防衛庁記者クラブから見た有事法案

(例会報告:2003.04.25)

 2003年4月25日、平権懇例会が行われ、東京新聞社会部記者の半田滋さんから、有事三法案がいかに作られようとしているか、防衛庁取材の現場からの報告をうかがった。
 衆議院における有事三法案の強行採決が心配される中、活発な論議が行われたが、以下にその報告を収録する。

大内要三

半田滋

 私は1991年に防衛庁の記者クラブに加盟しましたので、かなり長く在籍していることになります。ちょうど自衛隊の海外派遣の時期に重なって、自衛隊の行動範囲が格段に広がっていく姿を見てきました。海外取材もしましたし、制服組と顔をつきあわせて取材するということでは、珍しい経験をしたと思っています。ただし政治部の記者ではありませんので、正直言って今の国会の動き等については良く分かりません。有事法案がここまで来るまでの流れ、それから自衛隊内にある制服組と背広組の摩擦についての話もまじえて、いまどうなっているかをお話ししたいと思います。

 防衛庁の中に記者クラブがありまして、著名な新聞社はみな加盟して、防衛庁の発表を聞いたり取材したりします。今回の有事法制については、ほとんど無関心です。政治部の記者は国会でのやりとりについて取材していますけれども、社会部の立場からすると、去年国会に上程される前後に、有事法制の現場として全国の港湾や基地の近くなどを取材した後は、もう書くことはないという空気が漂っています。とくに去年の秋に修正案が出て、それが議論にならずに廃案になった後は、非常に反応が鈍いように思います。このような報道のまずさからいって、間違いなく成立に向かっていくという感じがしています。もう法案の中身すら覚えていない記者がいるくらい関心がないのです。

 この10年で自衛隊の何が変わったかというと、国内活用のみであった自衛隊が海外で動くようになってきたということが特徴的です。防衛政策も目まぐるしく変化していまして、自衛隊が動きやすいような方向に法律や制度が変わってきた。

 とりわけ冷戦期に目立ったのは、買いそろえる組織としての自衛隊でした。強そうに見せるための護衛艦や戦闘機や戦車を買いそろえて、極東の防波堤としての役割を果していく。西側の一員として貢献したというのが、制服組の一致した意見だと思います。ところがソ連の崩壊に伴って、そのような「張子の虎」が実際に使えるかということになって、役に立つ自衛隊への脱皮が徐々に図られていくわけです。

 その典型的な例が、湾岸戦争の後、91年4月にペルシア湾の機雷除去のために派遣された掃海部隊でした。この時は掃海艇四隻と掃海母艦一隻、補給艦一隻が派遣されました。国会では「自衛隊の海外派遣をなさざる決議」もありましたから、自衛隊が行っていいのかという議論はもとより、武力装置としての自衛隊が行くことの問題点がかなり議論されました。機銃を外して行けとか、船体を白く塗って行けとかの議論がなされたことを覚えている方もあるかと思います。この時には護衛艦は一隻も行っていません。

 92年に国際平和協力法(PKO協力法)が成立して、陸上自衛隊650人がカンボジアに派遣されます。施設科部隊、旧軍で言えば工兵部隊がタケオで、武装解除部隊の後方支援の形で道路や橋の補修にあたりました。海上自衛隊の輸送艦が自衛隊の物資を運びましたし、民間の輸送船も使いましたけれども、護衛艦は行っていません。

 PKOについては、この後にモザンビーク、ゴラン高原、東チモールと続いています。東チモールは国作りです。任務は道路の補修、橋の補修などでカンボジアと同じですが、ブルドーザーの動かし方を教えたり、運動公園の補修をしたり、任務に書かれていないことを堂々とやっています。海上自衛隊の大型輸送艦、「おおすみ」が物資を運びましたけれども、この時に初めて護衛艦が付いていくわけです。ヘリコプターが搭載できる船がないといざという時に不便なので行ったという説明でした。おかしいと追及した新聞はほとんどありません。

 もう一つ、国際緊急援助隊法が改正されて、自衛隊も海外で緊急援助ができるようになりました。輪番になっていまして、陸上自衛隊が半年交替で予防接種を受けて、48時間以内に出発できる態勢をとっています。航空自衛隊では浜松基地にあるC130輸送機が48時間待機と五日待機に分かれてスタンバイしています。アジアでさまざまな自然災害がありましたが、在外公館を通じて各国に打診しても、どこからも自衛隊に来てくれという声がなかったのは、旧日本軍のことがあったのだと思います。ところが98年になって初めて、南米のホンジュラスで役に立つようになりました。

 自衛隊の準備は昭和29年に遡りますが、なにぶん軍備を持たない建前ですから、警察予備隊として始まったのはご案内のとおりです。組織的にも軍隊というよりは警察の補完組織という面がありまして、それは現在にも引きずられています。陸上自衛隊は全国を五つに分けて方面総監部を置いていますが、区切りは管区警察とほとんど同じです。トップの名称も、警察も自衛隊も総監です。38年にようやく師団が生まれて現在に続いていますけれども、歩兵を普通科、砲兵を特科というように、あまり軍隊らしくない名前を使って、国内的には身の丈が小さいように見せてきたという特徴があると思います。

 発足当時は米軍から支給された払い下げの古い装備品ばかりだったのですが、政策的な研究はちゃんとやっていました。昭和30年代の前半には目黒の防衛研究所で、国際法学者などを交えて、海外の有事法制研究に着手しています。昭和40年に「三矢研究」が表面化します。統合幕僚会議の事務局長が座長になって中堅幹部を集めて、朝鮮半島有事が日本に波及した場合、どんな緊急立法措置が必要なのかを研究しました。当時、社会党岡田春夫さんが国会で追及して、シビリアン・コントロールとは何かが強く問われて、二十数名の処分者が出ました。研究もいけないのかという防衛庁側の巻き返しがあって、その後は研究だけなら良いだろうとされていくわけです。

 防衛費は有事法制研究に比例するように伸びてきます。昭35年には防衛予算は1500億円にすぎませんでした。それが五年後には倍の3000億円、10年後には一兆3000億円になります。現在はおよそ五兆円で、ここ数年頭打ちですが、必要な装備を購入し終わった後の頭打ちです。

 有事法制について独自に研究していった当時は旧軍の出身者が多かったのですが、昭50年を境に新旧が逆転します。戦争を知らない、戦争にわだかまりのない世代が自衛隊の幹部になっていきます。その中で53年に福田総理の時代、三原防衛庁長官のもとで有事法制の研究が始まります。防衛出動時の任務遂行に必要な法制は、実は自衛隊法の中にすでに書かれているわけですけれども、残された不備はないかとリストアップする。立法化はしないという前提のもとで研究が行われました。

 その成果は、第一分類については昭56年に発表されます。防衛庁所管分です。他省庁所管分が第二分類で、適用除外が必要だという規定については五九年に発表されました。残る住民保護、避難誘導、あるいは国際法の国内法制は第三分類になっていますけれども、積み残されたままになっています。

 なぜかその後、有事法制は冬眠期間に入ります。これ以上進めても立法化以外には道がないという空気があったのは確かだと思います。ただ、自衛隊法をいじらないでおくと、他の法が変わった場合に陳腐化することがあるので、部分的に名称などを変えています。電々公社をNTTにするとか、国鉄をJRにするとかの手直しです。

 有事法制の話が進まなかった理由の一つは、当時防衛庁内局の精神的支柱と言われ、事務次官にもなられた西広整輝さんが非常なリベラル派で、無理をしなかったからです。当時彼の下にいた人、すでに局長になっていますが、その話によると、有事立法の研究はやらなければいけないが、その成果については金庫に入れて鍵をかけておけ、というのが西広さんの考えでした。私は西広さんにインタビューもしましたが、彼は戦争になってしまえばそこには住民はいないし、取り締まる警官もいない、文句を言う人はいないからそれでいいのです、という考えでした。これは分かりやすく言っただけで、実際には立法化作業によってわが国が混乱する、国会論議するまでにはまだ機が熟していないという判断があったのではないかと思います。

 平成6年、村山内閣のもとで自衛隊は再び目覚めます。首相の諮問機関、防衛問題懇談会が「日本の安全保障と日本のあり方」という答申をまとめます。それまでの防衛庁が日米関係を最初に記述していたのに比べて、最初に出て来るのは国連を中心にした多角的安全保障という考え方です。日本を平和憲法を持つ特別な国と位置づけて、その日本が新しい国際秩序をめざす礎になるべきだと書かれています。これはアメリカからすれば日本のアメリカ離れに見えまして、大変な反発を呼ぶわけですね。翌年、アメリカは「東アジア戦略報告」をまとめまして、アメリカのアジアでのプレゼンスが不可欠だと強調します。 防衛庁もこれは参ったということになって、中堅若手が国防省の人たちと接触を繰り返しまして、95年には周辺事態の概念を盛り込んで「防衛計画の大綱」を見直すわけです。周辺事態が入ったのは、93年に北朝鮮が核問題で緊張して、日本にどんな支援ができるか考えてくれという宿題を投げたところ、ほとんど何もできないことが分かりました。自衛隊基地は貸せないし民間の空港や港湾も貸せない。それは何だという中で、防衛問題懇談会答申が出たこと・u桙熄dなって、このままでは日本が無視されていくのではないかという危機感が生まれて、日米安保の強化が必要だということになったのだと思います。

 96年には日米安保共同宣言がなされて、橋本首相が周辺事態を想定した対米協力措置、四項目の緊急事態対応措置を関係省庁に指示し、翌年の97年に新ガイドラインができていくわけです。新ガイドラインには、「日米両国政府は周辺事態の推移によって日本に対する武力攻撃が差し迫ったものとなるような場合もありうることを前提におきつつ」「周辺事態が日本に対する武力攻撃に波及する可能性のある場合、または両者が同時に生起する場合に、適切に対応しうるようにする」と明記されています。周辺事態と日本有事が重なる姿が徐々に見え始めてきたのが、この新ガイドラインの特徴でした。有事法制の呼び水が、このへんから撒かれていたと見てよろしいかと思います。

 99年に周辺事態法が制定されて、ほぼこれで自衛隊が海外で行う活動の立法化が終わるわけですね。残るのは国内の有事法制しかないわけです。三段論法でいえば、ガイドラインがあって周辺事態法があって有事法制という形で、法律が完結していくというのが好ましいと防衛庁は考えました。

 とはいえ、きっかけがないわけですね。水面下にあった有事法制をどうやって引き上げていくか。これは一昨年の9・11同時多発テロであったと思います。それとほぼ同時に奄美沖に不審船が現れて、海上保安庁の巡視船と銃撃戦を行った末に撃沈されるという、衝撃的な事件がありました。防衛庁は9・11テロより前の9月3日に、防衛局政策課に有事法制チームを発足させます。その一年前には自自公三党が有事法制の推進を官邸に進言して、森首相・小泉首相がともに所信表明演説の中で法制化に言及していますので、形の上では防衛庁がその指示を受けてチームを発足させたことになります。

 
事法制チームにはピーク時で35人いました。中堅若手、いちばん上でも43歳、若いのは27歳くらいです。今年になって突然名前が変わりまして、いまは事態対処法制室といっています。メンバーは23名で、うち専従が14名、残りは他の課との兼務です。室長は人事二課長の高橋さんという方で、この方は今週は毎日新聞が特種を書いたために対応に追われていました。専従14名の中に自衛官は3名います。担当は、現在城邸されている三法のうち、自衛隊法改正案です。

っぽう、今回の有事法案の目玉である武力攻撃事態法案は、内閣官房が担当します。トップは大森敬二副官房長官補、もと防衛庁の局長です。たいへん頭の良い方で、根回しをせずにやりたいことをする、官僚らしくない人です。大森副官房長官補室は、以前は安全保障企画室という名前でしたが、いまは70名の職員がいまして、各省庁からの寄せ集めで編成されています。防衛庁、経済産業省、外務省などで、防衛庁からの出向者がいちばん多くて、自衛官四名を含む二四名です。しかし位置づけは防衛庁の出先ではなくて官邸の下請けですから、防衛庁の言いなりにはならない建前になっています。昨年、防衛庁から将来の事務次官と言われる増田好平審議官が、大森副官房長官補の下につきまして、彼が事実上の責任者となって切り盛りしています。

 53年の有事法制研究の際は、かなり制服組も加わって、リアリティのある研究が行われたと聞いています。今回、特徴的に言えるのは、制服組と背広組の間でまるっきり意見がずれているということですね。主役は制服組なのに、裏方がしゃしゃり出て違う段取りをしているというような関係です。つまり、いま有事法案が成立したとしても、自衛隊は有効な活動はできないと制服組は考えています。有事になった場合、陸上自衛隊が相当に関与することになります。内局のチームや内閣官房に派遣されているのは主に陸上自衛隊です。陸上幕僚監部の中に法規課がありますが、ここで法案を全部分析してしまっていたわけです。9・11テロと不審船事件で、それっというので話が進んでしまったものですから、制服組の意見を聞いて反映する暇がなかった。去年、出る出るといってなかなか法案が出なかったのは、もめていたわけではなくて、急いで書いていたようです。

 制服組が心配する一つは、以前の有事法制研究の時は、西広さんが言ったように、戦場に自衛官、敵国の兵士と日本の住民が混在するこうなことは想定していないのです。みんな避難して誰もいなくなったところで戦争をするという前提でした。戦場に残っている住民の安全を確保しつつ、いかに有効に戦うかという考え方にはなっていないのです。リアリティに欠けると言えます。ジュネーブ条約では、交戦国との協議の中で、非武装地帯、中立地帯を設けることが規定されています。逃げ後れた国民が集団で安全にいられる場所は、相手国に対しても攻撃しないように求めることができるのですが、このことは今回の法案には盛り込まれておりません。

 以前の有事法制研究は国内法の整備に止まっていて、国際法の視点が抜け落ちています。いま審議されている有事法案が過去の有事法制研究を踏み台にしていますから、国際法の視点はない。例えば、国内にいる外国人が交戦相手国の国民であった場合、どう扱うのか。全く想定しておりません。また入国してくる外国人はどうするのか。敵対国の国民か日本に来たいという場合、抑留するのか。避難民が来た場合はどう扱うのか、どの省庁が担当するのか。都道府県に協力を求めて場所を確保するのか、それとも自衛隊の演習場を使うのか。

を聞いた制服組の専門家は、いまの法案は一国で戦っているイメージでしかない、相手国があって、なおかつ国際社会が見つめていることを全く考えていない、と言います。イラク戦争のように、やり方次第では国際社会から非難される戦争もあります。彼に言わせますと、戦争とは何かと聞かれてそれなりに知恵を貸したつもりだが、何も反映されないまま今日に至って、大いに不満だということでした。

年特徴的だったのは、制服組が制服を脱いだことです。プライバシーの時間を利用して背広に着替えて、主だった防衛族、例えば石破茂氏のところへ夜討ち朝駆けをして、自分の考える理念を伝えて理解を求めたということです。しかし法案が出されているわけですから、それを通すしかないというのが隘路です。ドイツでは七年かけて、二度ほど全国民を動員した実動訓練をやって、その中で何が起こりうるかシュミレーションをして、リアリティのある有事法制にしました。

 もし廃案になった場合には、再度立ち上げるのは難しい。だから通した後に修正に力を注ぐ。そういう考え方は恐らく内局にはない。法案が通って有事が発生した場合、何もできない。結局は何も起きないことを望むというところに落ちつかざるをえない。

 去年の暮れごろから、警察と自衛隊が、都道府県警あるいは師団ごとに協定を結んで、テロ攻撃発生の場合の図上訓練を開始しています。北海道から始まって、いずれは全国で行われることになると思いますが、実際にやってみるとえらいことだというのが現場の感覚です。警察には5000分の1ぐらいの地図しかないのですが、自衛隊の持っている地図は詳細を極めるもので、縦横の線での位置、つまりAの3とか言えば位置がわかる。○○商店の隣のセブンイレブン、などという言い方は決してしないわけです。警察にはまずそこからして通じない。場所の説明さえできない、ということでした。

 警察は個人を束ねて組織力になる。自衛隊の場合は最初から組織力であって個人の活動はありません。警官が自衛隊員に何か依頼しても、部隊長に言ってくれということになります。そのへんのトラブルが起きているようです。まだ非公開の図上訓練なので外からは見えませんが、すり合わせが進んでいけば解決することもあり得ると思います。しかしゲリラ・コマンドウについてはいまの有事法案には記されていない。起こらない前提なのか、いまの運用でやる方針なのか、良くわかりません。このままでは法律が通ってもどうにもなりません。


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