あの戦争は、
やっぱり感動的だった


【小林よしのりとの対談】
石原 ぼくなんか海兵の予備校のようなものだった湘南中学にいたから、もう2年早かったら実際に海軍士官として戦っていたからね。
で、最後の夏(1945年)に厚木の飛行場に学徒動員でかり出されたときのこと。1週間もすると兵隊とも仲良くなる。そしてある日、「今日、大空中戦がある」っていう密かな噂がたって、27〜28機いた飛行機が南のほうへ発進していった。でも、なかなか飛行機が帰ってこないわけだ。それで整備兵が「何時までに帰ってこなかったらもうダメだ」なんて言う。なかには木更津に降りたりとか、あちこちでダイブ・アウトした飛行機もあったらしいけれど、電話が不便なところにあったんでそれもよくわからない。/気を揉みながら数人の予備兵が夕焼けのなか、滑走路の端でずーっと座っているわけ。それでも1機は帰ってきたんだ。それが不時着して、みんなで走り寄ってその傷ついている兵隊を運び出すのを手伝った。/あれがやっぱり国家なんだよね。だから何度思い返しても、悲しいとかなんかじゃない。やっぱり感動的だったな。あのとき兵隊さんたちと一緒にしみじみぼくは国家と座っていたんだと思うね(と、ハンカチで涙を拭く)。/それと思い出すのは、学徒動員される前に学校から帰る途中で空襲にあったことね。止まっている電車が見えたんで、そこに向かって走っていたら、麦畑のなかで敵の艦載機に襲われてさ。パァーと伏せるわけ。そこで一人撃たれるんだけど、さらにその先に森があったんで、そこまで走ろうとしたら、今度は畝の低い芋畑のところで、また次の飛行機がくるわけだ。伏せる場所がないからそのまま走っていると、今度は撃たれない。なぜだって、振り仰ぐとそれが日本の飛行機でさ。濃い褐色に日の丸が描いてある。それがとっても鮮やかで、こう震いつきたくなるようなものがしたな。その感覚っていうのは、オリンピックで日章旗があがるどころのものじゃないんだよ。

(1999年8月25日/9月8日号『SAPIO』、小林よしのりとの対談)


【福田和也との対談】

戦争というものを考えてみると、戦争を悲惨だと言って批判するのは容易なことだが、実相としては総力戦を戦うために人知を尽くした結果、さまざまな技術が進歩した。さらに戦場では愚かしいことも、崇高なことも交錯していたはずで、因果なことに人間はそうやって歴史を積み重ね進ませてきた。戦争がまったく起こり得ないというシチュエーションが、人間や国家にとって全き善かどうかは実は分からないんですよ。
(2000年1月4日付『産経』、福田和也との「新春正論対談」)


 1933(昭和8)年8月9日から11日にかけて、東京・埼玉・千葉・神奈川・茨城で「関東防空大演習」が実施された。このように非常時意識が醸成される中で、34年(昭和9)年10月、陸軍省新聞班が発表した『國防の本義と其(その)強化の提唱』「たたかいは創造の父、文化の母である」ではじまっていた。〕