有事法制研究の現段階 2001年8月25・26の両日、 湯河原の新聞協会寮で平権懇合宿学習会が行われ、 二つの報告と討論があった。 以下に松尾高志氏の報告を収録する。 |
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三矢研究と内局での研究継続 |
歴史的にロングレンジに振り返ってみますと、三段階でこの問題が進んできている。最初はミリタリー、自衛隊の幕僚のレベルです。次に防衛庁全体に上がったレベル。そして現在の、法案作業のレベル。この三段階で政治的には推移しています。 具体的に言いますと、最初は一九六三年の、自衛隊の統幕会議主催の幕僚研究である、三矢研究の段階。次は七七年に三原防衛庁長官が指示をしてスタートした、防衛庁としての有事法制研究の段階。現在の段階は森・小泉両首相が国会で検討すると意思表示して、内閣官房で法案化の作業が始まっている。 それぞれの段階がどういうことに対応しているかというと、最初の段階は一九六〇年の日米安保条約の改定に起因している。二番目の防衛庁としての有事研究は、古いガイドライン、七八年のガイドラインに起因している。現在の段階は、九七年の新ガイドラインに起因している。このように日米安保体制の進展、新しい段階に伴ってレベルが上がっているわけです。 警察予備隊ができてから安保改定までに一〇年、さらに三矢研究までに一三年かかっている。新安保から旧ガイドラインまでは一八年かかっている。それから新ガイドラインまでに一九年かかっている。これだけ時間をかけて新しい段階に進んでいる。このことをどう見るかということが、一つの問題です。ここまで時間をかけさせたと、私はそういうふうに思います。 では、どういう戦争を想定して作業が進められてきたのか。最初にこの戦時法制、非常事態法制というものが政治の場面に登場したのは、六五年の国会での社会党の岡田春夫議員の暴露によるものです。三矢研究と呼ばれる機密文書の中に、有事法制のことが記載されていた。三矢研究は自衛隊の幕僚研究で、暴露される二年前の六三年の二月一日から六月三〇日まで、ほぼ四か月にわたって行われた図上研究のコードネームです。正式名称は「昭和三八年度統合防衛図上研究」。 この幕僚研究に参加したのは、統幕会議の事務局を中心とした、陸空海三幕のエリートです。私は七〇年代の始めごろに、参加メンバーのリストをもとに、職員録で現職は何をやっているのか調べたことがあります。そうしたらやはり、自衛隊の主要な戦闘部隊の指揮官、幕僚になっていた。トップエリートを集めたというのは本当だなと思いました。この演習は防衛庁長官も知らないうちにやったと言われますが、内局も、防衛課のごく少数の者が図上演習の一部を視察しています。 三矢研究の文書に記載されていた「非常事態諸法令」がどういうものを指していたかというと、第二次大戦時の天皇制軍国主義時代の戦時法制です。その中から必要なものをピックアップしてリストアップする作業をやっていたわけで、法令の数からいうと八七本がピックアップされておりました。八七本の非常事態法令を国会に提出して一週間くらいで成立するというシナリオでした。 三矢研究がどういう戦争を想定していたかというと、朝鮮戦争シナリオです。朝鮮で戦争が起こって在日米軍がそれに参戦する。その時に自衛隊はどう行動作戦をするか、という軍事演習でした。なぜ六三年という時期にこういう幕僚研究がやられたのかというと、六〇年安保が改定されたことに起因していると思います。新安保条約は第五条で米軍と自衛隊が共同作戦を実施すると決めたわけです。旧安保では行政協定に共同作戦項目が入っていましたけれども、条約の中でこれを打ち出したのは新安保が最初です。そこで第五条にいう共同作戦計画を作ることがミリタリーの方で必要になって、その準備の一環として幕僚研究をやったと考えられます。 三矢研究が国会で問題になったのは六五年の二月です。その年の八月一一日に防衛庁で参事官会議が開かれまして、戦時法制をどう扱うかが議題になりました。そして内局の長官官房の法制調査官の下で研究していくことを決めています。三矢研究暴露で大騒ぎになって戦時法制研究は潰れたように言われているのですけれども、実際に防衛庁では法制調査官の下で研究を進めることを、その年のうちに決めているわけです。このことは六七年の国会で明らかになりました。衆院の内閣委員会、六月三〇日ですけれども、海原官房長がこういうふうに言っています。 「定例的にやっております参事官会議で、問題になりました三矢研究の際のいろいろなご要望と質問に答えて、いわゆる非常事体制についての法令の整備ということができていないことがはっきりいたしましたので、このことにつきましては防衛庁の私ども関係者が今まで怠慢であってまことに申し訳なかった。これから総合的な法令の研究を実はやろうとしているわけであります。そういうお約束に基づきまして、今後、非常時法につきましてもどういう研究をしたらいいのか、そのことが参事官会議の議題になっておったことは事実でございます。したがいまして、それにつきましては今後長官官房、法制調査官の下で関係局といろいろ連絡をしながら研究をしていこうということを決めたのは、当日の会議でございます」 この当時、自衛隊・防衛庁が考えていた戦争というのは、朝鮮有事です。この参事官会議のあと、戦時法制の問題は政治の表面からは消えることになります。 |
有事法制研究の正式スタート |
次にこの問題が政治問題として浮上したのは、一九七七年の八月です。この時の防衛庁長官は三原氏、彼が正式な指示をして、防衛庁は有事法制の研究を開始したわけです。この時の実務担当者が竹岡氏、彼が官房長でした。防衛庁の有事法制研究は七八年七月の栗栖統幕議長の超法規発言が引き金だったという説が流布しているわけですけれども、そうではなくて、一年前からスタートしていたというのが正しいところです。 栗栖氏は七八年七月一七日発売の『週刊ポスト』のインタビューで、いざとなった場合はまさに超法規的にやるしかないとしゃべって、これが大きな問題になりました。一九日の記者会見でも栗栖氏は「わが国が奇襲攻撃を受けた場合には自衛隊として、第一線の指揮官の判断で超法規的に行動しなければならない」と、念押ししているわけです。 二五日、金丸防衛庁長官は栗栖氏を更迭します。同時に金丸氏は、防衛庁首脳に有事法制・戦時法制について早急に検討に入るように指示します。福田首相も直後の二七日に国防会議の議員懇談会を開いて、有事立法の研究を急げと指示するというパフォーマンスをしました。これが大きな政治的問題になりまして、国会でも議論になる。ですからその前の七七年八月の正式な指示による有事法制研究のスタートは、ほとんど目立たなかったのです。 竹岡氏は後に『軍事研究』という雑誌に「背広の将軍、防衛庁惜別の詩」というタイトルの手記を書いています。「自分は幸いに法制担当の官房長に昭和五二年七月に就任しましたので、三原長官、丸山次官のご了解を得て、有事法制研究の作業を発足することとし、同時に八月の参院内閣委員会で初の処女質問をされる堀江正夫議員(これは自衛官OBです)からその旨の処女質問をしていただくことにして、それの回答として、正式かつ公然と有事法制の研究をスタートさせることに成功しました。三原長官は慎重にも事前に福田総理に了解を得ておられました」 ヤラセ質問をやって、有事法制研究が正式にスタートすることを国会議事録に残したわけです。その質疑は八月一一日、参議院の内閣委員会でやられています。その翌年、栗栖発言があるわけですが、それまでの間の防衛庁の作業について、同じ手記で竹岡氏は次のようなことを書いています。 内局の法制調査官を長として、統幕・各幕法制担当者からなるチームを編成して、半年に及ぶ熱心な勉強の結果、昭和五二年十二月末には百項目以上の検討項目(大部分は各幕間で重複するものが多かった)が整理されて、法制調査官室では、十の包括項目に大区分した。まず簡単な他の法令の適用除外項目から研究が開始されて、二週間に一回の割合で研究会を開き、昭和五三年七月ごろまではこの項目についての一読会が終わり、次の項目に行こうとしていた。 十に分類したうち一項目について概略が終わったところで、栗栖発言が起こったわけです。では、なぜ七七年に正式なスタートをしたかというと、これは翌年の七八年十一月に同意された旧ガイドラインに密接に関係していると思います。旧ガイドラインのスタートは実は七五年の八月にさかのぼるものであって、坂田防衛庁長官とシュレジンジャー国防長官が八月二九日に防衛首脳会議を初めてやった。この時は四月三〇日にサイゴンが陥落しておりまして、アメリカではその二年前に撤兵をしておりますから、ポスト・ベトナム期のアジア戦略の再編成が話し合われたわけです。この会談の中で自衛隊の軍事分担の拡大が討議されている。 三矢研究が暴露されて以来、防衛庁ではタブーとされていた、日米共同作戦計画を作ることについて、ここで合意がされたわけです。翌年七八年六月に、そのために日米安保協議委員会の下部機関として、防衛協力小委員会が組織される。日米安保協議委員会というのはいまで言う2プラス2、安保協議委員会は日米安保を運用する最高の議決機関です。この下に正式に小委員会を作った。これまで制服組の人たちは協議機構に参加を許されないで、みなシビリアンが処理していたのです。それが、小委員会のレベルで初めて制服が入りました。そして、この小委員会の下でガイドラインの策定作業を行う、というふうになりました。 実際の作業は、小委員会のさらに下部機構で行われました。部会と言っていますが、作戦・情報・兵站の三部会を設置した。この三部会のレベルではシビリアンは入っておりませんで、制服同士の協議になりました。ですから、七七年という時期にはすでに作業は相当に進んでおりまして、防衛庁としては当然、戦争計画を作るとなれば戦時の法律が必要になる、という認識が持たれた時期です。 もう一つ注目しておく必要があると思われるのは、七八年の八月に金丸防衛庁長官が指示をして、統幕会議を中心にして統合防衛研究が始まります。これは幕僚研究です、三矢と同じ。共同作戦計画を作ることになったわけですから、自衛隊としても統合運用をどうするかということで、幕僚研究が必要になったと私は思います。ですから、旧ガイドラインを視野において、二つの大きなプロジェクトを自衛隊で同時に行った。一つは有事法制の研究、もう一つは統合防衛研究です。 共同作戦研究の想定は、二つあります。一つはいわゆる日本有事の作戦計画の研究をすること。もう一つは、新しい軍事分担として出てきたものですけれども、極東有事の際の米軍に対する日本の便宜供与。後者は安保六条事態と言っています。この時の極東の概念は、政府の国会での説明では、安保条約で言うところの極東と同じ概念であるということです。この時に戦争として何が想定されていたかというと、一つはアメリカの軍事戦略から考えると、ソ連との戦争ですね。その文脈での日本有事。もう一つは朝鮮半島シナリオです。この二つが具体的な戦争として考えられていたわけです。 この朝鮮半島シナリオが極東シナリオだということは、坂田・シュレジンジャー会談の直後にシュレジンジー氏が話したことで分かります。アメリカ大使館で外人記者団と懇談した際にしゃべっていることですが、「韓国に何かあった場合は、在日米軍基地の補給機能が役に立ちますから、日本は間接的には韓国の安全に寄与できるわけです。日本の自衛力、とくに防空、海上自衛隊の存在は、周辺地域全体の安全を高めるという、派生的効用を持ちます」 このように戦争を実際に遂行することが可能な法整備は、防衛庁のレベルで有事法制研究という形で始まりました。この時の旧ガイドラインでは、立法上の措置は義務づけられるものではないとされていましたので、防衛庁としても、この研究はあくまでも法制化を前提としないものである、という説明しています。 |