【追震災体験2】 95/ 1/19 20:27 |
あの日々を思い出すことから 次の五年へ歩むため この文章は神戸市長田区で私が被災した体験を、 震災直後から発信してきた文章にコメントを付加して 「追震災体験」と題して5年後の同日に再発表していくものです。 下記各メーリングリストとマスコミ関連そして私のWebページ に公表していきますが、転載も歓迎します。ぜひ転載してください。 ● mlx 震災復興メーリングリスト http://www.kitanet.com/ML.html ● Kobe-trial メーリングリスト ● aml オルタナティブ運動情報メーリングリスト http://www.jca.apc.org/~toshi/aml/intro.html ●とーちのページ http://toach.org/ |
生きてます。2<とーち> ★内容 19日にUPしてから、その夜に再度UPしようとすると、もう電話がつなが らなくなってしまっていました。まだまだ不安定なようです。 電気がなかったときは、色々と書き込みたいことがあったのですが、今となっ てはよく思い出せません。電話は、電気・ガス・水道などと違って、障害がおき ているかどうかにかかわらず回線をつなぎっぱなしにしておけるためか、地震の 直後でも使えました。地震の2時間後にいきなり東京から電話がかかってきて、 びっくりしたものです。その代わり、いつもつながるというわけにはいきません。 気の付いたことをランダムに書きます。 私の住まいは鉄筋4階建ての貸しマンションですが、比較的新しく建てられた こともあってか、建物自体はビクともしませんでした。(少なくとも見た目は) とりあえず、これがなにより幸いでした。 火事は恐かった。地震の直後、私の住まいの東側約300m、西側約400m で火事が起こっていました。結局これらの火事は他の火事と統廃合をくり返しな がら30時間以上も燃えつづけることになるわけです。 私の住まいに火が回らなかったのは幸運としかいいようがありません。 とはいうものの、地震の後、夜が開けてから私の近所でもかなりガス臭がして いたため、みなさんがいろいろ手をつくして元を確かめたりしていました。この ときに、うっかり引火していれば、私のところも火事となっていたでしょう。い ったん火がついてしまえば、水が止まっているので、消す手だてはないのですか ら。ちなみに、私の家の浴槽にはほぼいっぱいのお湯があったのですが、地震の ためにフタもふっとばされて1/3しかのこっていませんでした。また、ビルの 場合は水道タンクのパイプがちぎれたりして、タンクにのこっている水も使えな くなっていたりしています。私のマンションでは、このために水道が供給される ようになっても、各家庭内の蛇口からは水はでません。 地震後、最初の日と次の日は、天気は晴れているのですが、火災の煙のために 日差しはどんよりとくもっていました。 精神的には、余震の恐怖と電気・ガス・水道のないことがたいへんなダメージ です。 余震は、マグネチュード6程度の余震の可能性があるとのことで、再度、あの 恐怖がやってくることを想定せざるを得ないため、気が抜けません。具体的には、 火を放置できないため、ろうそく(キャンプ用の携帯型ランタンを使っていたの) を燃やしている間はかならず誰か起きているようにしていました。 この余震の恐怖というのは、ほんとに筆舌に尽くしがたいものです。余震とい ってもこれまでの最大は震度4近くに達していて、それだけでも十分恐怖(関西 人にとってはとくに)なのに、そろそろくるかなぁ、と思っているとちゃんとく るわけですよ。ヒッチコック効果最大なわけで、疲れ果ててしまいます。 電気・ガス・水道が止まっているということは、暗い・寒い・心細いというこ とです。今回は月がかなり大きかったのですが、煙でほとんど見えませんでした。 暗いことは、暗闇になれていない都会の人間にはそれだけでダメージを与えます。 しかも、冷えこんで寒く、水がない、入手する方法が確保されていない心細さに 余震の恐怖が合わさって心労は極みに達します。 水がないことも、遭遇しないとわからないことでした。トイレを流すのも、汚 れた手を洗うこともできなくなるのです。私は、風呂の水を節約して使えたので まだましでした。 報道のヘリコプターが各社いりみだれて、いれかわりたちかわりやってくるの にはほんとに、閉口します。おまけに長田はメインターゲットらしく低空で飛ん でくるのでローター音でラジオも聞こえません。精神的にまいっている時に、あ の音は、傷害行為に匹敵します。さすがにヘリ同士がぶつかったりの事故はあり ませんでしたが、これまでそういったこともあったわけで、このような場合は、 各マスコミで代表して1機にするなどの措置を行うべきでしょう。 前回書いた、斜め前のビルに閉じこめられた人は、救出されたようです。ただ し、生きて、かどうかは分かりません。地震のあった午後、女性の方がこのビル に向かって、おとーさーん、と2時間ほど叫びつづけていたのが、耳にやきつい ています。おそらく、返事がないので、他の場所にいる可能性を確かめて、やは りここにいるはず、ということになったのではないかと思います。私が生きてい る、ほん、10m先で。 こうしたことはめずらしいことではありません。倒壊した家は、あちこちにあ ります。今日で3日目になりますが、葬儀は未だ見たことがありません。それど ころではないのです。もっとも私の住居の最寄りの寺は、本堂ごと全壊していま すが。 ます。この地区の重要な産業であるケミカルゴムの工場も、のきなみ壊滅して います。多くの人々が、即、失業することになります。 消火活動は混乱に続く混乱だったようです。私が生きてきた菅原は、戦後5〜 10年を経て建てられた木造2階建が連なる地域で、前から火がでたら一蓮托生 であろうと思われていた場所です。それでも、地域の人々はそれだけに日頃から、 備えをしていたので、水さえあれば、ここまで燃えることはなかっただろうと思 います。 消防車は、水がないので、500mほど離れた新港川から汲みだそうとしてい ましたが、水がホースの高さほどしか流れていないのです。けっきょくろくに火 を消せないので、2kmほど離れた海から汲みだしましたが、これとて、ホース 1本についやされる労力が大きすぎて量が確保できません。しかも、これまでに かなりの時間がたっており、菅原はほとんど消火らしい消火活動がなされること なく火は回りきってしまいました。 長田で、老人の死者が多いことについて、老人だから逃げ遅れた、というよう なことをマスコミがいっているようですが、長田に木造家屋に一人ですんでいる のはほとんど老人なわけです。もともと老人が多いわけ。そして、その老人は地 震に耐える家には住んでいないわけ。 要するに、 北に被差別部落があり、南に在日朝鮮人の人々が住む町。その我が愛する町・ 長田は貧困ゆえに犠牲が出たのです。今は細かいことを話すつもりはありません が、それが私の実感です。そしてこの貧困は、この国の政治・経済の構造と差別 ぬきには語れない。 それをみつめるために、私はここに住みつづけ、今、その最大の象徴を見た、 と私には思えます。 <とーち> |
5年経った今も、この文章に追加することが思い浮かびません。 ヘリコプターの件については、具体的な成果を聞いたことがありませんが、ぜ ひ今からでも報道各社で取り決めをしてほしいと思っています。マスコミの方々 にとっての「教訓」の一つでしょう。 当時、まず自分ができることから、と多くの方が思ってくださったと思います。 そしてその結果、たくさんの義捐金をいただきました。が、そこから先、社会と しての枠組みやありかたをどうしていくのか、というところまでは及びきれませ んでした。 それは、私自身についてもいえることです。震災前の状態への復帰がやっとで した。 最近よく思うのですが、経済に最優先の価値を置く呪縛からとにかく逃れなけ ればと思います。よくお父さんが家族にいいわけするのに「仕事だから」という のがあります。また、原発開発に関与する企業が「正当な商行為を行っているだ けだ」という台詞もよく聞かれます。どうしてそれが、理由になってしまうので しょう。 そして、今は、不景気から脱するのが全国民の願いとされています。 しかし、不景気にも関わらず、サービス残業する人はしています。労働を分散 してみんなが少しづつ働き、金ではない豊かさを手にするように、どうしてでき ないのでしょう。(続く) |
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