自前の核をもった国 掲載されているURL
 核の拡散が核戦争の危機増大を意味しない、むしろ抑止に働く、という点は私もかねがねそう思っている。だから私は核散防条約などという、結局今、核を保有している国たちだけに好都合の条約には反対である。
 簡単にいって、今の米ソくらい核兵器が進歩してしまい、中共や日本あたりがいくら逆立ちしても追いつけぬほどギャップの開いた状況では、日本が核保有したところで、それを武力としてかざして対等にはり合えるはずがない。いくら愚かな指導者でも僅かな核の引き金を引く馬鹿はしまいが、しかし、少なくとも引き金のついた核をもっていることで、我々は将来起こり得るいろいろな紛争対決を外交的には対等な立場で話し合うことができる。核をもっていなければ、対決の場合、もっていない方が一方的にゆずらざるをえない。
 現在の国際社会の力学の本質、つまり国家的民族的利己主義がエネルギーとなって動いているいまの世界ではそれが常識である。日本人がいくら、敗戦コンプレックスや核アレルギーからひとり聖人になったつもりでいても、相手が以前と少しも変わっていなくては話にならない。
 少なくとも、自前の核をもった国は、厭な、妙な、いい方だが、それを楯にして、紛争対決の相手にだけではなく世界に向かって、駄々をこねられる。どこかの国が間違って引き金を引いてしまったら、紛争当事者国だけではなく、世界中が、とりわけ、世界の超大国、米ソは大迷惑する。だから、彼らは真剣にそのいい分を聞こうとして、仲介にも応じるだろう。
 早い話がベトナム戦争と同じくらい残酷なビアフラの戦争が、日本人をはじめ、あまり多くの外国人の関心を引かないのは、それが武力的に後進国内の紛争であり、世界を巻き込む怖れがないからに他ならない。
 七一年にスエズ以東からイギリスが撤退し、ポストベトナムにアメリカがアジアヘの情熱を喪った後、アジア経営に乗りだしてくるのがソ連であり、現在の敵対関係からしてこれを許すべからざる中共がある時、日本は直接間接に、これらの勢力と、単に経済的な利害関係からしてもさまざまな対決を強いられることは自明である。
 その最中、アジア中近東の水域を日本へ渡る輸出輸入の経済動脈静脈が何かの勢力によって撹乱されたり止められたりした時、いまの国連なんぞにかけあったりしていたら、日本は二月ももたずに干上がってしまう(例えば、日本の石油の原油、製品のストック量は、最大時で四十五日分しかない)。
 我々はこうした日本の経済国家としての性格を、その性格のまま護らなくてはならぬ。そのためには四次防で護衛艦を思い切って強化もするが、加えて、外交の上で相手ヘプラフ(脅し、はったり)をかけられるだけの手の内の札をそろえて置かなくてはなるまい。
 なんと古い、そんな考え方はいま時の新しい世界に通用しない、そんな昔のままの防衛観がかえって緊張を生む、という反論が出るだろうが、いかにも以前のままの一向に斬新ならざる発想だが、しかし、世界の国際紛争の本質は、いまなお、ある種の日本人の期待や楽観に反して、お古いままに本質はどう変わってもいはしない。昔の大艦巨砲を背に負った国際的勢力関係の道具立てが、結局、核兵器に変わっただけではないか。
 本質的にそれが変わったという事実の証はどこにもない。
 しかし、その核兵器の本質的性格は、昔の兵器と違って、前に述べたように、小さく、少なくともとにかく引き金のついたものを一つ持つことで、新しい国際的力学関係を与えてくれる。

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『慎太郎の政治調書』講談社1969より
(初出は『週刊現代』1969年)