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第5回学習会 2006年10月31日 報告者 吉田浩一
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はじめまして。岩波書店編集部におります吉田と申します。
編集者というのは黒子ですので、こういう会で話すことはほとんどありません。何を話していいか分からなくて困ったな――というのが正直なところです。この4、5年、力を注いできた講座がやっと完結した時に、それを取りあげて下さるというせっかくの機会をいただきましたので、少しでも講座の趣旨や目指したことをお伝えできればと思い、お引き受けした次第です。
自己紹介から始めさせていただきますと、私は1970年生まれで、今年36歳になりました。自分自身の意識の中では、括弧つきではありますけれども、「戦後民主主義」の中で育ってきた、育ててもらったという思いがあります。岩波書店では、最初は宣伝部や辞典部にいました。編集部に異動してまだ7年ほどですので、言ってみれば、駆け出しに毛が生えた程度です。
編集者としてとくに決まったジャンルがあるわけではなくて、なんでもやります。文芸関係の本、パレスチナ問題の本、保育園の本、動物園の本なんかも編集してきました。そういう中で、自分の中で一貫して関心を持ってきて、これからも考え続けていきたいテーマの一つが「近現代史」です。今回の講座もそうですが、最近では藤野豊先生の『ハンセン病と戦後民主主義』という本や、赤澤史朗先生の『靖国神社』、他にも何冊か近現代史の本を編集してきました。
そのきっかけというのを考えたことがあるのですが、私が高校3年生のとき――受験の真っ最中です――昭和天皇が死去しました。発病から死去、その後の代替わりの儀式も含めて、異様な雰囲気があったことを今でも覚えています。それまで見えていなかった、「昭和」のドロドロとした何かが、その時にパッと浮上してきたような思いがしました。それは一体何だったんだろう――そういうことをずっと考えてきたのかもしれないと思います。そういう経験を経て、大学では近現代史のゼミに入り、結果として出版社に入ってこういう仕事をしていることになるわけで、そういう意味では、昭和天皇に感謝しなければいけないのかもしれませんね。
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「つくる会」とは違う歴史の姿を |
- 企画の経緯をお話ししたいと思います。
私が編集部に異動したのは6、7年前で、ちょうど「新しい歴史教科書をつくる会」が猖獗を極めていたころと重なります。たまたま日本中世史の永原慶二先生といろいろ話をさせていただく機会があって、何冊か本を書いていただきました。「つくる会」に関しては、2001年に『歴史教科書をどうつくるか』という本を書いていただいたのですが、永原先生の歴史や歴史教育に対する真摯な、真剣な思いと、現状に対する危機意識が込められた、とてもいい本だったと思います。実際、かなりこの手の本としてはかなり売れましたし、評判も良かったと記憶しております。
ただ、この本を編集できて良かったなと思うと同時に、ちょっとひっかかる思いがあったんですね。永原先生にせっかく書いていただいた本が、もしかしたら届いていないのではないか、ということを思いました。では誰に届いていないのか――それは、「つくる会」の主張に共感をするわけではないけれど、なにかおもしろそうなことをやっているな、という、その程度の関心から「つくる会」の本を手に取るような人たちです。そういう人たちに対して、「つくる会」の人たちの言っている歴史像がいかにおかしいか、偏っているかということを言ってもあまり意味がないのかもしれない、そう思ったわけです。
私もあの分厚い『国民の歴史』を読みました。正直苦痛でしたが、これを面白がって読む人もいるだろうな、ということも一方で思いました。「つくる会」に対する批判は当然の前提作業だと思いますが、そういう人たちに対しては、批判をするだけじゃなくて、そうではない歴史の姿を提示する必要があるのではないか。
このことがきっかけになって、2001年に、ちょうど私と同い年の編集者と一緒に、何かできないだろうかということを話し始めました。二人で読書会や研究会とかを続けながら、こういう企画を構想するに至ったということです。
ここでちょっとわき道にそれるかもしれませんが、「つくる会」の出てきた背景を考えてみたいと思います。実は今回の講座第1巻に書いていただいた吉田裕先生の分析の受け売りなんですが、「つくる会」などの新しい歴史意識が出てきた1995年、戦後50年という時代を考えることによって、この講座の位置付けが少し見えてくるのではないかと思うからです。
戦後の日本社会においては、あの戦争をどう捉えるかという戦争認識が、一貫して重要なテーマだったと思います。その戦後における戦争認識の変遷においては、1995年という時期の持つ意味が非常に大きいのです。
最初に自分が戦後民主主義の中で育ったという言い方をしましたけれども、戦後民主主義においては、戦争への反対がひとつのモチーフであったことは良く言われます。ただ、それは実は「反戦意識」ではなくて「非戦意識」であった、これも良く言われることだと思います。
「反戦」ではなく「非戦」であるとはどういうことか。戦後の長い間、戦争を経験した方が社会の多数を占めていたわけですね。つまり戦争を体験した方が実感として戦争はもういやだ、あんな理不尽な思い、肉親や自分も含めて、多大な痛みを引き受けるような、そういう戦争という愚かな行為を二度としたくないという皮膚感覚としての戦争への嫌悪の感情があったのではないか。それにつながるものとして平和の希求があった。日教組の「教え子を再び戦場に送るな」という有名なスローガンがありますが、そういう皮膚感覚に根ざした戦争嫌悪、非戦の感情があったと思います。
それに対する批判の声も当然あるわけですが、私自身は、その感覚自体は決して批判するべきことではないと思っています。ただ、その反戦ではなく非戦であるという意識は、自らをまずは戦争の被害者として位置付けるような認識だったのではないか。戦後、いろいろなブレがありながらも続いてきたその非戦という枠組みがゆらぎ始めたのが、さっき申し上げた1990年代なのではないかと思います。
この時に、ごく大雑把に言うと、二つの変化があったのではないか。
一つ目の変化として、政治レベルにおける戦後処理問題の枠組みが1990年代半ばに完成しました。その象徴的な出来事が、戦後50年の村山首相談話ですね。そこに至るまでには、中曽根首相の靖国参拝をはじめ、アジアとの間にいろいろなコンフリクトを起こしているわけですが、とにかく95年に社会党が政権に就いたというある意味奇跡的な状況の下、日本の首相が「植民地支配と侵略によって多くの国々、とりわけアジアの諸国の方に対して多大な損失と苦痛を与えた」と述べたわけです。アジア・太平洋戦争が国策の誤り、国家が犯した誤りであったということを認めた。これは戦後における、政府レベルの軌道修正がひとつの頂点に達したということだと思います。
それと併せて二つ目の変化が、国際的なレベルで起きました。90年代は、国際的には何よりも冷戦が終わった時代です。それまでも中国や韓国、東南アジアの国々、つまり日本によって戦争中に被害を受けた国々との間では、賠償などの形でやりとりがありました。ですが、実際に被害を受けた被害者の方々の声は、冷戦構造下でのそれぞれの国の政治状況によって抑えられてきたわけです。これは「慰安婦」とされてしまった方々や、中国での毒ガス戦や細菌戦の被害者の方々のことを考えればイメージしやすいと思うんですが、その被害者の方々の告発の声が、冷戦の終結によって一気に噴き出してきたのが、1990年代です。
被害を告発する方々の声が出てきたことによって、日本に住む我々は加害者としての認識を突きつけられた。薄々感じていたかもしれないけれども、見て見ぬふりをしてきた、加害責任が、戦後50年たって一斉に突きつけられたことが、二つ目の変化です。
今述べた二つのことが相俟って、日本は被害者としてだけではなくて、加害者として戦争に携わっていた、加害者としての日本という戦争認識が1990年代に深まっていったのではないかと思います。
当たり前ですが、これは決して悪いことではありません。しかし、90年代にはそれに対する反発も急速に出てきたのではないか。それが、「新しい歴史教科書をつくる会」やそれに先立つ藤岡信勝さんたちの「自由主義史観研究会」だったのではないか。これは、さっき申し上げた戦争認識の変換に対する反発、リアクションであり、だからこそ広範な広がりを持ち得たのではないかということを、吉田先生は分析されています。
戦後における「反動的」な歴史観としては、林房雄の『大東亜戦争肯定論』などが有名ですが、一貫してそういうものはあったわけです。ですが、ここまで広がりを持ったことはなかったのではないかと思います。だからこそそれに対して違和感を持つ側が反論する際に、従来の反論とは違うレベルの反論の仕方というものを考えなければいけないのではないか――そんな意識が今回の企画につながったのではないかと思っています。自分が思っていたことを、吉田先生の分析を通して跡づけしただけかもしれませんが。
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戦後歴史学の蓄積の上に |
- この1995年を頂点とする戦争認識の深まり、加害者としての日本という認識に到達し得た戦争認識の深まりを準備してきた、その理論的な支柱を立てる営みを一貫して続けてきたのが戦後歴史学ではないかと思います。
戦後歴史学を定義し始めるときりがありませんが、角度を変えて非常に乱暴に言うと、アジア・太平洋戦争に対する反省から始まった歴史学と言えるのではないか。敗戦後に、なぜ日本はあのような無謀な戦争を行ってしまったのか、なぜ止められなかったのか、という切実な問題意識、反省から出発したのが戦後歴史学ではないかと、私は思います。
その戦後歴史学は、軍部と政治の関係を研究する「政−軍関係史」を中心とする実証的な研究成果を蓄積してきました。別の言い方をすれば、1931年の「満州事変」から1945年のポツダム宣言受諾までを、ファシズム体制の確立とそれに引き続く戦争突入から敗戦に至る一連の過程として捉える、いわゆる「15年戦争」研究として展開してきた、ということになると思います。
政−軍関係史研究を主に、と申し上げましたが、もちろんそれだけではなくて、南京大虐殺の研究や、国防婦人会などの民衆レベルの戦争協力研究を通して、加害の側面も、早くから取り組まれてきたわけです。その蓄積があったからこそ、95年のパラダイムチェンジが可能になったと言えるのではないかと思います。
戦後歴史学からは少し離れますが、学童疎開や空襲の被害に関しては、それぞれ経験者の方々が会を作っています。例えば空襲では、東京とか横浜とか大阪とか神戸とか、いろいろな所で実際に被害に遭われた方々が、草の根レベルで自分たちが何を経験したかということを、聞き取りなどを通して考えてきた。戦後歴史学は、そういう経験者の方たちの着実な積み重ねをも、その都度とりこみながら、着実に発展してきた。
この戦後歴史学に決定的な揺さぶりをかける出来事があった。それが1991年の、日本軍によって「従軍慰安婦」とされたキム・ハクスン(金学順)さんの告発です。ここで「慰安婦」の声が突如出てきたわけです。でも実は突如ではなかったわけですね。戦後生まれの私は知らなかったのですが、戦争経験世代であれば、何も男性に限らず、銃後の国民の間でも、「慰安婦」という存在があったこと、そして彼女たちが非人間的な扱いをうけていたということは、周知の事実だったというふうに聞きます。
キムさんにとっては戦争は終わってないわけですね。ずっと自分の人権や人間性が蹂躙されたまま、しかもそれが誰にも顧みられることのないまま続いていたわけですから。でも、戦後歴史学は長い間それを問題とすることができなかった。
このことが象徴的ですが、戦後歴史学の限界性、ある種のほころびというものが見えてきたのではないかと思います。戦後歴史学は、戦争を現在の国境の内側だけでしか捉えられていなかったのではないか。「大東亜共栄圏」――今はもちろんこんな言い方はしませんが――かつて、日本だった、日本が占領していた空間の存在が戦後歴史学の営みにおいては、すっぽりと抜け落ちてしまっていたのではないか。かなり厳しい、意地悪な味方かもしれませんが、これを「一国史的」な歴史観というふうに言いかえてもいいのではないかと思います。
また、1945年の敗戦で戦争の歴史が終わって、ここから新しい時代が始まるというような、一本のラインで歴史を理解するような歴史観があったのではないか。これを「単線的」歴史観と言うとすれば、この「一国史的」「単線的」歴史観のはらむ問題性がここで突きつけられたわけですね。私なんかにこんなことを言う資格がないことを分かった上であえて言っているのですが……。
こういった、戦後歴史学が正面から応答しなければならないような問題が90年代には出てきた。と同時に、戦後歴史学が積み重ねてきた成果によって到達した戦争認識への反論として、「つくる会」などの攻撃も出てきたわけです。そういった「反動的」な動きに対して、何らかの反論であるとか、異議申し立てをするときに、従来の「一国史的」「単線的」な要素を含む戦後歴史学の枠組みのもとで、果たして有効な応答ができるだろうか、ということを考えました。
もちろん、個別には例えば近現代史研究の吉見義明さんが『従軍慰安婦』という新書を書かれたように、戦後歴史学を担ってきた方が状況に真摯に対応している。しかし、そういった個別の取り組みをこえて、緊急の問題として反動的な動きに応答するときに、いろいろな綻びが見えてきている戦後歴史学という枠組みをそのまま使うことが有効なのかどうか、ということを考えたわけです。そういう認識のもとに、今度の講座で何をするべきか、ということを編集委員の方々に、2年、3年かけていろいろと議論をしていただきました。
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