《「日の丸・君が代」強制施策と「服務事故再発防止研修」の
取りやめを求める要請書≫
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◆八木倫明 YAGI Rin-mei:ケーナ奏者(ロス・ネリモス)

「日の丸」「君が代」の強制について研究していたら、同様の問題についてアメリカでのいい話と出会いました。

「君が代」と「日の丸」は切り離せない一つの問題として認識し、ここでは米国における星条旗の取り扱いにおける裁判の話を紹介します。

1984年、テキサス州で、当時のレーガン大統領の国防政策を批判した若者が、星条旗に火をつけて焼き捨てるという事件がありました。

若者は、国旗への冒涜を禁じたテキサス州法違反で逮捕されました。
裁判の結果、高裁、最高裁の両方で「政治的な意志表明として国旗を燃やすのは、憲法修正一条で保証された権利である」として州法そのものを「違憲」だと判決したのです。

これに対し今度は連邦議会が反発。
89年秋、国旗を破損する行為を犯罪とする連邦法を成立させます。
しかし、翌90年6月、最高裁は、この「国旗保護法」も憲法修正一条に違反する…
つまり、その法律そのものが「違憲」であると判決したのです。

そこで、米国の憲法修正一条とは何か…それは、「言論、出版の自由」を保証した条文です。

「悪」と決め付けた他国への爆撃や侵略には全く平気なあの米国でさえ、三権分立が実質的なものになっています。
政府の横暴を裁判所がしっかり監視しています。そして、国家の横暴からあくまでも個人を守っています。
民主主義の原則として最も基本的なことが国内では(あくまでも国内では)守られているのですね。

そしてこれと全く同じ内容の条文が日本国憲法第十九条にあります。

第十九条 
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」

日本国憲法の成立を受けて1947年3月教育基本法が定められました。
学校の先生方はこれに基づいて、学校教育をしなければならない、という法律ですね。

その第一条
「教育は、人格の形成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、心理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行なわなければならない」

戦争中、アジア諸国民や沖縄の人をを苦しめた日本軍の象徴であった日の丸を掲揚せず「君が代」を歌わない…という思想を持った人がいて、良心からそういう行動をする自由は、憲法で認められ、教育基本法でめざされているものであることが、誰にでもわかります。

それなのに、教育の現場で教育基本法第一条にうたわれた「個人の価値」や「自主的精神」を踏みにじる文部科学省の学習指導要領(日の丸、君が代を強制する内容)は、存在そのものが違憲なのです。

国の最高法規や、教育現場の最高法規で認められ、めざされていることが、法でもなんでもない「要領」というものによってねじまげられるのは、明らかに間違いです。

学校の先生方も、児童・生徒も歌いたくないなら歌わなくてよい。
歌いたい人は、大きな声で歌えばよい。
それだけの話なのですから、歌わないことを問題にすることのほうが、訴えられるべきことです。

アメリカのこの話に出会って、国内だけが「民主的」であればよいという欧米人的発想は「フランス革命」にもあったなあ…と思い起こさせました。有名な「自由、平等、博愛」のスローガンも国内だけに留まり、アジア、アフリカ諸国を植民地にして支配し、そこにはその素晴らしいスローガンは持ちこまれなかったのです。

自国中心主義は、すでに大昔の思想だということです。

― 日の丸焼き捨て、日本の場合。

さて、日本ではどうでしょうか。
1987年、沖縄での国民体育大会のソフトボール会場のスコアボード上の日の丸が引きおろされ、焼き捨てられた事件を記憶にある方もいらっしゃるでしょう。
沖縄の人は忘れないでしょうね。

ソフトボール会場は読谷村(よみたんそん)にありました。
日の丸を焼いたのは、知花昌一さんという人です。
「平和のための読谷村実行委員会」の代表者で、読谷村商工会の副会長もつとめる人でした。

読谷村には「チビチリガマ」と呼ばれる洞窟があり、(ガマとは洞窟のこと)、そこは沖縄戦でも最も暗く痛ましい事件とされる「集団自決」の現場の一つなのです。

沖縄戦の最大の特徴は、激しい地上戦に、住民が巻きこまれ、日本兵の数をはるかに上回る、15万人もの一般沖縄県民の死者を出しました。当時の県民の4人に一人の割合です。

琉球語を話すと「スパイ」扱いされ、日本兵に撃たれて殺される。
日本兵に防空壕から追い出されて死ぬ。
乳飲み子の泣き声は、敵に見つかるから殺せ…と命令される……
とても信じられないほどの無残な現実が語り継がれています。

「日本軍は住民を守るためにあるのではなかった。天皇をまもるための軍隊だったのだ」沖縄戦を体験した県民のほとんどが、このように実感しました。

読谷村ではありませんが、慶良間諸島の渡嘉敷島に、集団自決の生き証人である金城重明(きんじょう・しげあき)さんがいらっしゃいます。

1945年3月28日。豪雨の中、当時16歳の金城少年は「自決せよ」との日本軍の命令が出たと聞きました。
住民はすでに自決用の手榴弾を渡されていました。

金城さんの証言―――――――
「私たちは、天皇とその国家の為に身命を捧げよと徹底的に教育されておりました。
またアメリカ人は鬼畜だと教え込まれておりました。大事な肉親を鬼畜に殺されるくらいなら、自分の手にかけたほうがましだ。教育のおかげで私には自決以外の道は考えられませんでした」――――引用ここまで

金城さんは家族を呼び集め身を寄せ合って手榴弾を破裂させようとしましたが、爆発しませんでした。これで断念して気が変わっていれば、肉親は生き長らえたかも知れません。
しかしそのとき金城少年は恐ろしい光景を目にします。

同じように手榴弾の破裂に失敗した男達が、木の枝や、カマや石で肉親を撲殺していたのです。
金城少年もそれを真似て実行してしまいました。気がつくと、40代の母、国民学校3年生の妹、6歳の弟がすでに死んでいました。

金城少年は泣き叫びながら、このうえはアメリカ兵を一人でも多く殺して自分も死のうと決心し、島をさまよいました。そして、思いがけない光景に出会います。
何事も無かったように談笑しながら食事をする日本兵の一団がいたのです。

「しまった。あんなことしなくてもよかったんだ」

でももう遅かったのです。
家族は生き返りません。
金城さんは島をさまよった末に米軍の捕虜になりました。

集団自決は離島の場合、日本軍がいた島でのみ起こっています。日本軍にとって非戦闘員である女・子どもは足手まといだったので、自決せよなどという教育をし情報を流したのです。

こんなことが、沖縄各地で起こりました。
読谷村のチビチリガマでは83人もの女性、子ども、お年寄りたちが、そのような死を遂げたのです。

知花昌一さんらは、この悲劇を隠さずに伝え、チビチリガマを非戦、反戦の誓いの場にしようと、運動に立ちあがった一人でした。

そして、読谷村ソフトボール競技場への「日の丸」掲揚反対は、知花さん個人だけの気持ちではありませんでした。
人口3万人のこの大きな村の8000人が「日の丸掲揚反対」署名をし、村議会でも掲揚しない方針を決めたのでした。
そこに日本ソフトボール協会から圧力がかかり、村や村民の声は一切聞き入れられず、協会の圧力に屈した形で、スコアボード上に「日の丸」が揚がったのでした。

知花さんが焼いたのはそういう「日の丸」でした。

戦後も沖縄は、アメリカ軍に多くの土地を占領され、ベトナム爆撃などの基地となりました。
多くの沖縄県民は心を痛めました。読谷村の面積の半分は米軍基地です。
それを許しているのは日本政府。

アメリカ、テキサス州の若者が、レーガン大統領の国防政策に反対して星条旗を燃やしたのと、知花さんが、日本の軍事政策に反対して日の丸を燃やしたのと、動機と行為には何の違いもありませんね。

テキサスの青年は無罪でした。
「政治的な意志表明として国旗を燃やすのは憲法で保証された、表現の自由である」ということで、「国旗冒涜禁止法」という州法や「国旗保護法」という連邦法のほうがそもそも違憲なのだ、という判決でした。

日本では、知花昌一さんは「懲役一年、執行猶予三年」の判決を受けました。

証拠もなしに「悪」と決め付けた外国を爆撃するのに躊躇しないアメリカというならずもの国家でも、国内では三権分立が確立し、政府の横暴を裁判所が見張っています。
個人が尊重される民主主義が、すくなくとも国内では、日本より遥かに確立されているように思います。

日本はアメリカの属国になろうと歴代の政府や小泉さんは画策しているわけで、アメリカの真似をするなら、こういうところも真似して欲しいです。

以上



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