原告意見陳述書

2005年10月6日

原告 K.M.(05年3月都立M高校定時制教諭退職)

 原告のK.Mと申します。

 36年前、いわゆる学校紛争吹き荒れる年に教員になり、そこで得た、生徒を一人の人格者としてとらえ、話を良く聞き、誠実に応対するという姿勢を貫き3月退職いたしました。

 退職前年、2004年(平成16年)3月2日校長室で、初めて職務命令書なるものを手渡されました。それは、6項目からなっていて4項目に「卒業証書授与式会場において、会場の指定された席で国旗に向かって起立し国歌を斉唱すること。着席の指示があるまで起立していること」とありました。10.23通達に基づく全都一斉と思われる内容の命令でした。

 私は、在職中の4分の1の期間を生活指導主任や各種主任をやり、生徒や保護者と話す機会は多くありましたが、食い違う意見や見解に出会った時、話し合って妥協点を見つける努力を怠りませんでした。ところがそれまでの35年の教員生活で、初めて職務命令による「立って・歌え」という強制されました。教育の場に強制を持ち込んだことに、身体がごく自然に反応し着席いたしました。

 私は不起立が職務命令違反だとして戒告を受けましたが、その4月からの生活指導主任とあわせて新入生の担任もやるようにと校長からいわれました。生活指導主任と新入生の担任という職務は学校の中で最も生徒に近い位置にいる仕事です。私も教員生活の総決算としてこの校長の要請に応えました。職務命令に違反したと都教委に報告した校長でさえも、学校で重要な職務を何のためらいもなく私に託したのです。

私は不起立で戒告を受けた人を知っていますが、その方々はクラス指導・教科指導・生活指導・部活指導そして日常の生徒とのふれあいを大事にする人が多いように感じています。

 国旗国歌法制定時、強制しないという国会答弁があり強制は良くないとの発言が各方面である中、都教委がなりふりかまわず通達で押しつける姿勢に、東京の教育を熱心に真剣に考える人こそ、その通達の問題点を不起立という行動で指摘し自己の信念を表現したのだと思います。

 私は退職後の生活のため、校長の推薦を受けて再雇用職員として申込み、面接を受けました。大変良い感触で面接を終えました。しかし、不採用でした。

約40秒という不起立を理由に嘱託の道を断たれて、学校現場から閉め出されたのです。嘱託を希望する者は、誰もが自己のスキルを東京の教育生かしていきたいと考えています。再雇用制度の目的のひとつは、「長年都に在職し培ってきた豊富な知識や技能を退職後も都に役立てる」ことです。これを都教委が拒否するということは、東京の教育にとっては大きなマイナスです。

 私は夜間定時制高校に21年勤務しました。今日、夜間定時制高校はハンデキャップのある生徒や、引き籠もりや摂食障害を持つ生徒、中には自傷行為や不登校を何とか克服したいと入学する生徒などが多くなっています。一人一人が手厚い教育とゆったりとした見守りが必要になっています。人間再生の教育が夜間定時制の重要な使命となっているのです。

 このような定時制高校に嘱託として戻って、生徒と共に笑い、悲しみ、苦しみを共有して生徒の気持ちを少しでも軽くしてやりたい、これが私に残された使命と考えています。嘱託になったらそれまでの生活指導主任とか担任とは少々違った立場で生徒と話し合えると思っていたことが出来なくなってしまったことが残念でなりません。

 裁判官にお願いいたします。

 退職にあたり都教委は、「学校教育への永年の功績に感謝する」と職責をたたえる感謝状をくれましたが、しかし嘱託には不採用でした。不採用理由を聞いても「公表しないの一言」。この様な嘱託員制度をゆがめるような行為は許すことが出来ません。10.23通達によって学校が大きく変質し、学校が人間を育てる場でなくなって来つつあることをご理解いただき、通達に示された内容の違憲・違法性を明らかにし、嘱託不採用という都教委の決定に対し、明確な判決をお示しいただきますよう、お願いいたします。


原 告  意 見 陳 述

2005(平成17)年10月6日

原告 A.H.(05年3月都立K高校教諭退職)

 私は原告のA.Hと申します。1970年に英語の教員として入都し、都立高校に通算35年勤務し、この3月に定年退職を迎えました。退職後は都の再雇用職員として引き続き都立高校で英語を教えることを希望していましたが、昨年3月の卒業式における国歌斉唱時の不起立を理由に不採用となりました。以下、不起立の理由と不採用の不当性について述べたいと思います。

 1945年生まれの私は、ようやく訪れた平和と新しい憲法を心から喜び、歓迎する時代の雰囲気の中で成長しました。そして、家族や教師の話、本や映画などを通して戦争の悲惨と愚かさを繰り返し追体験し、思想統制によって大人達が沈黙へと追いやられていった過程について学ぶ中で、再び戦争の惨禍を繰り返さないためには、国民一人一人が自分の考えを持ち、それを意識的に表明していく事が何よりも大切だと考えるようになりました。

 平和教育と呼べるほどの実践があるわけではありませんが、強い者や多数の考えに流されることなく、主体的に考え、行動することの大切さについて、私は出来るだけ機会をとらえて、時事問題などに絡めながら生徒に問題提起をしてきました。また、20年近く前に出会った、アメリカの国立古文書館の壁に刻まれているという"Eternal vigilance is the price of liberty"(「永遠の警戒が自由の代価」)という言葉を引用し、自由や権利は意識的に行使しなければ守れないことを訴えてきました。

 「日の丸・君が代」のとらえ方は個人によって異なります。私自身は、「国民主権」の理念と矛盾する「君が代」の歌詞に対して子供の頃から強い違和感を覚えていましたし、長じて、あの侵略戦争について学ぶ中で、そのシンボルとして使われ、今なおアジアの被害者の方々に苦痛を呼び起こすような歌と旗を国旗・国歌として受け入れることは出来ないという思いは強くなって行きました。

 一方、どの職場にもそれらに対してさほど抵抗感を持たない人や、より肯定的にとらえる人など、様々な考えの人が居ました。しかし、それぞれの学校の教師・生徒の創意・工夫によって個性豊かに執り行われるべき卒業式や入学式に「日の丸・君が代」を一律に押しつけてくることに対しては、考えの違いを越えて多くの教職員が反対したのです。

私達ははっきりと強制反対の意思表示をすることが重要であると考え、2003年春までは「君が代」斉唱時には不起立を続けてきました。また、式の前には保護者に対して「内心の自由」について説明するよう管理職を促しました。これは保護者にとっては大変重要で、ある在日韓国人の保護者から「君が代斉唱があったことは残念でしたが、校長先生の説明のおかげで斉唱の間安心して座っていることが出来ました。とても感動的な卒業式でした」と感謝の言葉が届いたこともあります。

しかし、2003年秋に出されたいわゆる10.23通達は、処分を振りかざし、そのような説明も、ささやかな抗議の意思表示をも許さない苛酷なものでした。「職務命令に従わない場合は都に報告せざるを得ない」と言う校長、教頭の重い口調から、都教委の管理職に対する強い締め付けが窺えました。卒業式が近づくにつれ、職場の雰囲気は日に日に重苦しいものになっていきました。そして、一人一人が最後の最後まで迷い、悩み、考え抜いて苦しい決断をしたのです。

 私は1年後に退職を控え、担任として最後の卒業生を送り出そうとしていました。
「思想・良心の自由」を踏みにじるような通達に従うわけにはいかない。はっきりと拒否する姿勢を生徒に示したい。それこそが今まで語ってきたことを伝える何より強いメッセージになるだろうという思いと、もしそうした場合どのような処分がなされるのだろうかという不安がせめぎ合って、心は揺れに揺れ、眠れぬ夜が続きました。

 それでも、不安にさいなまれながら、考えても考えても、「君が代」斉唱時に立っている自分の姿を思い浮かべることは出来ず、結局卒業式当日私は立てませんでした。その結果、不起立を理由に3月31日に戒告処分を言い渡されました。そして1年後、再雇用職員の申請書を提出し、面接では和やかな雰囲気の中で希望まで聞かれたにもかかわらず、今まで希望者は原則全員合格であったこの職に不採用になりました。

 不起立という選択に対する悔いはなく、今また同じ状況におかれれば、同じ選択をしますが、街角や電車の中で高校生を見ると、「ああ、3月まではこのような生徒達と時間を共に過ごしていたんだなあ、本来であれば、今も教室でこのような生徒を相手に英語の授業をしているんだなあ」と心がうずくことがあります。

 たった40秒の不起立がこれほど苛酷な処分にあたいするものでしょうか? これはどんな命令であれ、従わなければ退職後の職の保障は無いぞという、現場の教職員に対する見せしめ以外の何ものでもありません。現場の教員からは自由にものが言えず、ますます息苦しくなっていく職場の雰囲気を嘆く声が伝わってきます。教師の管理強化の先には必ず生徒の管理強化があります。このままでは、ますます自ら考える力を持たない若者、物言わぬ若者が育っていくことでしょう。

 裁判官におかれましては、10.23通達がいかに学校から自由を奪ったかをご理解いただき、その違憲・違法性と、嘱託不採用という処分の不当性を明らかにするような判決をお出しいただきますよう、お願いいたします。


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