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講座の目ざしたもの
 今回の講座では、具体的には4巻の「帝国の戦争経験」、7巻の「支配と暴力」などに一番よく現れています。例えば7巻のU部ですね、籠谷直人さんの「帝国ネットワークと華僑ネットワーク」。これは大日本帝国という版図の中で日本が構築しようとしたネットワークと華僑の持っていたネットワークとの関係を考察したものです。「援蒋ルート」という言葉はよく聞くと思いますけれども、大東亜共栄圏の中で華僑の人たちは抵抗を続けていたわけです。それは例えばビルマとかベトナムだけを見ていてもわからない。善し悪しは別として大日本帝国、大東亜共栄圏という領域を俯瞰したときに、見えてくるものがあるのではないか。そういうことを強く意識しながら、議論していただきました。

吉田氏  これは少しレベルが違ってくる話ですが、今回の講座は執筆者の数が100名以上いるなかで、海外からの寄稿者が1割を超えているんですね。日本史の講座やシリーズものとしては、この割合はかなり多いほうだと思います。海外にいさえすれば、日本の外からの視点を持っているかということは短絡的には言えませんが、それでもやっぱり広がりは出てくるのではないかということから、意識的に海外の方に執筆をお願いしました。

 4番目ですが、「時間のひろがり」ということを考えました。さっき申し上げましたが、キムさんをはじめとする「慰安婦」の方々にとっては戦争は終わっていなかったわけです。このような例を挙げるまでもなく、戦争は1945年8月15日で終わったわけではないことは最近よく言われることですが、これは何回強調してもしすぎることはないと思います。8月15日以降にも、樺太や旧満州地方、東南アジアでは連合軍と戦争を続けていた部隊がいくつもありました。そもそも敗戦に引き続き、日本は1952年まで占領されていたわけですが、占領というものが戦争とそんなに簡単に切り離せるものなのかということが、当然問われなければならない。日本の場合は玉音放送のインパクトがあまりにも大きいために、8月15日にすべてが変わったというイメージが多いのですが、決してそれだけではないだろうと思います。

 また沖縄に関して言えば占領が終わったのは1972年ですね。その後も日本の米軍基地のほとんどが沖縄に集中しています。横田など国内の基地もすごく大きな問題としてありますが、ほとんどの基地が沖縄に集中しているという状態は、やはり占領が続いている――陳腐な言い方になってしまうんです――そういう状態が続いていると思います。

 繰り返しますけれども、「慰安婦」の方々、強制連行とか毒ガスの被害者の方にとって、戦争は終わっていないというのは、まったく当たり前のことですね。それに気づかなかったのが戦後の日本だと思うのですが、そのことを講座を考えるときの大前提にしようと思ったということです。

 それに加えて、さっきのカルチュラル・スタディーズの説明と重なってしまうかもしれませんが、近年は戦争そのものについてだけではなく、戦争に関する記憶がどのように作られてきたか、どのように変化してきたかということについての研究が盛んになってきています。敗戦から50年、60年経つということは、直接の体験者の方々が亡くなられる、皮膚感覚を持つ方がいなくなることを意味するわけです。そういう状況の中で、公文書などの文書記録には残らない人々の記憶としての戦争の姿とを、どのように歴史化していくかということが、いま問われているのではないかということを思います。

 そういうことを強く意識しながら、編集委員の方々には議論していただきました。
 ネタばらしになりますが、この講座は各巻が4部構成になっています。例えば2巻ですと、1部が「戦争と占領のデモクラシー」、2部が「総力戦とテクノクラート」、3部が「天皇とファシズムの政治学」。1から3までは「戦争の政治学」を、扱う対象や、切り口から整理したものですが、4部の「抗争する記憶」は戦争に関する記憶や表象の戦後における在り方を考えようとしたものです。例えば靖国神社における戦争の表象は日本人の戦争観の一つのあらわれであって、それをめぐっていろいろな思惑がぶつかり合うわけです。4部は戦争が戦後60年の間にどう扱われてきたかっていうことに着目した作りになっています。
 細かいことを言うときりがないのですが、大きく言うと、この講座が目指したことはいま申し上げたようなことになるかと思います。
名称にこめた思い
  この4つのねらいは、実は講座の名称にいちばん強く反映されています。

 先ほどから何の説明もなしに「アジア・太平洋戦争」と申し上げていますが、もともと「アジア・太平洋戦争」という呼称は、41年12月から45年8月までの戦争を「太平洋戦争」と呼んだのではアジアでの戦争という側面が見えにくくなることを防ぐためにつけられたものです。これに限らず、先の戦争はいろんな呼び方をされてきました。

 戦争中はご承知のとおり「大東亜戦争」と言われていたわけです。これは41年の12月の対英米開戦後に、大本営政府連絡会議で、日中戦争――その当時は「支那事変」ですね――も含めて、この戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことが提起されたものです。

会場 45年の敗戦後は一転して、GHQの指導のもとに、「太平洋戦争」と呼ばれることになったわけです。「大東亜戦争」という呼称の問題性は言うまでもありませんが「太平洋戦争」にもかなり問題がある。太平洋をはさんだアメリカと日本の間の戦争という、アメリカ側の戦争認識がこの名称に色濃く反映されているわけです。結果として対英米戦争の部分だけがクローズアップされ、主要な部分を占めた中国や東南アジアにおける戦争、もっと言えば、朝鮮半島や台湾の支配の問題も含めてアジアの視点が抜け落ちてしまいます。

 戦後歴史学でもそのことは認識されていて、「太平洋戦争」という呼称に対するオルタナティブとして――最初鶴見俊輔さんが言ったらしいですね――「15年戦争」という呼称を、わりあい早くから提唱しています。1931年の「満州事変」から1945年の敗戦までを、一連のひとつながりの戦争として捉えることを目指す、そういう戦争認識が、「15年戦争」という呼称にはこめられているわけです。
 例えば、これも岩波書店の本で恐縮ですが、家永三郎先生が『太平洋戦争』という本を出されていますけれども、前書きを読みますと、ご本人は「15年戦争」という書名にしたかったとはっきり書かれています。この本の刊行は1968年ですが、まだ「15年戦争」は呼称としてはあまり認知されていないので、忸怩たる思いで「太平洋戦争」にするというようなことを書かれていました。ただ、その後、この「15年戦争」という呼称は定着してきたと思います。高校の歴史教科書などにおいても、メインの呼称はやはり太平洋戦争ですが、「15年戦争」という呼称は紹介されています。それは戦後歴史学の成果だと思います。

 ではなぜ今度の岩波講座は「15年戦争」としなかったかと疑問に思われるかもしれませんが、その「15年戦争」という呼称にも問題があるのではないかということを議論しました。
 「15年戦争」という呼称には日本のアジア侵略をひとまとまりのものとして捉えるという意図があるわけですが、逆に1931年というスタート時点と1945年というゴール地点で時代を区切ってしまうんですね。もちろんその前後にも視点を広げるということは意識されていたと思いますが、31年に始まって45年に終わるという認識を呼称自体が孕んでしまっている。あの戦争を考えるときに、1910年の日韓併合を考えなくてもいいのか、1894年の日清戦争やそれに伴う台湾の領有を考えなくていいのか。45年以後でいえば、朝鮮戦争や、沖縄の問題を考えることは絶対に必要だと思うのです
 最近では読売新聞が「昭和戦争」と呼んでいます。なかなかいい呼称だとは思いますが、これでもやはり台湾や朝鮮半島の問題が抜けてしまう。なんでも遡らせればいいというわけではなくて、例えば文禄・慶長の役も考えなければいけないかというと、それはさすがに違う問題だとは思いますが、やはり近代日本国家、明治国家の歩みの中に今度の戦争というものを位置づける必要はあると思います。

 そこで地域の広がりに光を当てようということで、「アジア・太平洋戦争」という名称にしたわけです。ですから今回の講座における「アジア・太平洋戦争」という言葉の定義は、従来の定義とは微妙にずれています。明確な始めと終わりはないけれども、31年から45年までをコアとするひとまとまりの戦争を「アジア・太平洋戦争」と呼ぼうということを提唱したつもりです。このことは第1巻のまえがきで――成田龍一先生と吉田裕先生の共同執筆ですが――今回の講座において先の戦争をどう認識するか、名付けるかということについての編集委員の考えをまとめています。
世代間の橋渡し

 実は今まで講座について私がいろいろと述べてきましたけれども、これは当然、私の考えというよりは、この間に編集委員の方々に議論していただいたことを、私なりに反芻して述べてきたわけです。もし今回の講座が何か少しでも新しいことを打ち出せているならば、これは6名の編集委員の方たちに編集を引き受けていただけた、ということにかかっているのだと思います。

 倉沢愛子先生はインドネシア史がご専門ですが、それにとどまらない東南アジア、大東亜共栄圏という地域の広がりの中で、またアジア各地の宗主国、つまりイギリスとかオランダなども視野に入れて戦争を考えてこられた。
 杉原達先生は、朝鮮半島や大陸からの強制連行などの人の流れから見えてくる大日本帝国の姿というものを考えてこられた方です。
 成田龍一先生は、カルチュラル・スタディーズや総力戦体制研究などを通して戦争に取り組んでこられた。
 テッサ・モーリス−スズキ先生は、日本の歴史を一国史の枠組みではなくて、いろいろな国や地域との関わりの中で位置づけようとしてこられた。
 油井大三郎先生は、言うまでもなく日米関係研究を担われてきた方です。
 吉田裕先生は戦後歴史学の流れをくむと同時に先ほど述べた戦後歴史学の「一国史的」「単線的」といった問題も強く意識してきた方です。

 こういう、さまざまな問題意識を持つ編集委員の方に集まっていただいて長い時間を掛けて議論していただいて今回の講座が形作られてきたわけです。 
 それに加えて重要な要素は、編集委員の世代の問題なんですね。6人の編集委員の方々は、1945年の油井先生が最年長で、1954年の吉田さんが最年少です。先ほど戦争は45年で終わったわけではないと言ったのと矛盾しているかもしれませんが、全員が「戦後」生まれです。これまでもアジア・太平洋戦争に関する論文集や講座というのはいくつか刊行されていますが、編集委員の全員が戦後生まれというのは実は今回が初めてだと思います。

 今までのシリーズの編集委員を担った方々は、戦争を実際に経験して、その悲惨さを皮膚感覚として痛感した方々だった。研究者ですから「非戦」より「反戦」と言っていいと思いますが、とにかくそういった思いがベースにあったのではないかと思います。例えば「十五年戦争史」という全4巻のシリーズは藤原彰先生の退官を記念して88年〜89年に刊行されたものです。藤原先生は陸軍士官学校の出身です。20歳かそこらでいきなり中国大陸の前線に送り込まれて、小隊長、中隊長をやらされた。アメリカ軍を迎え入れて本土決戦を行うと命令された直後に日本がポツダム宣言を受諾した。今までの戦争に関するシリーズとは、そういった方々が作られてきたわけです。

会場 しかし研究者に限ったことではありませんが、実際に戦争を経験した方はどんどん高齢化して、お亡くなりになられています。戦争を経験していない人間がどのようにして戦争を考えるのかということが、大きな問題になっているんですね。藤原先生も亡くなりました。藤原先生と並んで戦争研究を引っ張ってきた江口圭一先生も亡くなりました。もともとは中世史ですが永原慶二先生もそうです。そういう戦後歴史学の中で戦争の研究を中心になって担ってきた方々が、どんどん鬼籍に入られています。

 今回は、戦後生まれの方々に編集委員を担っていただきたいと思って、先ほど申し上げた6名の方々にお願いをし、引き受けていただきました。そのあたりのことを油井先生が『図書』の10月号の「戦争の記憶と追悼の壁」というエッセイで書かれていますので、興味がある方はご覧いただければと思います。
 でも、この6人の編集委員の方々は、実は純粋な「戦後世代」というわけではない。それぞれ、学問的には、戦争経験者の教えを受けながら、自己形成を遂げてきたわけで、私のような1970年生まれ、戦争について全く手がかりがないというような人間とはちょっと違う。今まで戦争研究を担ってきた戦中派の方々とこれから担っていく戦後派の世代の方々を橋渡しをするのが、この編集委員の方々だと思います。
 そういうこともあり、執筆者は原則として編集委員よりもさらに若い方にお願いすることを意識しました。私よりさらに年下の方もいらっしゃいます。それはもちろん、最近の若い方々の活躍がめざましいということでもありますが。

 執筆者はそういうわけで戦後派、戦後世代ですが、戦争を経験された方々には月報でのご執筆をお願いしました。ご自身の戦争の経験と関連づけて書かれてきた方も多く、短い文章ですが、やはり読んでいて重みがあります。こういう編集上の「仕掛け」もしていますので、もし実際に手にとっていただく機会があれば、意識して月報を読んでいただくと面白いかもしれないと思います。

残された課題

 ここまで講座の編集に際して思ったこと、編集委員の方がたに議論していただいたことを申し上げてきました。そのことが実際の講座でどこまで達成されているかということは、読者の判断に委ねるしかないと思っています。

 その上で、いちばん初めに「つくる会」への応答を意識したのが、そもそも出発点だったということを申し上げましたので、そこに戻って今日の話のまとめにしたいと思います。「つくる会」とは異なる戦争の姿を示したいということがまずあったわけですけれども、それについてはあくまでも編集者としての立場からですが、なかば成功したのではないかなと思います。少なくとも今後の議論につながるものになったのではないかという思いはあります。と同時に、今後の課題、宿題として残されたこともあると思っています。

 基本的に学界における議論を体系的にまとめるのが講座ですから、戦争に興味をもつ方の多くに届いているかというと必ずしもそうではない。「つくる会」の主張に共感するのではないけれども関心を持っているような大多数の方々が手軽に読めるようなものではありません。これは「いい」「悪い」の問題ではありませんが、少なくとも当初の思いとは多少違うわけです。
 編集者としては、企画をどう位置づけるのかを多少なりとも考えるわけですが、私はある時点から――非常に誤解を招きやすい表現ではあるんですけれども――今回の講座は「川上」における出版だと位置づけました。こういうことを言うとすぐ、昔ながらの岩波の啓蒙主義であると、誤解されかねないのですが、ちょっとそれとは違う意味をこめているつもりです。

 今回は学術論文集ではありますが、それでもかなり多くの方々に読んでいただいているという手応えはあります。じゃあどういう方々が読んでくださっているのか。それは何かを「発信する」立場にある方々ではないだろうかと思うのです。たとえば、大学の先生や、高校・中学の歴史の先生ですとかあるいはマスコミの方々。エリートとかそういうことではなくて、戦争を考えるという時にご自分の考えや思いを他の人に伝える機会が多い立場にある方々ということです。多少遠回りになるかもしれませんが、そういった読者層の方々に、編集委員や編集部が議論した認識を共有してもらうことができれば、それに止まらない広がりが生まれるのではないかと思っています。例えば大学や高校の先生であれば、授業の中で、今回の講座が提起した問題意識などを、その方のフィルター、その方の認識を通して伝えて頂くことができる。ですから、当初の思いとは多少違うかもしれませんが、実はそんなに離れてもいないと思っています。

 課題が残るということをさっき申しました。今回は100名以上の方々とお仕事をすることが出来ました。今後もその方々のお力を借りながら、引き続き戦争やそれにともなうさまざまな問題を考えていきたい、それが自分にとっての課題ではないかと思っています。


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