受けることが民主的政治過程にとって不可欠であり、さらに、人格を発展させ幸福の追求をするためには教育が決定的であり、これを私事に任せておいたのでは教育の機会は不均等にしか及ばないからである。各人を同じ出発点に立たせるために社会が統治機関を通じて、まんべんなく教育を受けさせなければならないと考えられたのである。

  3. 憲法と教育の公共性
     いま述べたような考え方を念頭に置き、憲法26条を読んでみるとその規定の意味がはっきりしてくるように思われる。第1項は教育が統治機関のになうべき責任であることを前提として、国民の側に「教育を受ける権利」があるとしているのである。第2項は普通教育の義務性(それに対応しての無償性なのであるが)をのべ、教育の私事性を一部修正して、あえて反対解釈をすれば「親は自分のこどもに、社会が設けた普通教育を受けさせないという自由は無い」という社会的責任による公教育制度を導入しているとも言えるのである。

    (中略)

     教育は、専門的な教師たちにより、組織的・体系的に行なうことで知育に加え、社会性を身につけ、相互の人間の尊重と、自分達にかかわる諸問題を民主的な過程をつうじて解決するというプロセスも学ぶのである。社会性、相互の尊重、民主的な過程の実体験をするという、まさにそのことが学校の公共性なのであり、学校は主権者のいる市民社会なのである。

     統治機関は文化の中立性の原則を前提としたうえで、親や社会に代位して、学校教育にかかわるに過ぎないのであるから、好き勝手に教育内容を定めたり、これをこどもに押しつけたりはできないこととなる。統治機関は思想・信条・信仰、学問などの諸自由や表現の自由などの憲法の拘束をうけてのみ教育制度にかかわるのである(前掲;コンドルセ「公教育の原理」)。公教育とは、教育の公共性をいうのであって、国家的な性格とは違うのであり、およそ統治機関が関われるのは教育条件の整備的な側面であり、教科の全国的基準や、内容に関わったとしても大枠を定めるのみであると考えられる(参考;旭川学テ最大判)。
     統治機関が教育の中身に立ち入るということは、憲法の定める市民的自由(文化的中立性)を侵害することとなるのである(一部引用;奥平康弘/憲法/弘文堂p92)。

  4. 社会の形成者と人格の完成

    (中略)

    ここ(教育基本法前文..要約者註)で少なくとも「社会の形成者=人間の社会性(類的)」としての最低限の一定の価値観を規定しているものとも考えられるのである。統治機関が文化的中立にもかかわらず、ここでこのような一定の価値観を示す必要があったという意味は、これまでの歴史、ことに我が国の近代史における教育の役割が、例えば「教育勅語」などに代表されるような「国家の発展に奉仕しうる人材の養成」に片寄ったことへの反省があるためと考えられる。すなわち、旧国家主義から個人主義への転換が図られたのだと考えるべきであって、個人の「人格の完成」という意味は、「統治機関としてはここまでしか規定できない。したがって、これらは最低限であるから、それ以上は各人が自分で考えるのだ(つまり、自分に対するそれ以後の縛りは自分で課すのだ)」と解しても差し支えないであろう。

  5. 自己表現と他人の身体の利用

    (中略)

     道徳的な領域の不干渉ということを学校教育について言えば、例えば、学校に入学したことをもって、学校行事の際に「日本人の誇りや新しい公共の精神の涵養」などと称し、児童・生徒に学校管理者や教員の指揮命令に一方的に従わせ、表現を「公衆に向かって演じさせる」などという行為は、たとえその代価が「教育の成果」という形で支払われたにせよ、「教育の成果」は確かに利益ではあるけれども、そのような利益は、仮に望んだ利益であったにせよ二次的な利益であって、他の価値への交換も保障されないため、表現をさせようとする意志者の一方的都合で支払われる代価にほかならないから「契約自由の原則」に照らし不当なのである。 

     したがって、執行機関を含む統治機関は、教育の整備事業として自らの意志を告示するにとどまるのであり、児童・生徒をしてその意志の表現行為を行わせる権能は持たないのである。すなわち、統治機関の意志正当化のために、受益者を動員することは不可なのである。

     また、学校の教員は教育をつかさどることを任務とした全体の奉仕者であり、憲法の保障するところの集会・結社・表現の自由、や信教の自由を遵守・擁護するという自覚を有することが職務上の前提なのであるから、受け持つ児童・生徒らに前記のような表現行為を行わせる権能は持たないのである。

おわりに

 憲法に掲げられた「教育を受ける権利」を前提とするならば、こどもの「教育を受ける権利」の充足と、その内容の文化的中立(市民的自由・・・そこには教師個人としての思想・良心の自由と、権利主体者への直接責任の自覚として「教育ないし教授する事柄が真に公共性を担うに足るもの」かどうかを教師自らが問うこと)こそが命題(教師の職務の公共性=全体の奉仕者)なのであり、支配的な産業構造にとって役に立つ教育や、政治に対する顧客化とその正当化過程への公的動員などではない。
 こども本位以外の、他の目的のために教育を手段とすることを、憲法は容認していないのである(参照;奥平康弘/憲法)。

2004・03・20

(原文の一部省略は「自由の風」HPメール受付担当が著者の了解を得て行なったものです。)


このページのトップへ

トップページへ  メール

自由の風ネットワーク