第12回口頭弁論(1998年6月18日)に先立って、準備書面として裁判所に提出しました。10万字にもおよぶので、「はじめに」と目次を掲載します。この内容を補遂して出版(題名:最後の特攻隊員。出版:高文研。本体1800円)しましたので御購入下さい。
不戦兵士
信太正道の戦争体験
ゴランPKF違憲訴訟
東京地方裁判所六〇六号法廷
一九九八年六月一八日証言
____________(表紙)________________
はじめに
今年は寅年である。私にとって七回目の生まれ年である。最後の生まれ年になるかも知れない。この年に当たって、東京地方裁判所はゴランPKF違憲訴訟団代表である私に証言を命じた。その準備書面として私は本書を書き、自分の戦前・戦中・戦後の戦争体験を通じ、海外出兵は如何に「危険な道」の行進であるかを立証したい。
思えば六六年前の本日、海軍青年将校の一団が首相官邸を襲い、「問答無用、撃て!」と叫び犬養首相を殺害した。私たち海軍兵学校第七四期生徒指導教官の福寿少佐は、五・一五事件主犯三上卓の同期であった。 一九二〇年代、第一次世界大戦後の日本軍隊に、ファシズムというがん細胞が移植された。のちにこの細胞は「昭和維新」を唱え、増殖・転移していった。
将校団はおのずから保守主義の番人であり、自分等の存在意義が軽視されると、必ずや脅威を振りまき、国家の安全と国民の幸福は軍隊によって守られることを強調する。
世界大戦の終了によりドイツの脅威は去り、加えて革命による「ロシアの崩壊」は軍人の不人気をもたらし、軍服姿で町に出れないほど、彼らは肩身の狭い思いをさせられた。脅威の本源そのものが消滅し、軍はもはや侵略の脅威によって国防や軍隊の存在理由は説明できなくなった。革命後のソ連が国内建設と経済重視で進むのは明らかで「対ソ戦争」勃発の公算などとても想定できなくなってしまった。正に現代の「ソ連の崩壊」を思わせるものであった。
国民の国防意識が希薄になると、植民地権益や反共といった「イデオロギー」に錦の御旗が求められるのは当然の成り行きであった。あたかも邦人救出やシーレーン防衛に象徴される海外権益の保護と、国際貢献の「イデオロギー」に大義名分を求める現代を彷彿させるものがある。
さらに、大戦後の経済不況にあえいでいた日本に関東大震災が追い打ちをかけた。大戦中の「バブル」に侵たっていた日本経済は瓦解し、縮小してしまった。軍縮・兵力削減は当然の勢いであった。いつに変わらず、軍人にとっての「最大の敵」は軍縮である。
このような時代を背景として五・一五事件は決行された。「問答無用」の叫びとともに言論は封殺され、「日の丸」は高く掲げられ、「君が代」の声は大きくなり、日本は無謀な第二次世界大戦に突入した。
国粋主義者は大東亜戦争から「アメリカと戦ったのはまずかった。これからはアメリカを味方にして強大な軍隊を作らなければならない」との教訓を学んだ。いま政府は「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)の見直し」で、自衛隊が、戦闘している米軍のために情報収集活動を行うことや、補給・輸送等の後方支援活動を画策している。「後方支援はあくまでも後方支援であって、戦闘行動ではない。集団的自衛権の行使にはあたらない」と強弁している。そんなことは軍国主義者達に聞くがよい。彼らは「後方支援を軽視したから戦争に負けた」との強烈な教訓を大東亜戦争から得ている。
五一年前に日本国憲法が施行されてから、それは安保と自衛隊によって絶えず空洞化されてきた。つい数年前までは「憲法違反だ」と言えば、出る釘は引っ込んでいた。しかし、最近は、「偉大なる自衛隊に違反する憲法は改正する時期に来た」と声高く叫ばれるようになってきた。国民がこのまま無関心でいれば、本当に憲法が改正されてしまうかも知れない。
自衛隊が晴れて軍隊になれば、米国民は黙ってはいまい。彼らは原爆投下は、パールハーバーの復讐としてはやり過ぎたと、後ろめたい気持ちでいる。おまけに憲法までおっつけたという弱みがある。そこで日本人自らの手で憲法改悪したらどんなことになるか。朝鮮戦争でも、ベトナム戦争でも、一滴も血を流さないどころか、ぼろ儲けした日本人に対する欲求不満は一挙に爆発する。銃至上主義の米国民を甘く見てはいけない。後方支援部隊は、否応なしに前方露払い部隊に格上げされてしまう。集団的自衛権の存在ですら国民的合意のない日本は、文句なしに、集団的加害権の行使まで強要されてしまう。日本が集団的加害権を行使して喜ぶのは米国だけである。どれくらい、その余の国が、日本を恐れていることか。歴史認識に暗く、目先の国益に目がくらんだら取り返しのつかないことになる。「お上のやることに間違いがない」というお上コンプレックスから早く卒業しようではないか。「気がつくのが遅かった」「気がついた時は遅かった」というのが、戦争から学ぶべき最大の教訓ではなかろうか。
大韓航空機は、アンカレッジを離陸してから航路を逸脱し始めた。千炳寅機長は大韓航空きってのエースの一人であり、最新鋭のジャンボ機は、完全に独立した超精密のINS(慣性航法装置)を三台も搭載していた。にもかかわらず、この大韓航空機は五時間半にわたり、五〇〇キロ以上に及ぶ航路逸脱をして戦場に飛び込み、遂にサハリン沖でソ連機によって撃墜された。航路逸脱の表示は沢山現れた。まさかと思う結果が生じた。私はこの事件に深くかかわり、東京地裁で二八時間も証言している。この事件を検証するにつけ、「日本列島も大韓航空機のように『航路逸脱』をして重大な危険に向かっている。それを『乗客』はまさかと思い、知らずにいるのではないか」という不安につきまとわれている。乗客は「お上のやることに間違いがない」と信じていた。大韓航空機乗員は「気がつくのが遅かった」「気がついた時は遅かった」。
一九九八年六月一八日(木)午後二時より、私はこの準備書面を書証として証言したい。僅か一時間半の時間しかないが、日本の国家目標つまり「軍事力によらない平和の実現」のために証言したいと思っている。被告たる国の代理人の諸先生、どうかこの準備書面を徹底的に検証の上、反論して頂きたい。「問答無用」だけは御免こうむりたいものである。
一九九八年五月一五日
____________(はじめに)________________