イラク派兵違憲訴訟の会・東京 総括
 自衛隊のイラク派兵という政府の行為に対してイラク派兵違憲訴訟の会・東京は「本人訴訟」による「リレー提訴」という他に例を見ない方法で裁判闘争を始めた。この狙いは主権の行使を選挙だけでなく司法の場でも実現させることであった。原告数約100人(100事件)で東京地方裁判所の13の部に係属し、おおよそ2年にわたって口頭弁論を展開した。このことは目的の一つを達成したと言える。だがもう一つの目的であった自衛隊の「海外派兵」について一人でも多くの裁判官に「憲法違反」の判断をさせることは控訴審1人と上告審4人の仲間を除いてすべて棄却、却下された。

 今回の闘いでは途中から緩い連帯でしたが全国の仲間と手をつないで闘かった。名古屋地裁の第7次訴訟では平和的生存権について「憲法9条に違反する国の行為によって個人の生命、自由が侵害されず、又侵害の危機にさらされない権利、同条に違反する戦争の遂行ないし武力の行使のために個人の基本的人権が制約されない権利が、憲法上保障されている」と初めて示された。東京地裁でも「精神的被害が賠償の対象になりうる」との判決を手にすることが出来た。

 人格権について「憲法前文及び9条の法文並びにそれらの歴史的経緯にかんがみれば、憲法の下において、戦争のない又は武力行使をしない日本で平穏に生活する利益(かかる利益を平和的生存権と呼ぶか否かは別として)が法的保護に値すると解すべき場合がまったくないとはいえず、憲法九条に違反する国の行為によって生活の平穏が害された場合には損害賠償の対象となり得る法的利益(人格権ないし幸福追求権)の侵害がある」としていて、生活の平穏が害されたというかなりゆるやかな基準を作っている点で、今後の憲法裁判運動に大きな力になる判決を得た。全国で闘った成果であり。まだ、残されている地域でさらなら前進を期待しよう。では経過を辿りながら成果と教訓を残していこう。

■提訴まで

 2003年11月、軍事費を強制徴収された件に対する裁判を行っていた人が、一審敗訴をきっかけに自衛隊のイラク派兵に対する違憲訴訟をしたいと発言。この発言を受け、訴訟を支えていた「良心的軍事費拒否の会」「日本友和会」「平和のための裁判を考える会」「テロ特措法・海外派兵は違憲市民訴訟の会」の仲間と内田雅敏弁護士ら数名で議論を開始した。議論ではこれまでの違憲訴訟の経験からメ門前払いモを避けることと、裁判所に違憲判断を迫る新しい論理を確立することに関心が寄せられた。

 ここには、過去、湾岸戦争に対する日本政府の出費を違憲とする市民平和訴訟やカンボジアPKO違憲訴訟、掃海艇違憲訴訟、ゴラン高原PKF違憲訴訟などに関わってきた人たちが参加。

 2004年1月、北海道で元郵政大臣の箕輪登さんが提訴。続いて名古屋が集団訴訟をめざして原告募集を開始した。このことによって関東近県の方が名古屋の原告に名を連ねだした。2月、名古屋の提訴。

■提訴

 米英のイラク攻撃から1年後の2004年3月17日、東京でも前田哲男さんを一人目として、「本人訴訟でリレー提訴」に踏み切った。本人訴訟ということの難しさもあったが、反戦平和への願いや無法への危機意識などさまざまの思いを持った原告が集まった。弁護士も原告に加わった。

 この時点で論議が提訴に集中し、裁判の中身、併合のことなど、運動をどう進めるのかという議論が不十分であった。
 素人による訴訟をサポートするために、原告同士で裁判官や被告もつとめた法廷リハーサルビデオの作成も行ったが、毎日提訴に力を割かれて、ビデオなどが十分活用されたとは言い難い。

 連続提訴は参議院選挙までで打ち切った。この時点で新しく集団訴訟を立ち上げ、弁護団を拡充する選択肢もあったかもしれない。

■継続と全国訴訟との連携

 この年の8月に札幌で開かれた全国弁護団会議では、東京訴訟が本人訴訟であったため心配する発言があった。
 同時に全国で次々提訴されてくる訴訟の原告同士の交流も模索されはじめ、その後、全国弁護団会議が行われるごとに原告の交流も行われるようになり、東京の原告も参加した。

 第一回の全国原告団会議の前から東京に来られて打ち合わせをするなど名古屋訴訟団の終始変わらぬ熱心なサポートには敬意を表したい。

 メーリングリストなどを通じて全国の訴訟と、情報交換や、各地の尋問調書や書証の相互活用も行われた。
 情報交換には、はじめ郵便だけが使われた。途中からメーリングリストによる情報・意見交換が始まり、これは書証の作成(弁護団作成のデータを送って個人の書面に活用するなど)にも大いに力を発揮したが、インターネット環境を持たない原告・会員との情報量の差は縮められなかった。
 その解消のために何度かFAX通信の提案がされたが、これに別の力をさく余裕のないこととFAXを持たない人への情報提供の問題も指摘され、実現しなかった。

 2004年、大阪訴訟が招聘したイラク人原告を囲む集会も行った。2005年秋、首都圏の他団体と共にイラク派兵に反対する集会を開催。原告の安川寿之輔さんの講演やフリージャーナリストのイラク現地報告などを行った。名古屋訴訟・山梨訴訟からも参加を得た。

 06年春には東京で全国弁護団会議が行われた。
 また、全国共通のチラシづくりが行われ、全国で5万枚が配られた。07年春3月には自衛隊イラク派兵差止訴訟全国弁護団連絡会議が「編著」した「イラクの混迷を招いた日本の“選択”」が刊行された。21日に行われたワールド・ピース・ナウの集会で早速、販売した。

■第一次の代理人方式への転換

 一人の原告が、一回の弁論での結審を言い渡される。これに危機感を持った弁護団は原告全員に代理人を付けるように要請し、一方、各部に担当弁護士を配置した。その結果、結審を言い渡された原告の弁論再開につながった。弁護団は裁判長に面会を求め、書面を度々提出するなどの取り組みを展開し、弁論再開を手にした。

 また、慣れない法廷に対する助言を受けて力を得た原告もあった。しかし、途中からの代理人付きには、訴訟方針の整理など無理な点も多々あったようだった。原告の中には「事務局からの要請」と誤解した原告もいた。事務局としてもう少し丁寧な説明をすべきであった。

■併合と第二次の代理人付きへの転換 そして本人尋問

 2006年2月に民事43部で突然、結審が言い渡された。裁判所は証人申請をすべて却下。

 ここに至って弁護団から「各部ごとに併合して代理人を付けたい」との強い要請が行われた。代理人がいなければ、最低限の本人尋問さえできないというのが理由だった。これについては事務局内や原告から異論が出て、原告を大いに悩ませた。総会などで話し合いを重ね、事務局は原告の希望を尋ねるアンケートを行ったりしたが最終的に原告本人の判断に任せることにした。結果的に13人が代理人をつけない形で残った。

 そして3人の本人尋問が実現し、他の部でもその尋問調書は活用された。

■一審の終結と控訴・上告

 2005年10月を皮切りに、次々と一審の判決が出始める。一部で「精神的被害も損害賠償の対象となりうる」との判断を得るが、結果は全て違憲判断:却下、損害賠償:棄却というものだった。

■最後に

 会として共同代表、運営委員、事務局を置いたがそれぞれ任務分担があいまいになり、事務局に負担が掛かり過ぎた。また、さまざまな理由から事務局員が減少し弱体化した。そこで、後半は「拡大事務局」で対処せざるを得なかった。これらのことから運動の拡大に“手”を回せなかったことは悔やまれた。これだけの運動をする以上、事前にしっかりと論議し確立させておくべきであった。



「イラク占領やめよ 戦(いくさ)行くな自衛隊
派兵・再延長をゆるさない9・29集会」
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