[ゴラン高原PKF違憲訴訟]甲五七号証

1999年3月10日 第15回口頭弁論において提出

(注)原告の名前は「****」で示してあります。


   平成 年(行ウ)第二〇号
   平成 年(行ウ)第一八六号





           陳  述  書


                       原告 ****

   一九九九年三月一〇日

   東京地方裁判所 民事第三部合議係御中
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 北海道育ち
 私は一九四七年生れです。日本国憲法とほぼ同時代を生きてきたことになります。
 私の父は自衛官でした。地方の検察庁に勤務していた折り、自衛隊の前身、警察予備隊
ができるときに、二〇〇人の部下をつけるから、というアメに引っ掛かって入隊したそう
です。「でなければ別の人生があったろうに…」と呟くのを数年前にはじめて耳にしまし
た。父は学徒出陣で海軍に所属しましたが、外地へ赴くことなく敗戦を迎えました。戦争
はしてはいけないと申しております。
 私は子ども時代の主要な部分を北海道で育ちました。私には息子が一人おりますが、子
育てをしている中で、北海道が私に大きな影響を与えてくれた二つのことに気が付きまし
た。一つは、北海道の自然が私を育ててくれたということ、もう一つは、私の生き方の核
になるようなものが与えられたことです。それは、小学二年生のときのことです。私は帯
広市という十勝平野の中核都市で革新市政の町に暮らしていました。列を作って町を歩い
ているとき、前を歩いていた男の子がくるりと振り返って、「自衛隊は違憲なんだよ」と
いうことを言ったのです。すかさず隣の女の子が、「でもそれは加藤さんとは関係ないで
しょ」と言ったのです。今となっては、私はこの二人の友人にとても感謝しています。な
ぜなら、男の子の言葉だけだったら、父を非難され、自分の存在の不安をも感じさせられ
るようなショックで、私はきちんとその言葉を考えられなかったかも知れません。女の子
の言葉は、ショックを受けた私を支えてくれましたし、自立せよと促してくれたように思
うのです。以来私は、「違憲である自衛隊員の子」という重荷を感じながら生きてきたよ
うに思います。この時が、私の社会的目覚めのときだったように思います。
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 ベトナム戦争の影響
 サイゴンが解放の日を迎えたのが一九七五年四月三〇日ですから、私のほぼ高校時代か
ら社会人になって数年目まで、十年余という結構長い期間をベトナム戦争と共に過ごして
きたことになります。毎日のように報道されていたので、ベトナム戦争から影響を受けた
人はたくさんいらっしゃると思いますが、私もその一人でした。南ベトナム政府に対する
たくさんの学生や市民たちのデモ、抗議して焼身自殺をはかるお坊さんたち、自国の民に
対して武力を使って呵責ない弾圧を加える政府・軍隊、果てしのない戦いを続ける米軍と
ベトコン・北ベトナム軍、ソンミ村の虐殺や残虐な殺し合い、逃げ惑う避難民たち、カン
ボジアやラオスへの戦争波及…。戦後に顕在化した枯れ葉剤の被害、米軍兵士たちに現れ
たベトナム戦争症候群、ポル・ポト政権の大虐殺…。戦争とか平和、社会の在り様といっ
たことについて考えさせられるものでした。
 高校時代、進路を決めるときに、ベトナム戦争のような戦争がなぜ起きるのか、きちん
と考えていきたいと思い、歴史を選択しました。大学時代は、ベトナム反戦デモによく行
っていたように思います。大学では、ちょうどベトナム史を専門にしている先生がおられ、
一五、六世紀ごろのベトナムと日本の交流史などを学ぶことができました。卒論は、一八
八四年に起きた清仏戦争を選びました。フランス領ベトナムを巡ってのフランスと清との
争いだったように思います。フランスの資料は翻訳本で、中国の資料は東洋文庫から借り
て、日本側の資料は当時の新聞を見に国会図書館に通ったのですが、これはなかなかおも
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しろかったです。
 出版社に入ってから、フリーランスのジャーナリストやフォトグラファーとの付き合い
が多くなって、ベトナム戦争の取材にでかけていく人達もいました。特にほとんどの外国
人が脱出した四月に、サイゴン解放を取材に出掛けていったグループがいました。私は彼
等の身の安全を心配すると同時に、私だって行きたいんだと、彼等をとても羨ましく思っ
ていました。ベトナム戦争はまた、優れたジャーナリストたちを魅きつけました。私は身
近な人々や内外のジャーナリストたちの著作を読んだりして、ジャーナリストの心構えと
いったようなことも学んだように思います。
 出版社を退社した年の夏、当時三歳の息子と一緒にピースボートに乗って、ちょうど解
放後一〇年目のベトナムを訪ねることができたのは、長年の宿願が適えられたようで、と
ても嬉しいことでした。プチ・パリといわれたホー・チミン市の様子や、大きなメコン川
豊かな緑、田舎では、アヒルや鶏が生き生きと走り回っているのを見たりして、沖縄同様
に、住んで暮らしてみたいところだと思いました。

 沖縄と私
 沖縄へ初めて行ったのは一九七五年の海洋博の年の夏でした。ちょうど友人たちが取材
に行っているときでもあり、沖縄に住み込んでいた友人の写真家もいたので、彼等を当て
にして出掛けました。このときは、沖縄本島、渡嘉敷島、伊江島、久米島を回りました。
 見たこともない亜熱帯の動植物、自然景観、首里の県立博物館で見た固有の文化・文物、
工房で見た沖縄の植物染料で染めた美しい紅型や染織物、大きな亀甲墓や家型をした遺骨
を入れる厨子甕、戦跡や平和祈念資料館、広大な米軍基地と異形な戦闘機群、シーサーの
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の乗る赤瓦の家々、琉球料理の数々、あたたかみのある独特の絵模様と色合いの焼き物、
日本の城のイメージとはほど遠い首里の王府跡や中城跡…。那覇の市場には色鮮やかな魚
が並び、豚の様々な部位が売られていました。渡嘉敷島では、昼は美しい珊瑚礁の海を堪
能し、夜は満天の降るような星空と満月の下、ギターの流れてくる浜辺を浮遊した思いが
あります。久米島では豊年祭を見ました。ノロやカミンチュなど、女性たちが神の使いや
司祭となってリードする独特の祭り風景は興味深いものでした。台風のため三日間閉じ込
められる経験もしました。伊江島では、阿波根昌鴻さんの以前のお宅に伺い、養女の方に
米軍基地の内外を案内していただいたり、阿波根さんからお庭の島ばななーをいただいた
りしました。小型のとてもおいしいバナナでした。取材先(私は当時、国際情報社のグラ
フ月刊誌『世界画報』の編集者でした)では、スクガラスという小魚の塩漬けに、復帰後
専売公社の塩を使うようになったら、腐ってしまったという話も聞きました。その方の夫
は、塩づくりを始められたということでした。そのお宅に泊めていただいたとき、アメリ
カの公文書館から入手した写真で編集された沖縄戦の写真集も見せていただきました。
 見るもの、聞くもの、初めてのことばかりで、私は、これが日本なのかと、大きなカル
チャーショックを受けました。なにしろ、ほとんど沖縄のことについては学んでいなかっ
たのですから。以来沖縄が大好きになって、度々出掛けるようになり、様々な人々と出会
ってきました。沖縄からいろいろなことを学んできたように思います。沖縄からは日本が
よく見えるのです。そして「沖縄問題」は、日本の問題、つまり私たち自身の問題である
ことを認識しました。
 私が暮らしている葛飾区では「ティーダの会」という「沖縄」を学んだり楽しんだり、
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地域の人々に伝えたりしている小さなグループに参加しています。その活動は一〇年以上
になります。また、九五年の九月に起きた米兵による少女レイプ事件では、これは安保の
問題であると、九六年三月に「わたしたちにとって安保とは何か」という集会を催し、以
来その実行委員会の名のまま活動を続けています。

 沖縄の女たち
 一九八四年は、国際婦人年の最終年でした。この年を「だれもが生き生きと平和に暮ら
せる社会を目指して、女たちの出発年にしましょう!」と高らかに宣言されて始まったの
が、「うないフェスティバル」です。うないとは、沖縄の言葉で「姉妹」のことです。ま
ずは女という共通点で、「右も左も関係なく、すべての女たちよ集まろう」と呼び掛けま
した。一〇年目までは、那覇市とラジオ沖縄、実行委員会が主催でした。一一年目からは
実行委員会と沖縄タイムス社に変わりましたが、毎年一一月に行われて現在まで続いてい
ます。様々なワークショップや分科会、全体会が開かれます。
 私は最初と三回目を取材し、一〇年目は観客として出掛けました。立ち上げのときの彼
女たちの意欲とエネルギーは凄いものでした。毎晩のように集まって徹底的に話し合い、
理論づけをし、目的を明確にしていきました。そのような仕事造りや関係造りのできる女
たちに、私は感心し、共感しました。メンバーには、現在那覇市議、当時は那覇市の婦人
相談員だった高里鈴代さんたち、現在は、「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」
のメンバーになっている女たちがいました。
 一〇年目のときに出会った女性をご紹介しましょう。それは、アメリカの中部の州の職
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員として、離婚で傷付いたり、親や大人たちから暴力を受けたりして傷付いた子供達のメ
ンタルコンサルタントをして救済に当たっている沖縄の女性です。沖縄でフリーランスカ
メラマンとして活躍している石川真生さんの叔母さんです。彼女は、沖縄でベトナム戦争
に参加した米軍人と結婚し、米国へ渡ります。しかし、夫は枯れ葉剤の後遺症などで心身
共に苦しむようになり、彼女は何年も看病に当たります。その体験から、彼女は精神を病
んでいる人々を助けたいと、夫の死後、大学へ入って勉強し、現在の仕事に就くことにな
ります。彼女は、沖縄や日本でも、病院に行く前の中間に位置するそのような施設が必要
だと語っていました。
 もう一つ私にとって大切な沖縄の女達との出会いがありました。「あゆみ」の最後に記
した、昨年五月に三日間に渡る東京行動にやってきた「心に届け女たちの声ネットワーク」
の一二四名の人々のことです。海上へリポートをはじめ基地はいらないと訴えました。私
はこのとき、「うない」の女性たちと素晴らしい出会いをしたことを思いだし、思いの深
さとか心理面といったものは、なかなか言葉では伝えにくい、この際、心は心で受けとっ
てもらおうと考えて、多くの女性たちに呼び掛け、世話役を引き受けました。結果的に、
私より少し年上の女性が、「私はもっともっと成長できるんだと思った」というように、
それぞれに心の交流ができたようでほっとしました。こうした結び付きが、平和な社会を
つくっていくためになればと願っております。

 憲法が「最高法規」であると自覚させられた時
 私が憲法の存在を最も切実に思ったのは「湾岸戦争」の時でした。九条があるので、私
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はよもや戦争に巻き込まれるようなことはあるまいと思っていたのに、お金という形で参
戦させられてしまったのは、私にとってまさに晴天の霹靂でした。テレビの画面でまるで
花火のように降り注ぐ弾丸の先でどれだけ大勢の人々が傷つき殺されているかと思うと、
そして自分が殺す側に荷担させられているかと思うと、居ても立ってもいられませんでし
た。米軍を中心とする軍隊(多国籍軍)は、ギブアップして退却するイラク軍に対しても
爆撃を加えました。後日私はその退却路に累々たる屍の列が続いていたことを知りました
(元米国司法長官のラムゼー・クラーク氏の報告等)。また、戦争は人を傷付け殺すだけ
ではなく、最大の環境破壊の基でもあるとつくづく思い知らされました。そして、私は政
府に裏切られたと思いました。
 止むに止まれぬ思いで私は国(行政府)を被告とする「市民平和訴訟」の原告に参加し
ました。
 私はこのとき久方振りで「憲法」を読んでみました。前文には「決意」が二か所にでて
きます。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意
し」と、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深
く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生
存を保持しようと決意した」とあります。そして、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全
力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と締め括られています。
 私はこのとき、私たち日本人は本当に「決意」し「誓って」こなかったから、今日再び
参戦するようなことになってしまったのではないかと思いました。私自身、これまでの人
生を振り返させられ、憲法一二条(この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の
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不断の努力によって、これを保持しなければならない)にある「不断の努力」をしてこな
かったのではないかと反省させられました。
 憲法前文は、短い中に、きっちりと崇高な理想と目的が書かれてあり、大変すばらしい
文章だと思います。条文にも「何人も」という言葉もいくつか出てくるように、本来は大
変に普遍性のある内容を持っているものと考えます。けれども、五〇年余りの間に、憲法
はずいぶんとゆがめられてしまいました。九条と自衛隊の関係は顕著な例ですが、例えば、
「国民」からは、一九四五年八月一五日直前までの国民だった人々のうち、日本の植民地
だった台湾、朝鮮半島の人々が除外されたままで、彼等には選挙権もなければ、戦後補償
もなされていません。国家が過ちを犯したならば、たとえ国家形態が変わったとしても謝
るのは当然のことではないでしょうか。戦後、敗戦国として各国への国家賠償はしている
のに、個人に対しての補償はしないというのはなんとも理解できません。こうして様々に
こねくり回した「解釈」をされたり、無視されたりで、いまや憲法は瀕死の状態のように
見えます。最も無視されていると思うのは、「国民主権」です。この国で暮らす一人一人
の集合体が国家を形作っているはずなのに、その人々の人権が大切にされていないように
思えます。阪神大震災の被災者救援はなぜ行われないのでしょう。それにこの国の「民主
々義」はなかなか進みません。それを支える核であるはずの「市民社会」も形成されてい
ません。一人一人の市民が対等の関係を持っている社会とはいえないからです。
 例えば、最近、広島の県立高校の校長先生が、日の丸を掲揚するかしないかを巡って教
職員と教育委員会との板挟みにあって自殺したという痛ましい事件がありましたが、もし、
この方の考えをきちんと表明できたならば、自殺に追い込まれるようなことはなかったと
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思います。自分の考えを自由に表現することを規制される社会は、民主々義社会ではあり
ません。その後、日の丸・君が代の法制化への声が上がっているようですが、命令と処分
で強制しようとすることはとても民主々義国家のやり方とは思えません。私は、日の丸を
国旗として認めたくはありません。以前、韓国の「日本軍軍隊慰安婦」であったキム・ハ
クスンさんが最初に日本にきて証言をなさったときに、「飛行機の日の丸を見ただけでも
当時を思い出して体がぶるぶる震えてくる」といっていました。私は、当時日本軍に占領
されたアジアの人々は皆同じような思いをしているのではないかと思います。以上の理由
から、私は日の丸を国旗として誇りを持って見ることはできません。
 私は、この国で暮らすだれもがその人間性を大切にされ、生き生きと暮らせるような社
会(それは憲法前文にある国造りと一致します)を目指して、自分にできることをやって
いきたいと思います。

 おわりに
 湾岸戦争は、結果的に、米国経済を好転させ、米国を世界戦略へと向かわせることにな
りました。日米安保条約を結んでいる日本も、その強力な担い手としての転機を迫られた
ようです。以後、自衛隊のPKO派遣、ゴラン高原PKF派兵等とエスカレートしていき
ます。私は平和を願う人々とともに、市民平和訴訟、「PKO法」違憲訴訟、ゴラン高原
PKF派兵違憲訴訟に参加してきました。
 前の二つはあっさりと敗訴してしまいました。その理由として、決まったように裁判官
はいいました。「選挙によって選ばれた人達が政治を行っているのだから、それに不満な
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らば、そこから変えていったらどうですか」と。なるほど、一理あります。しかし、それ
であなたがた司法の責任は果たされたとお思いでしょうか。国民は、政府が憲法に反する
政策をとろうとするときは、憲法を拠り所にして、「憲法の番人」である司法に判断をし
ていただくほかありません。司法は、国民から重大な責任を委託されているのですから、
憲法の前文のほか、九八条、九九条によって、しっかりと責任を果たされるようお願いし
ます。
 九一年一月の湾岸戦争を契機に軍事戦略を大きく転回した米国と、それに追随しようと
する日本政府は、九七年九月に両国間で合意した「新しい日米防衛協力の指針(新ガイド
ライン)」でその体制基盤を築こうとしているように見えます。いうまでもなく、新ガイ
ドラインは日本の最高法規である「平和憲法」を欺き、踏み躙るものであり、戦争へのレ
ールを具体的に敷くもので、私の平和に生きたいという願いとはまったく反するものです。
とうてい認めるわけにはいきません。
 新ガイドラインの実施に向けて「周辺事態法(案)」「自衛隊法改正案」「有事ACS
A(日米物品役務協定)」等の法案の国会審議が続いています。
 こうした中で「ゴラン訴訟」の意義は大きいと思います。どうか、これ以上の戦争への
道を開くことのないよう、司法の責任を持ってご判断いただけますようお願い致します。
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