「国民の物語」の登場
 〇年代になって非常に出てきたのは、「国民の物語」、ナショナル・ヒストリーというものを作っていこうとする動きです。西尾史学もそうですが、下からのナショナリナリズムと言いますか、民衆の自立とつながったナショナリズム。これをネオ・ナショナリズムと言っていいのかどうか分からないんですけれども。坂本多加雄さんなどは、物語の共有とか、記憶の共同体によって、日本人のアイデンティティ、国民を形成しいく物語を一種の国家の正史として作っていこうじゃないかと非常に強く言ってきた。構成主義的な歴史観とつながっているわけですね。
 
〇年代にポスト・モダンが出てきて、非常に小さな物語しかないんだと主張しました。あらゆるものを相対化して、マルクス主義とか民主主義とかいう大きな物語でなく、小さな物語でいくと。そのポスト・モダンの後に、逆に今度は大きな物語を作りだそうという動きが、九〇年代の論調になりつある。そして国家の物語の方へ、自分たちのコミットメントをしていこうではないかという若い世代が出てきつつある。ですから結局、ポスト・モダンはネオ・ナショナリズムの露払いをしたという意見もあります。逆にポスト・モダンはバブルと同じで崩壊したんだという意見もあります。
 
国・韓国から「新しい歴史教科書をつくる会」に批判が出てきて、これが外交問題まで発展しつつある『国民の歴史』という西尾さんの本は、産経新聞社を通してばら蒔かれたわけですね。自虐史観と国民の物語は根は一緒で、いわば国民のレベルでの連続性と正統性を回復しようとする動きです。
 
真理子さんはどうして「つくる会」に入ったかというと、アンチ・フェミニズムからでした。八〇年代にアグネス論争というのがありまして、アグネス・チャンが職場に自分の子供を連れて来たのに対して林さんが非常に怒って、そこで上野千鶴子さんたちフェミニストも含めて大論争になった。ですから、フェミニズムが従軍慰安婦問題を非常に強く押し出して来ることに対する批判が、林真理子さんを「つくる会」に入れさせたと思うんですね。
 
田国男派の大月隆寛さんとかが「つくる会」に入るのは、一種の国民の土着の語り、オーラル・ヒストリーというものを確立していかなければいけないということです。しかし「つくる会」は従軍慰安婦問題で、きちんとした文書がないと言っているわけですから、これは矛盾するんですね。
 
う一つ、西尾さんたちのいちばんの大きな主張は、日本は戦前の戦争で負けたのではなくて、戦後の戦争で負けたんだということです。つまりアメリカの占領から戦争断罪史観、罪悪史観になったと。それで反米という考え方が、これは石原慎太郎さんを含めて、えひめ丸の事件もありますけれども、だんだんと強まってきている。西尾さんは日米戦争はアメリカが仕掛けたんだと言う。小林よしのりさんも、日本があんなに国力の差のある米国に対して植民地解放で戦ったことを誇りにしなけりゃいけないという考え方です。中国は専制国家で、利己的な個人主義で、と反中国も徹底していますし。もう攘夷論ですね。まわりは全部敵であるという考え方から日本の国民の物語を作ろうとする。
 
ういう意味では、西尾さん、小林さんの考えかたを皇国史観の焼き直しとする永原慶二さんの考え方も、ある部分では当たっているかもしれません。ただ、今の無関心の若者世界、マンガとかアニメで作られてきた人たち、戦争の起源もあまり学ばないできた人たちがこれを受け入れるのは、小林さんや西尾さんが戦争はどうして起こったかにほとんど触れないからですね。ですから、今度は田原総一郎さんが『日本の戦争』で、どうしてあんな失敗をした戦争をしたのかを書いたのも分からないことではない。
 
林さんが自己犠牲の尊さというと、なんとなくふらふらしている若者たちにアピールする。他人のために死ぬということ、自己犠牲という考え方を間違って捉える。
 
の前の新大久保の駅のホームからの転落事件もそこにつながってしまう。「プライベート・ライアン」という映画は、一人の兵士を救うために自己犠牲になって死んでいく高校の教師の物語でした。そういう人間の生きかたという問題とつながって、戦後の若い世代に戦争と平和論が深く入り込みつつあるというふうに考えます。

 質問に答えて
 パースの『戦争の罪を問う』は一九四六年に初版が出ている、高橋哲哉さんや大越愛子さんたちのタネ本のような本です。ヤスパースは戦争の罪を四つに分けています。政治的な罪というのは戦争を起こした戦争指導者たちの罪です。法律上の罪は人道に対する罪、戦争犯罪です。道徳的な罪というのは、自分が戦争に参加したことによって相手を殺したりすることに対する、個人的な道徳上の罪。形而上的な罪は、神の前から見た、人を殺すことに対する罪。これを受けて高橋さんや加藤さんが、形而上的な罪についてはあまり言っていませんけれども、三つの罪について論じている。
 
いでに言いますと、ラディカルなフェミニストである大越愛子さんは、今の日本の歴史修正主義を三つに分けています。一つは原理主義的歴史修正主義。これは大日本帝国の侵略戦争を欧米植民地主義に対抗する自衛戦争、もしくはアジア解放戦争とみなす。南京大虐殺はなかった、従軍慰安婦は商行為であり、強制連行はなかったとする。日本の戦争犯罪を否定して国民の物語をつくり出していく。ここに藤岡信勝さん、小林よしのりさん、西尾幹二さんを入れています。二番目に国民主義的歴史修正主義。これは大日本帝国戦争を不正な侵略戦争と認めるが、戦後日本は二つの人格に分裂し、謝罪主体の国民を構成してこなかったとする。国民的な日本の歴史主体を形成しようとする、下からのネオ・ナショナリズムである。これには加藤さんたちを挙げています。三つ目は市場主義的歴史修正主義。これは上野千鶴子さんに対して言っているわけですが、歴史論争の中に倫理的判断や責任意識を導入することに否定的である。批判者に対しても冷静的、批判的、相対的なまなざしをむける。歴史論争では多元的な、あらゆる昔の物語があっていいだろうとしている。このように整理しています。

 
岸戦争の文学者反戦声明は、戦争そのものの否定なんです。戦争は何であろうと全否定、憲法があるからと。それに対して吉本さんや加藤さんは、それはおかしいと言っているわけですね。それではどこかに加担することになるのではないか、旧ソ連に加担するのではないかとか、イラクに加担することになるのではないかと言っているわけです。この場合に聖戦論と反戦論は、対になって出てきている。聖戦論と反戦論だけでなく、第三の道があるというのが、加藤理論なんだと思います。
 
メリカはどちらかというと聖戦論が非常に強いわけですね。スミソニアン博物館でエノラ・ゲイの原爆展が問題になった時も、あれはアメリカの聖戦であったと、原爆を落とさない限り日本は降伏しなかったし、民主主義は滅びただろうし、戦死者もたくさん出ただろうと言われた。しかし日本の場合、どこの国が悪いというのではなくて、戦争そのものが悪いというのがヒロシマ・ナガサキの考え方で、これがいったい正しかったかどうかという問題が九〇年代に問われたわけですね。
 
界の秩序のための戦争というのは聖戦論になる。おまけに、テクノロジーによって戦闘員を殺さないような、まあこれはほとんどウソに近いかもしれませんけれども、ピンポイント爆撃のようなものが出てきた。世界秩序のためには人権を守るという、もちろんそれは西洋の人権概念かも知れませんけれども、要するに人権が破壊されていれば、北朝鮮であろうと中国であろうと、戦争をしかけてもいいという極端な議論にまで発展する可能性があるわけですね。
 
戦論に対して反戦論だけで説得力があるのかどうか。戦争は嫌だから嫌だ、戦争は全部否定だというようなことでいいのかどうかというところが、九〇年代に問われたのだけれども、まだそれがはっきり出て来ないわけですね。ですから脱国民国家というのをどうやっていくのかという議論が、混迷していると思うんですよ。国民国家の国民の物語の中に、じわじわと磁力によって引き込まれつつあるけれども、こういう議論をしていると、そこが乗り越えられなくなってしまう。戦争放棄・平和主義が、日本の国民国家のひとつのイデオロギーだという考え方を中国などがした場合に、どういうふうに説明することができるのか。その前に謝罪だ、戦争責任だと、また堂々巡りに入っていく。

 
九九五年に高市早苗という議員が、戦後世代に戦争責任はないという発言をしました。戦後世代に戦争責任はないということはきちんと論じられているのかどうか。加藤さんも高橋さんも、家永三郎さんの『戦争責任論』は本質主義であるとして、日本人は連続しているんだから戦争責任は後の世代まで遺伝するという連続史観を批判しているわけですね。そこで加藤さんは戦後責任論に入る。つまり戦争責任をとらない戦後責任があるという言い方に入っていく。高橋さんも、いま中国とか韓国の若い人たちとつきあう時に、全くそれを無視していいのか、他者とつきあうときにそれがきちんとないと、本当に自立した個人同士のつきあいにならないのではないか、という考え方に入っていく。

 
義的責任とか政治的責任とは別に、法的責任を非常に強く言っているのは、やはり従軍慰安婦とか、中国人の戦争被害者とかです。ただ東京地検が一九九四年に告訴を受理しなかったということがありまして、ここから法的責任は賠償で済んでいるという形で、全部拒否されている。ですから二〇〇〇年の女性国際戦犯法廷は、、責任者処罰をしろということでやった。これがNHKの番組では改ざんされたというので、松井やよりさんなどが怒っているわけですね。これはイデオロギー闘争に近いと思いますね。
 
つくる会」の教科書には中国や韓国の懸念表明とか抗議が出てきて、森さん以後にどういうふうに解決していくか。一三七カ所とか検定修正しても、基本が変わっていないということから、再度大きな外交問題に発展する可能性大です。あれは反中国ですし、朝鮮併合も日本が近代化をしてあげたんだという、全くの攘夷論です。それで反米でしょう。アメリカは内政干渉になるというので言ってこないのかも知れませんけれども、本当は抗議すべきことではないでしょうか。日米戦争は七割アメリカがやったとか、アメリカが占領下で日本人を洗脳したということを延々と書いていますから。

 
治経済では確かに、EUも含めて国民国家は揺らいでいるんですね。しかし文化的な、創造の共同体としての国民というものは、例えば言語とか文化的伝統とか、そういうものは逆にグローバル化すればするほど、自分たちがいかに違うのかという根拠として、ますますナショナルなものの方へ入って来つつあると思うんですね。例えば文学は日本語でしか書けない、詩も日本語でしか書けない。日本語を使うこと自体が日本人の「われわれ意識」をつくり出すんだと、国民の物語派などが言っていますけれども。グローバル化すればするほど、文化的なものは精神的なものは、逆にアイデンティティを求めていく。それをうまく利用しているのが、国民の物語を作ろうという一派ですね。
 
のへんはまだいろんな議論があるんですが、最終的に自国史をどうするのか、全部含めた世界史的なものができるのか、ということが一つあります。それからもう一つ、網野善彦さんなんかが言うのは、日本に一国史というのはない、昔からあらゆる国から来ているということです。海から来ているし、もちろん土着民もいたし、アイヌもいたし、エゾもいたし、ツングースもいたし、沖縄もあった。つまり多元的なものであった。
 
西日本の社会がまるで違う。日本国史を内部から多元化すれば国民国家を日本人の中から壊していける。それが外とつながるかどうかという問題が出てきているような気がするんですね。
 
このところが、まだ誰にも分からないですね。戦後世代が今後どういうふうに動いていくのかも。言えることは、戦争世代が、生物学的にもほとんど亡くなっていくということですね。網野さんが言うには、高度成長の時にほとんど農村が壊滅した、その時に初めて日本の生活はどうだったのか、百姓の生活はどうだったのかという民俗学が成り立った。そうしますと戦争体験も、戦争世代が亡くなった時に初めて、どういうふうにそれを記憶として新しく作り上げていくのかという問題になる。これは歴史学の問題としても未解決です。ただ、もう確実にそれは二〇一〇年、二〇年には出てくる。
 
は世代論はあまり取りたくないんですけれども、戦争体験がない、身体イメージを喪失しつつある、戦争ゲームとしてアニメとかビデオをとらえてきている若い人たちと、実際に中国戦線に行って戦った兵士たちと、まったく身体経験、個人的な経験が違うわけです。その蓄積をどういうふうに伝えるかということですね。それに対して歴史修正主義は、記憶を忘却させる、記憶を修正してしまう。いまその戦いが起こっているような気がします。


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