平権懇は、2005年9月15日に総会を開催し、
新事務局長に吉田悦子氏を選出しました。
榎本信行代表による記念講演を、ここに掲載します。
砂川闘争の成果と教訓――平和的生存権の視点から
2005年9月15日 平権懇20周年記念総会講演

榎本信行(弁護士、平権懇代表)

 私は歴史的な砂川闘争のころはまだ学生で、五日市街道に座り込んだ一人ですが、まあ夢中で見ているだけでした。1965年に弁護士になってから弁護団に参加して、それから終わりまでやったという立場ですから、しんがりを責任者の一人としてやったということです。
 今日は砂川闘争の概略をお話しして、伊達判決を紹介して、それが平和的生存権の主張に結び付くかどうか、というところをお話ししたいと思います。

●基地拡張に反対する農民の闘い

 砂川闘争の始まりは1955年(昭和30)の5月に、当時の北多摩郡砂川町*、今の立川市砂川町他に、当時の米軍立川基地拡張の通告をされたことです。
*江戸時代初期に開拓され、当初は一番組から八番組までの集落があった。一七世紀半ばに用水ができてから発展。陸軍立川飛行場など軍用施設のため、たびたび土地を接収された。1954年に町制 を施行。
 町は五日市街道に沿って民家が並んでいて、みんな畑を裏側に持っているんです。基地を拡張するとなると、ここの農家の人はほとんど自宅も畑も取られてしまう。そういう拡張計画ですから、それこそ平和的生存権をめちゃくちゃに侵害されるということになるわけです。
 いまはもう半分ぐらいは農業ではありませんけれども、ウドの名産地なんですね。ウドというのは地下に横穴を掘って、そこで栽培する。そういう農地だったから、取り上げられる農家は必死に闘うということになるんです。
 それからもう一つ基地の中に、終戦後アメリカが来て、米軍に強制的に借り上げられてしまった土地がありました。農家が賃貸契約を結んでいるわけです。
 1955年に基地拡張計画が発表されて、当局は拡張予定地を特定するために、まず予定地に入って測量をしなければならない。それで警官隊に守られて測量をしようとする。それを阻止しようというのが例の歴史的な砂川の闘いです。
 ただ激突の砂川は56年まで。何回かは測量を試みるんですけれども、56年の10月に測量が中止になる。その約1年間がいわゆる砂川闘争と言われますけど、実際は拡張計画はその後もさらに進められることになるんですね。
 土地収用法による拡張手続きは、まず内閣総理大臣が収用認定をしまして、それに基づいて土地の特定をするために測量をする。結局は測量ができなくて、その代わりに航空測量をして、それで図面を縦覧する、これは町長にやらせなければいけないんですね。そのあと収用委員会が出る。こういう段取りです。この段階がいわゆる砂川の大闘争です。
 実際はその後の方がたいへんな闘いがあったんですけれども、それはあまり世間に知られていない。僕なんかがやったのは、その目立たない弁護団ということです。
 土地収用法というけれども、実際は安保条約に基づく特別措置法、土地収用等特別法によって収用手続きが進められた。それで、土地縦覧の命令が東京都知事から宮崎伝左衛門町長*に下されるんですけれども、宮伝町長が言うことをきかなくて、東京都知事が訴訟を起こすということがありました。沖縄の大田知事が起こされたのと同じ種類の訴訟です。大田知事の訴訟では僕も弁護団で行きましたけれども、それは砂川の経験があったものだから、それで弁護団に招請されたということになった。
  *宮崎伝左衛門はミヤデンの愛称で呼ばれ、本来は保守派の人だが最後まで基地拡張派対の態度を貫いた。1962年12月、町議会議場で倒れ亡くなった。
 町長の命令違反に対する訴訟については、最高裁でいったん勝つんです。その理由は、町長にも裁量権があると。こちらの弁護団は、安保条約自体が違憲だから、土地収用についての東京都の命令は聞けないというのを理由にしていたんですけれども、それについて土地縦覧の裁量権は一定限度町長にもあるのだから、町長の裁量を全然認めない原審の東京地裁の判決は間違っているというので、差し戻しされるんです。
 最高裁ではだからいったん勝つんですけれども、差し戻しの東京地裁の判決では、やっぱり町長の判断はまちがっているということで、負けるんですね。それに対してまた控訴するんですけれども、控訴してすぐ砂川町が立川に合併になりまして、立川市は保守的な市長ですから、縦覧手続きが進められて、東京都収用委員会に事件が回るということになるんです。

●土地収用委員会での闘い

 東京都収用委員会に回ったころがいちばん辛い時期でありまして、反対同盟*も分裂して、残ったのは23名。1人減り、2人減りというように、非常に淋しい時期になる。そのことは、どうも世間ではあまり評価されないようで。本には派手な時期のことしか書いてない。
*1955年5月6日に結成された砂川町基地拡張反対同盟。切り崩しにより7月末には「条件派」が 現れ、町内で対立した。
 米軍に貸している土地の測量をしようというのが1957年です。基地の中の測量をしようとまた測量隊が入ったんですけど、それを阻止しようとして、基地の柵から学生が基地の中へ入る事件があった。それが安保条約に基づく刑事特別法で起訴された。この事件は伊達判決の元になるわけです。
 立川基地はどうなったかといいますと、その後東京都収用委員会にかかって、収用委員会はもう拡張予定地の図面を掲げて、ここを拡張しますよと防衛施設庁の役人が説明しようとするんですけれども、説明され始めるともうおしまいですから、とにかくそれを阻止しようとして、まあ毎回同じことを繰り返していたんです。
 当時、ベトナム戦争が盛んに行われていまして、今日ベトナムでどこが爆撃されたとか、あまり関係ない話を、尾崎陞先生*とか社会党の代議士とか、毎回違う人にしてもらって、その後に僕ら若手の弁護士が座って聞いている。それで傍聴を満員にする。いかにも展望のないような闘いだったんですが。
*おざきすすむ 1904〜94。戦時中は判事として日本軍国主義に抵抗、戦後は弁護士としてベトナ ム法廷、カンボジア法廷、クラーク法廷等に協力。
 ところが、その収用委員会がある時突然開かれなくなった。何故かというと、その間に美濃部さんが都知事に当選しまして、美濃部さんは基地反対なので、それに影響されて収用委員がシュンとして、開かれないんですよ、現実に。それで米軍が嫌になってというか、米軍の方針が変わって、それで68年、基地拡張を中止するという決定になるわけです。
 ですから砂川闘争勝利のためには、一つは測量阻止ですけれども、もう一つは23人の農民が抵抗した。抵抗する間、町長も縦覧拒否で時間を引き延ばして、それから収用委員会で時間を引き延ばして、というようなことです。最終的には革新自治体闘争が勝利の要因になった。
 バックグラウンドとしてはベトナム戦争があり、それからいま反核と言いますが、当時の原水禁運動、平和闘争と結び付いたということがあります。それらを複合したところで勝利を得られたという感じですね。
 その後米軍は日本に立川基地全部を返還しまして、がらんどうになった基地をどう使うかという議論がありまして、結局は3分の1ずつ使うことになった。3分の1は住民、立川市ですね。3分の1は業務地区、あとの3分の1は自衛隊基地ということで決まりました。現在ほとんどの地域は国立昭和公園、あとは自治大学校や病院などができている。圧倒的に広い地域が平和利用されているというのが現状です。
 基本的には砂川闘争というのはやはり、農民の平和への希求といいますか、それを基本にして勝利した。しかもその土地は全部返ってきて、全部基地がなくなって、現在は平和利用されている。そういうふうに総括できると思うんですね。

●闘争の背景に憲法の平和主義

 次に問題になるのは、砂川闘争の法的背景です。私は早稲田の学生で、農民と一緒に座り込みなどしたんですけれども、その時に農民の人たちが言ったのは、「憲法を読んだことがあるか」と。私は法学部の学生だったんで憲法は読んでいましたけれど、法学部かどうか向こうは知らないから。どうも読んでいない学生が多かったらしいんですね。僕が「読みました」と言ったら、「憲法9条に、軍隊は許されていないと書いてあるじゃないか、それでなぜ軍隊が基地を広げるんだ」と言うわけです。その当時は憲法と言わずに、農民たちは新憲法と、「新」をつけましたね。非常に憲法がフレッシュな時代ですから。
 まだ戦争から帰ってきた人たちが現役で働いている時代ですから、反戦意識が非常に強い。ですから、砂川闘争の思想的背景には、明らかに憲法の平和主義があった。単なる土地取り上げ反対闘争では、あれだけ大きな問題にはならなかった。
 砂川闘争には労働組合もかなり来ました。総評が支援しまして、農民は当時は団結して、学生も、当時の全学連*は分裂していませんから、強固なスクラムを組む。そういう時代ですから、労と学が一緒になって闘うという、理想的なパターンを形成していたわけですね。
*全日本学生自治会総連合。1960年安保闘争時に主流派(社学同系)と反主流派(共産党系)に分裂。三派全学連は、再建全学連・革マル全学連に対抗して中核派・社青同解放派・社学同が1966 年に結成。
 これは法律的に言えば、「平和のうちに生存する権利」を侵害するものに対する闘いというふうに総括できると思います。砂川闘争のころはまだ平和的生存権という言葉を使った人はいないです。星野安三郎さん*が平和的生存権の理論をまとめたのはその後ですから。当時はそういう言葉を使っていませんけれども、時間が前後すれば、平和的生存権という言葉が砂川の農民たちの間で使われたと思うんですね。
*東京学芸大学・立正大学名誉教授、憲法学。1962年に『日本国憲法史考』中で平和的生存権の概念を提起、73年に長沼判決一審判決に採用された。
 平和的生存権と言う代わりに安保条約の違憲を主張して、軍事的公共性を攻撃したということが言えると思うんですね。法廷闘争では、収用委員会の収用認定を憲法違反として闘った。宮伝町長の測量図面の閲覧拒否の裁判でも同じことで、安保条約違憲を主張した。そういうことで、法廷では安保条約違憲が争点になって進められた。

●画期的な伊達判決

 東京地裁の伊達判決*はご承知のように、安保条約を違憲であると断言して、基地内に立ち入った被告人を無罪にしました。その後、もう15年くらい前に毎日新聞の記者が、被告人全員、当時の学生運動の人たちですが、それからどうなったのかをフォローしたんです。いまはお医者さんになったり、社長さんになったり、みんなきちんとやっているんですね。そういう記事もありました。
*1959年3月30日、東京地裁で伊達秋雄裁判長が下した判決。伊達はのち判事を辞して法政大学教授となった。
 伊達判決がどういうことを言っているか。判決文だから聞きづらいかもしれませんが、紹介します。
「日本国憲法はその第9条において、国家の政策の手段としての戦争、武力による威嚇または武力の行使を永久に放棄したのみならず、国家が戦争を行う権利を一切認めず、且つその実質的裏付けとして陸海空軍その他の戦力を一切保持しないことを規定している。」
 というふうに、素直に9条を読むという解釈をしている。そして憲法の趣旨として、
「従来のわが国の軍国主義的、侵略主義的政策についての反省の実を示さんとするに止まらず、正義と秩序を基調とする世界永遠の平和を実現するための先駆たらんとする高遠な理想と悲壮な決意を示すものといわなければならない。従って憲法9条の解釈は、かような憲法の理念を十分考慮した上で為されるべきであって、単に文言の形式的、概念的把握に止まってはならないばかりでなく、合衆国軍隊のわが国への駐留は、平和条約が発効し連合国の占領軍の撤収した後の軍備なき真空状態からわが国の安全と生存を維持するため必要であり、自衛上やむを得ないとする政策論によって左右されてはならないことは当然である。」
 要するに安保条約による米軍駐留を、政策論から合憲としてはいけないと言っているわけです。
「わが国に駐留する合衆国軍隊はただ単にわが国に加えられる武力攻撃に対する防御若しくは内乱等の鎮圧の援助にのみ使用されるものではなく、合衆国が極東における国際の平和と安全の維持のために事態が武力攻撃に発展する場合であるとして、戦略上必要と判断した際にも当然日本区域外にその軍隊を出動し得るのであって、その際にわが国が提供した国内の施設、区域は勿論この合衆国軍隊の軍事行動のために使用するわけであり、わが国が自国と直接関係のない武力紛争の渦中に巻き込まれ、戦争の惨禍がわが国に及ぶ虞は必ずしも絶無ではなく、」
 ベトナム戦争がまだ問題になっていない時期ですから、非常に先見的な判断をしているということが言えると思います。
「日米安保条約によってかかる危険をもたらす可能性を包蔵する合衆国軍隊の駐留を許容したわが国政府の行為は、『政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意』した日本国憲法の精神に悖るのではないかとする疑念も生ずるのである。」
 このようにして、安保条約を違憲と判断した。伊達判決を現在の目で見ると、非常に素直に憲法を解釈して、その後のいろいろな事態を予想しながら非常に明快に憲法論を展開したと言えます。
 ところが伊達判決は跳躍上告されまして、最高裁で廃棄される。最高裁は統治行為論を使って、「安保条約は一見明白に違憲とは言えない」としてますけれども、しかし合憲判断はしてないわけですね。現時点にいたるも、合憲判断はまだ出てきていない。
 現在の段階で見ると、砂川闘争の情熱と、それから時代を反映して、東京地裁の3人の裁判官が非常に清明な目で解釈していると言えると思います。

●平和的生存権を豊にする

 当時、平和的生存権の理論が発展していれば、当然に土地取り上げは平和的生存権の侵害だという立論から始まったと思います。平和的生存権を侵害するのは法的には結局、軍事公共性、憲法上で9条を制限するのは公共の福祉ですけども、その公共の福祉の内実として軍事公共性を対置する。横田基地訴訟でも、爆音を受忍すべしとする理由として、軍事公共性を言っていますね。そういう意味で、軍事公共性に対抗する権利はすべて平和的生存権の内実として主張していると言えます。
 今後、平和的生存権を豊かにするという場合、イラク派兵反対訴訟も含めて、やはり軍事公共性に対置する理論を総括して、平和的生存権を主張する。横田の爆音、夜は静かにということ、あるいは砂川のように土地を取り上げるなということ、あるいはイラクのように国民を再びイラクの戦火にさらさないと。その他いろいろの権利主張を包括して、平和的生存権というカッコでくくる。そういう闘いを進めるべきだと思います。
年表
1955年 5月 4日
    5月 8日
    5月12日
    6月30日
    9月 5日
    9月14日
    9月17日
   10月14日
   10月22日
   11月 5日
1956年 3月 1日
    7月 4日
    7月16日
    7月21日
    8月13日
    8月24日
    9月13日
    9月27日
    9月29日
   10月 4日〜
   10月13日
1957年 6月26日
    9月27日
1958年 1月31日
    8月27日
1959年 3月30日
   12月16日
1962年6月13日
1964年 4月 1日
    4月27日
    6月17日
1965年 2月 7日
1967年 1月17日
    4月15日
    5月28日
1968年12月19日
1969年11月30日
防衛施設庁、宮崎砂川町長に立川基地拡張計画を非公式通告
拡張予定地域の関係者が基地拡張反対同盟を結成
砂川町議会、基地拡張反対を全員一致で決議
測量隊をスクラムで阻止
砂川町基地反対支援労協結成
強制測量に機動隊出動、検束者・負傷者続出
砂川町議会で条件派との間で激論
鳩山首相、土地収用法による収用認定
反対同盟、収用認定取消し請求の行政訴訟を提起
強制測量で検束者・負傷者続出、16本の杭を打たれる
条件派、協力謝礼金と移転日で合意
東京都土地収用委員会、土地収用裁決申請の写しを宮崎町長に送達
宮崎町長、申請書の公示・縦覧を拒否
安井都知事、宮崎町長に公示・閲覧手続きを行政命令
安井都知事、町長に代わり職務執行命令を東京地裁に請求
原水禁大会に出席の外国代表、砂川を訪問
全学連、砂川闘争支援を声明、毎日3000人動員を発表
社会党、砂川闘争全面支援を決定
総評、現地動員態勢を発表
測量隊が出動、激突が続く
官房長官、防衛庁長官らの会合で測量中止を決定
基地内測量開始
基地内測量阻止の労働者・学生逮捕(刑事特別法事件)
安井都知事、基地内土地収用で町長に代わる職務執行請求訴訟
安井都知事、町長の職務執行命令違背確認訴訟
刑事特別法事件で安保条約を違憲とする伊達判決
最高裁、伊達判決を破棄、地裁差戻し
収用認定無効取消し確認請求公判始まる
砂川町、立川市に合併
東京都収用委員会第1回審理
基地内土地返還請求公判始まる
米軍機、北ベトナム爆撃を開始
三派全学連、砂川に登場
東京都知事選で社共推薦の美濃部が当選
共産党系・反戦系・現地反対同盟がそれぞれ別個に砂川集会
米軍、立川基地拡張計画中止を発表
米軍、立川基地からの飛行部隊撤退を発表

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