アフガン空爆調査 報告

(ハーグメーリングリストから転載します。)
 伊藤和子です。私たちが1月7日〜14日に行ってきた法律家調査についての概要報告です。

2002.02.12

1 法律家調査団の概要

 アフガン空爆に反対する活動をしてきた弁護士7名(山本真一、神田高、田中隆、大久保賢一、上山勤、仁比聡平、伊藤和子)が、1月7〜14日、パキスタンに調査に入りました。自由法曹団という法律家団体の調査団として現地で活動。

 調査団のうち3人は、イスラマバードペシャワール、4人はクエッタペシャワールで調査。

 イスラマバードでは、国連難民高等弁務官事務所、日パ旅行社の督永さんがやってらっしゃる「アフガン難民を支える会」の案内でアフガン居留地、ジャパン・プラットフォーム、法律家との懇談などをしました。クエッタでは、国境付近−カンダハルに程近いチャマンの「ランディ・カレーズ」キャンプに行き、難民の人々のお話を聞いたあと、「ガーディアン」というアフガン人が構成するNGOと懇談。

 ペシャワールでは、国境付近−トラボラジャララバードに近いコトカイ・キャンプ(トライバル・エリア)へ行き、それから、ぺシャワール会、RAWA、センター・フォー・ストリートチルドレン・アンド・ウィメン、JEN、JEFF等のNGOを訪問。

2 コトカイ難民キャンプで

 私たちはペシャワールから「トライバル・エリア」に入り、アフガン国境沿いの「コトカイキャンプ」に行きました。ここはジャララバードや、トラボラといったところから近い位置にあります。キャンプは11月19日に出来たばかり、みなパシュトゥン人でアメリカの空爆開始後にアフガンから逃れてきた人々です。ポリオで足を無くして、ものすごい経済的困難の中で、空爆にあい、避難してきた、そういう少年に会いました。

 私たちは、UNHCRの紹介で、キャンプの長老の皆さん7人くらいに集まってもらって話しを聞きました。

 「みなさんの中で、アメリカの空爆で、村すべてが廃墟になったのをみた方はいませんか」と聞いたところ、みんなが当然のように「たくさんある」といくつも地名を挙げるんです。そして、それは何の軍事施設もないところだ、と言います。

 そして、トラボラから10キロ離れた町から逃げてきた人から聞いた話なのですが、トラボラ、というのはアルカイダの巣窟だということでアメリカが絨毯爆撃やり放題、というところですが、実は、トラボラには多くの村があり、沢山の人が住んでいた、というのです。そして、その村や集落の中心にデージーカッター爆弾が投下された、というのです。デージーカッターは半径500mを一気に無酸素化して皆殺しにする、核兵器につぐ大量殺戮兵器です。これを民家が密集するところにどんどん落としている。長老の人は、逃げてくる最中に1000人くらいの死体を見た、と言っています。

 人のすむ村にこんな大量殺戮兵器を公然と落とし、多くの人を殺戮する、これは大量虐殺・ジェノサイドであり、戦争犯罪だと思います。トラボラジャララバードのあるニングラハル州ではデージーカッター以外にも、巡航ミサイル、ナパーム弾、クラスター爆弾が使われたといいます。このように最新兵器を無抵抗の人々の住む村にどんどん投下してアフガンの人々を虫けらのように殺すことが許されるのか、私達はこのことに黙っていていいのか、と非常に憤りを感じます。何故メディアはこれを報道しないのか。私達この時代に生きる者の責任としてきちんとこの戦争犯罪を告発すべきだと思っています。

3 ランディ・カレーズキャンプで

 私達はクエッタから国境の町チャマンに入りました。ここはアフガンのカンダハルから近いアフガン国境の町で、アメリカの空爆以後たくさんの難民が空爆を逃れてアフガニスタンから流入し、現在2万7000人の難民に対応するために最近新しい4つのキャンプ(ロガ二1、ロガ二2、ランディ・カレーズ、ファルージー 各1万人収容)が作られています。私達は、このうちのひとつ、「ランディ・カレーズ・キャンプ」に行きました。

 ランディ・カレーズで生活する人たちは大人も子どもも裸足、テントは簡単な覆いと、土にシート一枚敷いただけの粗末なものでした。
 私はこのキャンプで、マザリシャリフから近いダルザブ村と言うところからきた人々の話を聞きました。この村は10月25日以降10日間、地面に5フィートの穴をあける大型爆弾が連日投下されて村全体が壊滅し、200家族が果てしなく遠いこのキャンプまで逃げてきたのです。タリバンの軍事施設は全くなかったといいます。

 私は、テントの傍らの地べたに茫然と座り込んでいた難民の女性に「一言だけ」話をすることを許されました。表情に深い疲労と苦悩がはりついているような女性でした。
 彼女に「今一番何を望みますか」と聞くと、「家に帰りたい。平和がほしい。尊厳を取り戻したい。私達はこれまで平和に暮らしてきたのですから」との答えが返ってきました。その言葉は胸に響きました。この人は私達と同じ人間、平和に、尊厳をもって生きてきた人間なのです。戦争は、この人達から、平和も、家も、人間の尊厳をも奪ったのです。

4 法空爆から生き残った子どもや女性達

 生き残った人々も戦争の被害者です。私達は、アフガンのストリート・チルドレンと女性のための教育・訓練施設を訪問し、生き残った女性や子どもの被害を聞きました。

 空爆から生き残った女性や子ども達の中には空爆のトラウマで、毎晩悪夢に悩まされたり、小さい音にもパニックになったり、ものがしゃべれなくなる、そういう人が少なくないといいます。
 ストリートチルドレンの施設で、トラウマを抱えた子どもにあえますか?と聞いたら、先生が連れてきてくれました。でも、その子は、自分の後ろでドアを閉めようとするわずかなギギ、という音に驚いて叫び、混乱して逃げてしまいました。空爆の金属音が彼にどんな恐ろしい記憶を与えたのか、どんなに大切なものを奪ったのか、本当にこの出来事は忘れることができません。

 ブッシュ夫人はアフガンの女性を抑圧しているタリバンへの空爆は正義だ、と言っているようですが、それは全く愚かな話です。よくブルカのことが言われますが、これは昔からの伝統的な衣装です。圧倒的多数のアフガン人は貧しい農村に住み、教育も行き届かず女性にはそもそも「女性の権利」という発想があまりないのです。
 彼らは遅れた貧困な生活を送っていたかもしれないし、女性も先進国の女性のような自由はなかったかもしれない、けれど家があり、家族があり、生活があった。それを突然何の責任もないのに空爆され、家族を殺され、家を破壊され、祖国を奪われ、精神をずたずたにして未来をも奪った、そういう権利はアメリカにはありません。どんなことを言っても正当化できない、絶対に許されない、このことを曖昧にしてはいけないと思います。

5 法戦争によって平和は創れない

 私達は、クエッタを本拠に活動するNGO「ガーディアン」の人々と懇談しました。このNGOは、アフガン人の若い人々135名で構成されるNGO、三分の一は女性です。アフガンの民族、宗教、出身地の違いを乗り越えてアフガンの再建のために、難民支援、教育、地雷教育等の分野で活動しているNGOです。彼らは現在直面している問題として、深刻な治安の問題を話していました。

 NGOガーディアンは、「カンダハルでは市民がみんな武装している。治安は最悪である。そのため国際機関が援助を躊躇している」と言っていました。内戦と、諸外国の過剰な武器援助によって、武器庫は常にいっぱい、パシュトゥンへの仕返しに対する恐怖や、盗難、強奪の危険から、みな武装しているといいます。

 内戦、空爆、政変・・命を脅かす危険の中で市民が武器で身を守るのは無理からぬ心情だと思います。イギリス軍などが武器の回収をしていますが、強制的な刀狩は逆に大きな反発につながりかねず、援助・復興の障害になっているといいます。戦争・破壊、そしてタリバンの崩壊によって、平和が創られた・・・そのようなことでは全くないのだと、実態を聞いてよくわかりました。

 私達は「活動している皆さんどうしで、こんなふうにアフガンを再建したいという夢を語り合ったりすることがあると思います。どんな国にしたい、という希望をもっているのですか」と聞きました。
 ガーディアンの人々は「One Nation−人種、民族、宗教、地域の違いを乗り越えたひとつの国になること」と言っていました。そのような国をつくるために彼らが強調していたのは教育の重要性でした。

 「アフガン人としての連帯感を持てるような教育をしていかなければならない。これまで長い間、アフガンのそれぞれの民族は民族浄化される恐怖に怯えて生きてきた。子ども達は、南の子には角がある、北の子には尻尾がある、と思い込まされ、それぞれに恐怖感を持って育っている。その恐怖を取り除き、アフガンの同じ一員として共生する教育をしていくことが必要だ」と彼らは言っていました。

 平和も人権も、まず人々の心の中に構築されるべきもの。どんなに地道で時間がかかっても、平和的な対話による意識の改革、教育なくして実現することはできない。
 戦争がもたらすのは破壊と死、悲しみだけであり、戦争が平和をもたらすことは決してない、と改めて思いました。

6 報復戦争以前のこと

 私達はアフガンの女性団体RAWAに会いましたが、今後のアフガンに自由な政権ができるのか、深刻な危惧を表明していました。
 北部同盟の支配した1992年〜1995年の間の時代には、女性の強姦や虐殺、誘拐等筆舌に尽くしがたい蛮行が全土に繰り広げられた、と言っていました。
 女性や人が集団でコンテナに入れられて焼かれる、目をくりぬかれる、頭をぶち抜かれる、女性に対する集団的な強姦や、女性を男性の前で裸で歩かせる、出産を公開で行うなど・・・。
 だから北部同盟のカブール制圧後若い女性やその家族は恐怖に慄いている、民族同士の新たな虐殺も発生している、と訴えていました。北部同盟は暫定政権の中枢を占めています。これからこそ、アフガンの真実を知り、監視してほしい、暫定政権ができてめでたしめでたしで忘れないでほしい、と訴えていました。

 また、私達はぺシャワールで生活するアフガンの知識人で、政権協議にも参加した人と懇談しました。私が、「ソ連侵攻前は民族対立は先鋭化していなかったのでは?」と聞いたところ、「ソ連撤退後、大国が自分とつながりのある勢力を政権につけようとして、民族対立をあおり、介入し、内戦をおこさせた。」と話していました。

 「その後貧しさの中で、アフガンはテロ組織の訓練組織がおかれ、テロと麻薬の温床になった。アメリカや諸外国はこの事実をいくら訴えても『アフガンのことはアフガンで解決すべきだ』と無視し、何もしてくれなかった」

 「実は、昨年の9月11日も私は国連でアフガン問題の会議を行い、アメリカやドイツの代表とやりあっていた。
 その時も彼らは『アフガンのことはアフガンで解決すべきだ』と言っていた。ちょうどそのとき、同時多発テロのニュースがもたらされました。私は『これでもアフガンのことをほうっておくのですか』とアメリカの代表に言ったのです」
と言っていました。

 アメリカはその後アフガンを無視することをやめ、その代わりに空爆・殺戮を開始したわけです。

7 ペシャワール会

 NGOの中で最も感銘を受けたペシャワール会の活動についてご紹介します。皆さんご存知のことと思いますが、ペシャワール会は、日本人中村医師が1984年にパキスタン・アフガニスタンの人々の医療活動を開始し、現在、ペシャワールに1つの病院、アフガンに10の診療所をもって活動しています。

 医療活動のほかに井戸掘りや灌漑事業もされているのですが、アフガンの農村での医療活動の中で、この国の人々の健康のためには、貧困と栄養不良をなんとかしなくちゃ、というところから始まったそうです。アフガンはずっと旱魃で水がない。用水路もかれてしまって農業ができない。そんな農村をよみがえらせるために、井戸を掘って地下水をくみ上げる、という地道な活動をずっとされています。

 非常に感銘を受けたのは、あくまでアフガンの人々の自立を長期的な視野でみてアフガンの人々を主人公にしたプロジェクトを行っていることです。医療活動でもアフガン現地スタッフを採用・訓練して医療スタッフにする、井戸を掘るときも、どこの村でも村の人には4人の選んだ人にしかお金をあげず、村のみんなに働いてもらう。
 「これはあなたたちの井戸だ」と村の自立のための井戸の必要性をよく話してわかってもらって一緒に井戸を掘る。そういう活動のなかで、ペシャワール会のプロジェクトがいかにアフガンの人々にとって重要なものか、現地スタッフを通じてアフガンの人々がよく認識し、絶大な信頼を得ているようです。

 アフガンで空爆が始まり、日本人に退避勧告が出たとき、中村医師はカブールの5診療所をしばらく閉鎖しようと提案した。しかし、アフガン人の医師たちが、空爆で医療を必要とする人がさらに増える、閉めるわけにいかない、と言って、日本人スタッフとは涙の別れをして、ひとつの診療所も閉鎖せずに頑張ったそうです。
 それから、この冬、飢餓で100万人以上が死ぬのではないかと言われていたのに、アメリカの空爆がはじまった途端国際機関が一斉にアフガンから手をひいて食糧援助をストップしたといいます。
 飢餓に瀕するアフガンの人々がいるのに、大きな国際機関が何もしない、ということにペシャワール会の皆さんは愕然とされたようですが、それじゃあ、自分たちがやるしかない、ということで、ゼロから、日本で寄付を集めることにして空爆の最中もアフガンに食糧を運び続けたといいます。
 ペシャワール会のアフガン人の事務長さんは、「アフガンの多くの人たちは、アメリカが落とした食糧を食べるくらいなら飢えたほうがいい、と考えて燃やしている」と言っていました。

 空爆を公然と批判することもなく、食糧援助から手を引いて、今になって突然カブールにやってきた国際機関はあまり信用されていない、食糧が強奪され、事務所は襲われて何もかも盗まれている、といいます。
 しかし、空爆中もアフガンのために尽くしてきたペシャワール会に対しては強奪や盗みの被害は全く出ていないそうです。いまや、カブールは援助団体がたくさんきて家賃も高騰している状況。ペシャワール会では、こんなときこそ、もっと援助を必要としているところへ、ということで、アフガン東部(冒頭で空爆の被害についてお話したニングラハル州)での医療に力を注がれるそうです。ポリオ・ワクチンするには冷蔵庫が必要、けれど電化がされていないのでそれもままならない、という地域に診療所を増やそうとしているそうです。

 強奪と言うのは悲しい話です(そういえば、アフガン国境では、大量の物資を積んだトラックが何故か、アフガンからパキスタンへと流入していました)が、私は、これまで筆舌に尽くし難い飢餓や戦争といった苦難を国際社会が助けなかった、空爆中も殺戮を黙ってみているだけで何もしなかった、それが突然やってきて「上からの」援助を施す、こういうやり方にアフガンの人々はどんな思いでみているだろう、と思いました。

 日本の公共事業と変わらない巨額プロジェクトの「上からの」援助がアフガンで苦しむ人々の頭越しに消えていく、とんでもない事態になりつつあります。アフガンの人々を同じ心をもった人間、地球の対等なパートナーとして見て、アフガンの真実に関心を持ち続け、あくまでアフガンの人々が自立できる国づくりを手伝うという視点での援助を考えること、そして我々の無関心が生んだこの著しい不正義、そして戦争を二度と起こさせない力をつくること、が求められていると思いました。  
            以上

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