平和に軍隊は必要ない |
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「PKO法」改悪と私たちの訴訟 |
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「国連平和維持活動(PKO)協力法改正案をめぐる連立与党内の調整がようやく始まった」と報道され、政府・自民党は三月中旬までに法案を国会に提出し、会期中に成立をめざす方針だという。 この改定、現地の停戦合意がなくても人道的な国際救援活動に物資協力できる、派遣隊員個人にゆだねていた武器使用を上官の命令で行えるようにする、国連以外の地域機関が実施する選挙監視にも参加の道を開く、の三点が柱だといわれる。これらは、「国際平和協力業務への制約をどこまで緩和するかが焦点である」(『日経』98・2・18)と報道されているが、「制約緩和」ならぬ「原則緩和」 の危険を感じる。 特に、の「武器使用の上官の命令」は、海外における戦闘行為そのものであり、 海外での武力行使の免罪符になり、居留民の保護に必要などといった、限りない膨張の可能性を否定できず、憲法違反は明瞭だといえる。 仮に、憲法の理念で上官の命令に背いた隊員がいた場合、抗命権はみとめられるのであろうか。いずれにせよ、許せね改悪であると思う。1992年6月15日、国連平和維持活動(PKO)協力法が、多くの反対と懸念のなかで成立し、カンボジアの平和維持活動(UNTAC)、国連モザンビーク活動(ONUMOZ)、ルワンダ難民救援活動へと自衛隊の海外派兵は拡大していった。 この間、忘れてならないのは、海外派兵の合意の基準とされた ▼武力紛争の当事者間に停戦の合意がある、 ▼当事者がPK0活動の受け入れに同意している、 ▼活動が中立的に実施される、 ▼以上の前提が崩れた場合は日本政府の独自の判断で撤退、 または業務を中断する、 ▼武器は隊員の生命・身体を防衛する目的に限定して使用する−− という「参加五原則」である。 今回、改定しようとしているものは、現行法の二四条で「武器の使用基準は隊員個人の判断」と限定しているが、それでは「隊員個人の心理的負担が大きい」との指摘で、”憲法の範囲”内という条件で部隊単位の組織的な武器使用を認めようとしている。この武器使用の基準は、海外派兵の基準と密接な関係にあり、安易に変更してよいという性質のものではない。改正案は、「参加三原則」の項と「PKO法案閣議決定に伴う政府統一見解」(1991年9月19日)の論理に対する政府自らの裏切りであり、国民に対する欺瞞である。 私たちは、「ゴラン高原PKF違憲訴訟」を、二つの権利を訴因として提訴したが、ゴラン高原への派兵についても、政府の国民だましを感じる。 ゴラン高原で国連の「兵力引き離し監視軍」(UNDOF)はシリアとイスラエル間の停戦を四半世紀近くにわたって監視にあたってきた。これに日本の自衛隊が1996年2月に参加した。業務は、カナダ軍から物資輸送業務を引き継ぎポーランドやオーストリア軍の後方支援と公表している。 このUNDOFは、停戦監視を主な任務とする国連平和維持軍(PKF)そのものであり、日本はPKO協力法成立に際しPKFの業務への参加を凍結している。 UNDOFは、法的制約のある日本と違って、制約のない国々によって編成されており、後方支援と本体活動の一体化が強く、共同軍事訓練や正当防衛に限定してはいるが武器使用基準をもっている。これへの自衛隊の参加は、PKF凍結解除につながる。 |
二つの権利 |
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日本国が軍隊を海外に派遣することで、私たちは 「人を殺さない権利と殺されない権利、平和に生きる権利」 =平和的生存権が侵される。 税金は憲法の枠内でのみ、支払う権利があり、憲法違反の行為に税金を 払う義務はない」=納税者の基本権も侵害されたことになる。 この二つの権利侵害をもって、国を被告とした裁判を開始したが、ゴラン高原の様子も、派遣隊員の業務ぶりも、「参加五原則」の実態も一向にわからない。そこで私たちは、現地でこれらの事柄を調査確認するために、視察計画を実行した。 現地に行く前、気がかりな問題点があり、その二例ほどを記すと、
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記者会見の中止が幸い |
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「オウムの裁判に忙殺されるので、22日の会見は無理だ。資料を各社に配布する労はとる」 マスコミは、ほとんどの場合、訴訟を提起したときと判決が出たときぐらいしか記事にしない。 私たちが起こしている「ゴラン高原PKF(UNDOF)違憲訴訟」は、1997年9月22日が第九回の口頭弁論であった。裁判は証人採用の段階を迎え、私たちは六人の証人申請をしていた。裁判長は前回「この種の裁判(*)と違う主張があればうかがってもよいが……」と、証人採用に消極的だったが、今回、不承不承ながら先ずは山内敏弘氏(一橋大学・憲法学)だけの証人を認めた。そこですかさず、この訴訟の私たちの代理人・内田雅敏弁護士は、私たち原告がゴラン高原に視察に行くことを伝え、その調査後に証人として陳述したい旨の要望をした。
この裁判の進捗状況とゴラン高原現地視察の必要性を伝えるために、東京地裁の司法記者クラブに記者会見の申し入れをしていたのに対して、記者クラブから前記のような会見中止の回答がきたのであった。 |
憎悪の戦争遺跡 |
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どこからが「ゴラン高原」なのか、「兵力引き離し地帯」がどの区域をさすのか真剣に尋ね、眼をみはっていたのだが、わからなかった。お粗末といえばお粗末なのだが、現地の実態だけはしっかりと見届けたつもりだ。 明らかに両軍立ち入り禁止で、鉄条網がこれでもか、これでもかというほど張り巡らされ、指さす前方はイスラエル占領地だという地域がある。もちろん写真撮影は禁止である。 しかし、これらの明らかな軍事境界線に辿り着くまでに、国連平和維持軍とシリア軍隊と秘密警察の執拗な検問を何回も受けた。この立入禁止の地雷原に至る途中の検問の場所が「軍事緩衝地帯」ということなのであろうか? 緩衝地帯に当事国の軍隊が駐留し、住民が生活し、それを国連監視軍が監視しているのだろうか? そうだとすれば、緩衝地帯は二重に存在することになる。地雷原で双方が立ち入らない軍事境界線こそ「緩衝地帯・兵力引き離し」なのだと考えていたのだが…。 検問所から検問所まで、私服(秘密警察)がパスに同乗してわれわれを監視する地域もあり、その警戒ぶりは凄まじい。私たちは一日に数カ所のチェックポイントを通過したが、その度ごとに私たちの指名ガイドのA氏に折衝してもらわなければならなかった。 クネイトラ市街は、戦争で破壊されたままの状態をさらしている。どこの戦場跡も似たようなものだろう。だがここの怖さは、三○年近くを戦場跡を野ざらしにしたままであり、それに対して一片の感傷も感慨もないのであろうか、解説の立て札さえもない荒廃の”観光地”にしている。ゴラン高原全域に言えることだが、停戦中とはいえ、和平は達成されておらず、未だに戦争状態が継続しているのだとの実感である。 この地に、日本の原爆ドームのように戦災地クネイトラを象徴する建物、ゴラン高原病院がある。見るも無惨な弾痕だらけである。外見だけから言えば、戦争とはこうしたものであろう。だが、内部の状況は戦闘行為を超える人間の忌まわしさと、ある種の悲哀を感じ複雑である。どの内壁もその隅々にいたるまで弾痕がある。戦闘行為の経験はない私でもはっきりとわかるのだが、敵味方の銃撃戦によってできたものとは明らかに違う。 占領直後か撤退時にイスラエル兵が、憎悪と戦勝意識で自動小銃を乱射したものと思われる。あるいはあえてうがった見方をすれば、シリア兵が、敵の撤退後に、敵と己に対する耐えがたい鬱憤と厭戦からの乱射だったかもしれない。 |
キャンプ・ファウア−ル |
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私たち「中東を学ぶ会」(視察団の対外的名称)が現地を訪問するに際し、総理府に対して、PKO派遣の自衛隊員との面会を国会議員を通して申し入れていた。その返答は「駐屯地は立ち入り禁止地域である」「自衛隊は国連機構への参加であるから、国連に問い合わせて欲しい」というものであった。 日本政府としては、「同胞の面会などまかりならぬ」ということである。 ”聡明な官僚”らしからぬふざけた「返答」だ。 私たちはそこが「立ち入り禁止区域」だからこそ事前に許可を求めたのであり、国連平和維持軍への参加は政府が推進したのだからその参加者に主権者が会いたいというのであるから、政府がその面会の労をとることは当然のことではないか。 この一事をもってしても、参加五原則にある「状況により自主撤退」などは空文であることがわかる。 シリアの国連平和維持軍駐屯本部であるキャンプ・ファウアールは、荒野のなかでさしたる防護もなく、工場の入口のような正門を一人の歩哨が警備している。ここに日本軍(*2)が本部要員二名を含む一二名が派遣されている。 前もって正面から正式に申し入れて拒否された以上、現地で直接あたってみるしかない。門前でA氏が交渉してくれているが、難航している。A氏は歩哨とはちなのだろう。交渉が長引いている間、バスの中から見えて気になっていた山小屋風の石室を見るため二○メートルほど引き返した。 なんとそれは意外にも牛舎で、何棟もが所狭しと建っていた。振り返ってみると、仲間たちがバスに乗り込みながら手招きしている。どうも交渉は決裂したらしい。正面ゲートに立つ国連旗を見上げながら、「硝煙の臭いより牛糞の臭いのほうがマシか。そもそも牧農地に軍隊などいらない」などと思いながらパスに戻る。 |
近くて遠きは… |
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山稜が少し拓けた先端部分に白く塗られた監視塔が一つある。20~30メートル離れて再び尾根にとりつくあたりに、簡易トーチカのように土嚢を積んだ監視所がある。狙撃にあわぬように、潜望鏡のようになっている双眼鏡が覗いていて塹壕を連想させる。私たちが到着したアインティーネという谷は、V字型に落ち込んでいて、対岸にはイスラエル占領下のマジュダル・シャムスいう村が見渡せる。足元からの急な斜面には地雷が敷設されていて、その谷底のわずかな平地にパトロール用の道路がある。オーストリア兵が巡回し、道路脇には砂を撒き、侵入者の足型がとれるようにしてあるのだという。 この村のドルーズ派の住民は、ある日突然、武力占領で生活を分断された。その距離は肉眼で人びとを確認できるが、年齢性別はわからない程度の空間であった。 この翌々日には、目と鼻の先の占領地から逆に、今立っているこの場所を、見ることになるわけだが、われわれも”占領の配当”を受け、わずかながら地元の人びとの苦労を味わうことになる。”占領の配当”などという不謹慎な言葉を使ったが、「占領状態」を維持・継続させるためにUNDOFが駐留し、そこに日本軍も参加しているのであり、このことはイスラエルの占領行為を是認するということであり、「中立的派兵」などというものではない。 ダマスカスのホテルを午前3時30分発→アンマン空港・ヨルダン入国→バスでイスラエル入国→世界最古の街、エリコで昼食→ガリラヤ湖畔のホテルに一泊→バス約三時間でマジュダル・シャムス到着。 |
現地の生活・人権・平和 |
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イスラエルの視察には、現地旅行社「ミルトス」の日本人と私たちの指名ガイドB氏を知人ということにして同行してもらうことになった。B氏の受け入れ準備は万全で、一昨日展望したマジュダル・ツャムスの村にあるルーズ派コミュニティセンターで、現地の人びとの話を聞き、ともに昼食をとるように準備されていた。 センターでは、スライドが用意されていて、60年代から現在にいたるまでの戦争による村の人口の変遷=現在のイスラエルの入植地は36、人口1万4000人、占領継続理由としての水資源問題=イスラエルの水資源全体の36%をゴラン高原から取得、「シリアはわれわれの祖国だ」=シリア国旗の掲揚で6年間の入牢、占領に反対しつづけている=ゴラン高原と西岸、ガサ地区等を手放さないかぎり平和は進展しない、 等々を熱心に説明してくれた。 国籍取得問題とも関連して、市民権について質問すると、「身分証明書(ハウイェイ)といわれるプラスチックのカードみたいなものは一応持っていますが、市民権はもっていない」と、きっぱりとした言葉が返ってきた。 具体例としては、イスラエル入植者は税金を払っていないが、政府からお金はもらっている。ドルーズ派住民は、学校運営は自費でまかなっており、補助金はない。また水タンクの新設は住民が出資して製作するが、許可制になっていて、四部門に申請し、その一カ所でも許可がおりないとだめだとのことだった。許可が出たタンクにはメーターを取りつけ、使用水量分の料金をイスラエルに納金することになっている。 最強の軍隊が平和を生むと考えているのかとの問いに対して、「本当の平和に軍隊は必要ない。……権利がほしい。私たちは水を十分に得る権利さえない。……人が平等になることによっても平和は得られる」 最後に、日本国憲法第九条私たちが取り組んでいるPKF違憲訴訟紹介し、日本がどのようなかかわりをするのがよいかについて意見を求めた。 「イスラエルの物を買うこと、すなわち商取引をやめてほしい。なぜならイスラエルの軍隊を増強させることになるから」「平和のために軍隊が必要と考えるのは当然のことのようだが、しかしそれは、南レバノンにおけるイスラエルになってしまう。 日本の自衛隊は、いまのところ武器を取っていない。もしこれから戦争になったとしても、彼らが武器を取らないことを祈ります」 と、明解な答えであった。 コミュニティセンターからバスで数分のところ、一昨日の風景を反対側から見る場所に着いた。 ここで私たちは、被占領地の生々しい生活を見聞できる”ラッキー”な光景に出会った。”ラッキー”などと聞けば、生活者は冗談じやない、見せ物ではないぞと怒るだろうが、谷を隔てて双方がハンドスピーカーで話を交わしている。私たちが出発前に見た総理府作製のビデオで承知してはいたが、現実の場面を耳目にするとは思わなかった。少し気がとがめたが、会話の内容を通訳に聞いてみた。彼は多くを語らなかったが、婚礼が決まり、その打ち含わせをしているらしいとのことだった。彼らは、会話の最後に次の日時を約束し、急な用件の時は「誰だれを呼んできてくれ」と呼びかけ、それを聞いた人が連絡に行ってくれるとのことだ。近親者への情、ところが現実のこのもどかしさはやりきれないものであろうという思いしきりである。 |
余裕のゴラン高原 |
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イスラエル側のゴラン高原は、シリア側とは違い、まさにゴラン高原にいるのだと実感できる地域ばかりを走行した。戦勝を誇ろうとしているのであろうか、戦争記念のモニュメントがそこかしこにある。 ここイスラエルでもクネイトラと同様に破壊された村が、家屋の残骸をさらしている。しかし、シリアは捲土重来「君、忘れることなかれ」の廃墟遺跡であり、片や忘却の決断「君、望郷の思いを抱くことなかれ」と、両国の意図は全く違うとの思いをしながらシャッターを押す。 地雷原を示す表示と柵はあるものの緊迫感はなく、広々していてそこが地雷原図面をくれないと通訳氏は不満そうだが、これは虫のいい話であろう。 道路脇に戦車を並べて兵隊が訓練を受けている。はるかに入植地の見える沿道に軍隊の宿営所がある。突然、岩石で造られた構築物が左右から交互に突起していて道をさえぎる。急激にS字ハンドルを切らなければならない。戦車止めなのだという。 ゴラン高原の眼と言われている小高いレーダー基地にはカメラを向けないようにとの指示があったが、それ以外は何の制約も検問もない。通訳氏は、断られはしたが、戦車の並ぶ軍事基地の見学を申し入れるという気安さである。道幅を広げた駐車スペースは見晴らしがよく、案内板と展望図が設置されている。遠くシリアを望み、クネイトラの病院も視界に入ると聞いたが、その位置は確認できなかった。なんとここの案内板の英文には、「われわれが提供したクネイトラ……」という文言があったのだと、帰国後に仲間が憤慨していた。視線を足元に移すと、イスラエルUNDOF本部キャンプ・ジウアニの全容が俯瞰できた。 |
自縄自縛と位負け |
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キャンプ・ジウアニで自衛隊隊員の面会を実現しようという現地解決策は、奇策戦法が功を奏し、3名の日本軍将兵に会うことに成功した。 歩哨に立っているカナダ兵に、女性トイレの借用を申し込んだ。前触れもなくバスが止まり、10名からの男女が降車するやいなや、この申し入れである。歩哨は、荒野のただなかだけに断わるわけにもいかず、その驚きと困惑は滑稽ですらあった。二の矢は、「われわれは日本からの旅行者です。日本の隊員に会って激励したいので連絡をお願いします」と要請した。 ほどなくして、3人の隊員(全派遣隊員は31名)がゲートに姿を見せた。その一人とまず「商売用の名刺で恐縮ですが」と名刺交換をした。彼は副隊長であるらしい。 「われわれは、中東を学ぶ会でこちらに来ました。折角ここまで来ましたので、遠く日本を離れて任務に精励されているみなさんに一目お目にかかり、みなさんの元気な姿を、日本の仲間に報告したいと、お訪ねしました」。概略こんな挨拶で、ゲートをはさみ立ち話の面談がはじまった。 彼らから報道で私たちが知っている建前以上のことを聞きだせるとは考えていなかった。したがって私たちの狙いは、言葉の端々から推察できるもの、話のニュアンスから得られる傍証のようなものしかないのではないか。そのためには、少しでも長い時間を、そして身近な共通の話題を話す必要がある。彼らを心から慰労し、激励して悪いことはあるまい。彼ら自身は政治家でもないし、海外派遣に熱心だったわけでもないであろう。憲法違反の職業を選んだことや、自衛官の身分そのものを非難する人がいるにしても、それは彼らの人生に対してあまりにも傲慢で、狭量にすぎると思う。もしも愚痴の一つでも聞くことがでれば、さらに帰国後にイッパイやりましょうといった雰囲気ができれば最高、といった思いであった。 しかし先方のガードはなかなか堅く、思いと少し違う方向ですすんだ。 Q 日常の仕事はなんですか。 A 運送業務全般です。 Q 食糧とか物資だけで武器弾薬とかはどうですか。 A 一切運んでいません。法律で決められている範囲を越 えると停職になるので、一切できません。 Q 中を見学できませんか。 A 申しわけございません。司令部の許可と日本大使館を 通しての許可が必要なんです。先日エレサレムの旅行代理店 から電話がありましたが、お断りしました。 Q 日常、訓練はしていますか。 A 訓練というよりもUNDOFの組織の中で駆け足とか 競技会がございますからそれには参加しています。 気候、食事、面会等々の質問を交えての問いかけであったが、私たちの杉山団長から「そろそろ終わろう。われわれの素性がバレそうだ」との耳打ちがあり、こちらから面談を切り上げた。 私たちは、国内で少数派に馴れすぎたせいか、立場の違う相手を尊重し、こちらも一目おかせずにはすまさないで堂々と四つに組む姿勢が崩れてきてはいないだろうか。写真撮影も録音テープ録りも相手に了解を求めるのは常識である。明らかに拒否が予想されるのであれば、徹底した盗み撮(録)りをすればよい。こそこそした印象を与えるのは禁物である。少数派意識の自縄自縛は、無意識に権威に対して位負けしてしまう。 国連カラーのブルーベレー帽の下の精悍な眼光との接見を終えて、わたしは「外交努力を伴わないPKOはありえず、またPKOの最終目標は外交手段によってのみ達成できる」との河辺一郎氏(国連問題研究者)の一文を思い起こしていた。 |
シリア、イスラエルの調査訪問を終えて |
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ラビン首相の暗殺現場は、テレアビブ市庁舎の外階段脇に、灯火と花輪に囲われた御影石が故人を偲ぶ荘重さをただよわせている。しかし、細い道路を隔てた塀には、その場所にそぐわぬ落書きが一面をおおっている。故人の徳を讃え、生前の彼に賛成できなかった自分の不明を詫びる文章もあると聞いた。 軍人ラビンを、オスロー会議を経て宿敵PLOアラファト議長握手させた真意は何であったのだろう。インテファータ(民衆蜂起)で投石した民意を私たち は理解できるだろうか。 大規模な武力衝突、テロの応酬。ユダヤ人とパレスチナ人の確執は、私たちの思考をはるかに超えたものであろう。しかしまた、彼らの敵愾心の裏側にあるものは、同量ほどの平和希求でもあることは間違いないと、私は信じているし、現地でもそれを感じえたと思っている。 世界の火薬庫を、松明で照らして火薬処理を二五年もしないところに、「ろうそくの火は安全です」と参加することはない。ゴラン高原に軍隊はいらない。当事者を尊重しつつ、非軍事で彼らの手伝いをすることが、時間はかかっても、民族和解の道だと思う。主権国家は全力で和平の外交努力(ノルウェーを範とすべし)をし、国連は、大国の国益主義を克服して平和問題を再構築すべきだと考えている。 *l 『イスラーム,ドルーズ派』宇野呂樹著、第三書館 『中東和平の行方』立山良司著、中公新書 *2「自衛隊」という固有名詞を使いたくなかった。海外に存在する「自衛 隊」などありえない。自衛のための国外協力を正論なのだとしてしまえ ば、そのゆきつくところは、「攻撃は最大の防御」になってしまうこと になる。 |
論文所収月刊誌: マスコミ市民、通巻357号、1998年3月、マスコミ情報センター、 (183-0057府中市晴見町1-28-5-506.)、44-55頁