東京都教育庁の退職者有志です。
今年も卒業式を控え、別添の要請をおこないました。参考までにお送りします。

元職員の会 事務局 遠山 威

2006年2月28日

東京都教育委員会 御中

「日の丸・君が代について都教委に要請する元職員の会」
世話人代表 浅海 忠

卒業式や入学式での「日の丸」「君が代」の強制をやめて下さい

私たちは、かつて東京都教育庁に在職していた退職者の有志です。
 一昨年以来、東京都教育委員会は、都立学校の卒業式や入学式等で「日の丸」に向かって起立し、「君が代」を斉唱せよなどとする職務命令に違反したという理由で、多数の教職員を戒告などの処分に付し、再雇用採用拒否(事実上の解雇)を行うなどしました。
 私たちは別紙に述べるような理由で、東京都の学校教育の場で行われてきたこれらの事態を深く憂慮しています。
 ついては、貴教育委員会に対して、下記四項目について検討し実現して下さるよう要請します。

  1. 後の卒業式・入学式等の学校式典では「日の丸」「君が代」の強制を一切やめること。

  2. 「日の丸」「君が代」の強制に伴う、教職員の処分などは行わないこと。

  3. 2004年と2005年に「日の丸・君が代」に関して行われた処分を取り消し、再雇用合格取消の扱いを受けた教職員を現場に復帰させるとともに、「採用不合格」を取り消して再雇用すること。

  4. 卒業式、入学式等の実施方法を定めた実施指針と、これに関する2003年10月23日付通達については、日本国憲法と教育基本法の諸原理に基づいて再検討して撤回すること。

以上

◎世話人  ( )は最終職場
 浅海 忠(学務部) 新井恒喜(社会教育部)
 石井敏子(日比谷図書館) 石井光善(東京体育館)
 鵜沢良江(日比谷図書館) 小笠原匡(総務部)
 金田房江(総合技術教育センター) 草鹿光世(中央図書館)
 串田稔光(教育研究所) 黒田一之(日比谷図書館)
 佐賀明子(多摩教育研究所) 佐藤亀雄(多摩社会教育会館)
 酒匂一雄(社会教育部) 遠山 威(社会教育部)
 長沢政治(日比谷図書館) 中村有朋(福利厚生部)
 南風原章(社会教育部) 藤田 博(社会教育部)
 八里 正(中央図書館) 山本 耿(社会教育部)
【別紙】

東京都教育委員会に対する要請事項に関する
理由説明

はじめに


 「職務命令違反」を理由として行われた都教委の措置は、単に教職員を処分するだけにとどまらず、再発防止研修と称して被処分者を集めた研修への出席を強要し、転向を迫ることにまで及びました。

 私たちは、一昨年二百数十名に及ぶ教職員の処分が発表されて以来、再三にわたり、貴教委に対し、ことの重大性を指摘して「日の丸」「君が代」の強制をやめ、教職員の処分を取り消されるよう、多数賛同者とともに要請して参りました。

 しかし私たちのこの切実な要請が聞き入れられた形跡は全く見受けられず、逆に締めつけを強化し「指導の徹底をはかる」2005年12月8日、都議会本会議、中村教育長答弁)旨の意向が表明されていることはきわめて残念なことであり、厳しく抗議いたします。

1 「日の丸」「君が代」と国民の良心の自由、アジア諸国民の感情

いうまでもなく、「日の丸」は、かつての大日本帝国による侵略戦争や植民地支配という歴史的事実と分かち難く結びついているとして、日本国憲法の下でのわが国のシンボルたるにふさわしくない、と考える国民は少なくありません。侵略され支配されたアジア諸国民にも同様の記憶と感情が根強く存在しています。

 また「君が代」の歌詞は、主権在民を国家存立の原則とするわが国で、国民こぞってわだかまりなく歌うには不適切である、とする有力な見解があり、さらにこの曲が他の軍国主義的楽曲とともに、青少年を戦争に駆り立てる道具立ての役割を担ったことについての、忌まわしい記憶を脳裏に刻んでいる国民も少なくありません。

 そして、この歌が植民地の人々に対する「皇民教育」に用いられたことについて、不愉快な事実を忘れ得ない韓国・北朝鮮や台湾の人々のことも無視できません。

 このような事情を反映して、1999年、「日の丸」「君が代」を「国旗」「国歌」と法定した第145回国会でも、審議の過程で憲法第19条(思想・信条の自由)や第21条(表現の自由)との関連、さらには憲法前文にうたう「諸国民との協和」に関する疑念が大いに問題とされました。

 結局当時の小渕首相が「(日の丸・君が代の問題は)最終的には個々人の内心にかかわる事柄である」こと、また「児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものでない」ことを表明し、立法意思として明確に確認されたのです。

都教委は、教職員に対する服務監督上の権限や任免権を背景に、校長を通じての職務命令をもって、教職員に対しては直接に、児童・生徒に対しては教職員の指導を通じて間接に、起立・斉唱を強制してきましたが、これが憲法第19条及び第21条に抵触することは明らかなことではないでしょうか。

 さらにいえば児童・生徒の保護者の信条の自由をも侵害することになるのではないでしょうか。

 そしてまた、憲法前文が「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と立言し、諸国民との友好親善を追求すべきことをつよく求めている趣旨にてらして、大日本帝国による侵略と支配の被害を受けた近隣諸国民の記憶と感情に配慮しなければならない、という観点からも、都教委の強権的な措置は非難を受ける余地があるのではないでしょうか。

2 学習指導要領による「指導」と憲法、教育基本法

 第145回国会での審議過程において、小渕首相は何回かにわたり学習指導要領に言及しています。

 会議録を一読すれば明らかなことですが、同首相が学習指導要領のことを述べた文脈は、いずれも「日の丸掲揚、君が代斉唱」を国民に義務づけることはできない、との政府説明を前提とし、その見地に立てば、教職員や児童・生徒に義務づける根拠もないではないか、との追及に対しての答弁、あるいは関連発言として述べられており、しかもその論旨にはある種の論理的飛躍が含まれています。

 一例を挙げれば、「学習指導要領に基づく国旗・国歌の指導は、児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものでな」い、と「良心の自由」侵害禁止規定に抵触しないと主張した上で、「あくまでも教育指導上の課題として指導を進めていくことを意味するものであります」と述べ(1999年7月28日参議院本会議)、「教育指導上の課題として」「指導」であれば内心に立ち入ることはない、との趣旨をなんらの合理的根拠も示さずして言明しているのです。

 このような首相説明は論理的整合性を欠き、そのまま是認することは困難であるといわなければなりません。

 これに関連して重大なことは、「君が代」強制反対・解雇撤回要求訴訟の公判廷で、証人として出廷した横山・前教育長が原告代理人の「憲法21条を知っているか」との尋問に対して、「法律家ではないから知らない」と言い放ち、原告代理人が21条の条文を読み聞かせた上で「この条文に抵触するか、どうか、議論したか」と尋ねたところ、「議論していない」と言明したことです。(2005年10月12日、東京都地方裁判所、第7回口頭弁論)

 東京都教育委員会事務局の最高責任者が、「日の丸」「君が代」に関する実施指針と通達を施行するに当たり、立法過程であれほど大問題となった憲法上の論点とその条文を、「知らない」とか「議論していない」と、平然と陳述するということは、かつて憲法を擁護し尊重することを宣誓した上で東京都教育庁に勤務していた経験をもつ私たちにとって、まことに信じ難いことでした。

 そして横山・前教育長は、被告代理人の「通達が内心の自由を侵すことはないか」との尋問に対して「教育指導上の課題であり、内心の自由を侵すものとは考えていない」と陳述しています。(同前第7回口頭弁論)

 憲法第21条を知らず、議論すらしたこともない人が、即座にそのように答弁しうること自体、まこと理解不可能な現象ですが、第145回国会での小渕首相の没論理的な説明(前述)を機械的にそのまま口移しにしたに過ぎない、と考えれば腑に落ちないわけではありません。

 昨年7月12日付の私たちの本事案に関する要請に対し、貴教委からの同19日付回答は、貴教委の一連の「指導」や処分等のそもそもの根拠を、専ら学習指導要領に求めることで形式的に取り繕うものでした。これも前述横山・前教育長証言と軌を一にするものであり、政府説明を鸚鵡返しにくりかえす、まことに官僚的な回答であったといわざるを得ません。

 私たちの提起した数々の問題点に真剣にこたえようとせず、政府見解の文字面を「葵の御紋」よろしく振りかざすのみでその場を糊塗としようとする、この回答には失望せざるをえませんでした。

 教育行政が「国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」とした教育基本法第10条の規定の趣旨にてらして、大いに疑問とするところです。

 そして、よしんば学習指導要領の法的拘束力を認める立場に立ったとしても、上位法規たる教育基本法、ましてや日本国憲法の明文の規定に反するような都教委の「指導」や処分を容認することは到底できないのです。

この間の都教委の一連の措置は、所詮、違憲・違法であったというべきです。

3 教育の条理にてらしての考察

 実施指針と2003年10月23日付の通達は、入学式や卒業式等ついて、まことに詳細をきわめた方式を指示し、画一的にすべての学校、全教職員と児童・生徒に押しつけるやり方をとっています。

 従前は各学校において教職員はもちろんのこと、児童・生徒の希望、創意と工夫、保護者の要望などを生かして、それぞれに感動的な式として行われる例が多々生まれていました。

 少なからぬ都立高校では、以前は、生徒会に実行委員会をつくるなどして半年以上前から卒業式を準備し、当日は卒業生と在校生が向かい合ってエールをおくりあったり、卒業生の思いのこもった作品を飾ったり、各学校で創意ある形での式が行われていました。

 ところが、それを都教委が一片の通達でがんじがらめにしてしまったのです。

 果たしてこれが「個人の尊厳を重んじ、個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」「個人の価値をたつとび自主的精神に充ちた国民の育成」をめざす、とした教育基本法前文及び第1条の規定の趣旨に合致するものでしょうか。

 「国歌」斉唱義務不存在確認等請求訴訟の原告の一人は、法廷での意見陳述において、自身が不起立を決意するに至るまでの心の葛藤を切々と述べた上で、つぎのように陳述しています。

 「いま学校では、処分を受けた者も、激しい葛藤の末に心ならずも『立つ』ことを選ばざるをえなかった者も、ともに苦しんでおり、このままでは都立高校は上意下達の場と化し、心を麻痺させ、上からの命令に黙々と従う『もの言わぬ』教師がふえる」と。(2004年7月21日、東京地方裁判所、第4回口頭弁論)

 これが果たして、人格形成の重要な場のひとつである学校にふさわしい雰囲気であるといえるでしょうか。

 また、感受性に富み、社会諸事象に鋭敏な関心をもって接する高校生たちは、恐らく教師たちの内面の苦悩や、矛盾を感じつつ職務命令に従わざるをえない教師の行動、その姿に、それぞれ微妙な影響を受けることと思われます。

 日常的には「自主的にものごとを考え、自らの責任において判断できる人間になろう」と教える教師が、いざという場面でどのように振る舞うか、場合によっては教師と生徒との間に不可欠な信頼関係が根本的に破壊されることも推測されます。

 児童・生徒の教育は、教育の衝に当たる者の支配的権能ではなく、児童・生徒の学習権の充足をはかる立場にあるもの(保護者、地方公共団体、国など)の責務に属し、児童・生徒に保障されるべき教育の内容は、個人の基本的自由を認め、個人の人格の独立を最大限に尊重し、児童・生徒が自由かつ独立の人格として成長することを保障するものでなければなりません。

 「日の丸」「君が代」の強制をめぐって、いま東京都の学校で生起しつつある事態は、これら「教育」の場が必要とする条件を、根本から破壊しつつあるのではないでしょうか。

4 児童・生徒の学習権について

 つぎに、「日の丸」「君が代」に対する児童・生徒の見方、考え方の問題について、教育という営みは果たしてどのような役割を果たすべきであるのか、ということを考察してみます。

 「日の丸」「君が代」について、これを「国旗」及び「国歌」とすることについては、国民の間にいろいろな見方があることについてはさきに述べました。

 ものの見方、考え方(特に国家や社会に対する見方、考え方)の形成に関わる教育は、個人の思想・良心と深く結びつくものであることから、国家の介入の許されない分野であると考えられます。この分野において教育にできることは、あくまでも問題の提起と判断材料の提供であり、それをもとにして児童・生徒が自らの考えを形成していくことを援助することに限られるもの、と解されます。

特に、この分野において国や地方公共団体が特定の価値観を一面的に正しいものとして教育することは、児童・生徒の学習権を侵害するものであり、許されないことではないでしょうか。

 たとえば「君が代」についてみれば、教育現場で行うことのできるのは、「君が代」の存在、その内容、国歌として法律により定められていること、その歴史、「君が代」をめぐる論議、「君が代」の評価は各個人が自らの思想・信条に従って決すべきものであること、それが現代憲法の基本原則であること、など、判断の材料を提供するにとどめるべきではないでしょうか。

 この範囲を超えて、国家や地方公共団体が児童・生徒に式典の場で、「国歌」を斉唱するように強制することがあれば、それはある特定の観念を児童・生徒に植えつけるものであり、その学習権を侵害するものであるいうべきではないでしょうか。

おわりに

 新聞社の世論調査では、都民の61%が、不起立を理由として都教委が教職員を処分したことに「反対」と回答しています。(朝日新聞、2005年6月29日)

 昨年秋、東京都高等学校教職員組合が行ったアンケート調査(都立高校教職員3108人が回答)によれば、「君が代」斉唱時に「日の丸」に向かって起立することを教職員に義務づける通達について、88.1%が「義務づけるべきでない」、8.3%が「義務づけは行き過ぎだ」と回答し、実に96.4%が反対ないし批判の意見を寄せています。(2005年12月19日、同教職員組合発表)

 また、昨年秋来日した国連子どもの権利委員会のヤーブ・ドゥック委員長は、「学校で国旗・国歌を押しつけるというのは許されないことだ」と語っています。

 そして、米紙ロスアンジェルス・タイムズは、本件を「東京の学校当局、通達によって多くの日本人に愛国心を強要」との見出しで報道しました。(2004年7月11日付)

 「日の丸」「君が代」を「国旗」「国歌」と定めることについての賛否はともかく、起立・斉唱など一定の身体動作を強要することにより内心の自由を侵害することには反対する、あるいはこれは行き過ぎたことであると考えるのは、もはや教職員はもちろんのこと、都民の間でも、国際的にも、常識的な考え方であるといって差し支えありません。

 私たちは、かつて学校で「進む日の丸、鉄兜」と軍歌を歌わされ、「海ゆかば」とともに「君が代」を斉唱して修羅の戦場に赴く覚悟を固める教育を受けました。

 三百余万人の日本国民と二千万人に及ぶアジア諸国民の尊い犠牲の上に立って、再び戦争をしてはならない、と決意して制定したのが日本国憲法であり、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」ための最も確かな保障として、主権在民、基本的人権の尊重などの諸原則を国家統治の基盤として確立したことを、今こそあらためて想起すべきであると考えます。

 東京都教育委員会が、私たちの心からなる願いを充分に検討して下さるよう要請いたします。

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