核の技術が未来を開く 掲載されているURL
 核といえば、核アレルギー、というのが対句になっているが、私にいわせると日本には核アレルギーなどほとんど存在しない。あるのはただ、核の無知でしかない。
 といったら、ある誌上で社会党の上田哲氏は、それはいい過ぎだ、と私を咎めたが、いずれにせよ、核アレルギーなるものの構成要素の大部分は大衆国民の核に関する無知と、それにつけこんだ、科学の問題を政治キャンペーンにすり換えた一部ジャーナリズムのつくった、実は科学的根拠のまったくない核拒否のムードでしかない。
 たしかに核兵器は人類にとって有害だし、この使用は何としても防がなくてはならない。しかし人類の二十一世紀における発展のために絶対に必要な平和利用の核もまた、軍事利用の核と同質の、本質的な危険性を持ったものであり、その危険性は、核兵器のそれと同じように非人間的なものだ。しかしなお、それを承知でこの両刃の剣をわれわれが手にしようとしなけれぱ、われわれの輝かしい将来は開いてこないのだ、ということをもっともっと多くの国民が知る必要がある。
 核兵器を殺すことが、平和利用の核までを殺すことになるような愚挙は絶対にしてはならない。ところが、どうも現今の日本人の核に対する心理的感情的態度を見ていると、これはどうにも理性的とはいいがたい。
 たしかに、世界で唯一、広島・長崎の原爆体験は病ましいが、日本人は、日本という近代国家が、というより有史以来千数百年ぶりに生まれて初めて、日本という国が外国との戦争に敗れた処女体験を、原爆によって決定づけられたことに、とんでもない被害感をもってしまって、未だにそれからぬけだせずにいる。
 
ヨーロッバの諸国のように、一世紀の問に、何度も戦争して勝ったり負けたりしているような連中は、一度や二度、国が負けてもしゃんとしていられるし、たとえそれが原爆によったものだとしても(しかし、白人が白人の国に原爆を投ずることは絶対にありえなかったろうし、今後も絶対にあるまいが)、むしろ敗戦後、自分たちをかくも容易に打ち破った原爆がなんたるかを必死になって追求し、気狂いのようにその開発につとめたに違いない。
 それこそが西欧近代主義に裏打ちされた近代国家の態度といえるのだが、日本の場合には、とてもそうはいかず、初夜に初めて男と寝たおぼこ娘が、初体験の苦痛におじけふるえてそれきり尼寺の中に逃げ込んで二度とでてこなくなったみたいに、核というとなんでもおじけをふるい罪悪視するようになってしまった


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『慎太郎の政治調書』講談社1969より
 どうしても一言。後半のたとえもひどいけれど、この人の頭にはとにかくそのことで利益を得る人のことしかないんだなあ、と思います。ウラン採掘地の居住者・従業者の被曝、原発施設内での従業員の被曝、そしてそのために熟練者が決して生まれ得ない(すぐに被曝量が規制を上回って、長く同じ仕事に就けない)という原子力事業の宿命的欠陥など。「あんたに無知と言われたくないよ」です。
(初出は『週刊現代』1969年)