準備書面(2)
2004年10月22日
東京地方裁判所民事第15部合議A係 御中
原 告 鈴 村 元 一
目 次
(1).はじめに
(2).イラクに対する「大量破壊兵器査察」の実態
1.湾岸戦争後の国連査察体制
1)国連特別委員会(UNSCOM)
2)抜き打ち査察の開始
3)生物化学兵器の有無
(注、「石油食糧交換計画」)
4)イラクが何故、査察を嫌うか
2.査察体制の崩壊
1)ロシアの仲介
2)98年国連の勝利
3)アメリカ議会のフラストレ−ション
4)査察体制の終焉
3.開戦までの道筋
1)戦争を決意するに到った最終的理由
2)逡巡するアメリカ
3)国連の舞台
4)「国連決議1441号」
5)査察団による中間報告発表
6)「国連決議1284号」と「国連決議1441号」
7)査察日程短縮への抵抗
8)国連査察団の「最終報告書」安保理に提出
4.イラク国民の意識の一端
(3).原告の主張
1.「羊頭狗肉」
2.無意味な自衛隊派遣
(4).今後の主張計画
(1).はじめに
イラクの大量破壊兵器の保有については、かなり早期、原告の提訴以前から否定的な観測が専らでしたが、現在(10月15日)に至っては、完全に「シロ」であることが確定したと思われます。
にもかかわらず、原告は、現段階においても「大量破壊兵器査察」を詳細にに検証してみたいと思います。
理由の一つは、日本国憲法、前文2段の「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」を信条とする日本人として、国連査察を提案する思考、査察の手段・手続き、実行行動等々にどんな関心を払い、如何に関わってきたのかを顧みたいと思うからです。
「経済封鎖」の語感は「武力行使」に比べて、直接的破壊・殺戮の印象ををやわらげる効果はありますが、事実は武力の背景・威嚇を前提としたもので、優勢な武力を保持する側が、劣性の側を制圧・強制する準戦闘行為であり、その逆は成立しません。主権国家に飛行禁止空域を設定し、他国軍の偵察飛行を認めさせる、という状況下で経済封鎖を実行したことはその一例です。そして、なにより悲惨なことは、経済制裁は弱者や一般庶民に、より大きな不利益、非人道的影響が出ることです。
加えて、「疑わしきは場所は空爆だ!」と宣戦の布告なく主権国家に爆撃を敢行し、査察段階から一般国民の犠牲者は増え続けました。
我々の日本政府は開戦までの期間を通じて、人道的立場で何を行い、どんな発言をしてきたのでしょうか。
日本は、空爆に反対したでしょうか、答えは「否」です。今回のイラク開戦を支持したのと同じく反対はしませんでした。何故でしょうか?
日本政府は、憲法の条文解釈にのみ専心して立法精神を置き去りにしていると思います。日本自身は建前として武力行使はしない、だが、他国、特に同盟国であっても国際紛争を武力行使によって解決するのは可としているのだと原告には受け取れます。
大量破壊兵器査察問題と経済制裁、そして空爆がイラクの国民に与えた苦痛は、国民感情にどのように反映し、どんな正邪の判断基準を創り上げたのでしょうか。我が身のことに振り替えて考えると、現状の治安の悪化も納得できる一面があるように考えます。
結果として今回、大量破壊兵器の発見には到りませんでしたが、万一、大量破壊兵器の保有があった場合でも、日本国憲法の精神からするならば、開戦に反対するべきなのです。
このように日本国憲法の立場、すなわち平和的生存権の立場から「国際政治」を思考するとき、イラク戦争の真実を正しく把握することは大切なことと言わなくてはなりません。そのための重要な鍵は「大量破壊兵器査察」を検証することだと原告は考えています。
この問題は、原告への権利侵害、原告適格に関係してくる事柄を含んでいますので、煩瑣な拙文ながら真剣に記述いたしますので、精読くださることをお願いいたします。
(2).イラクに対する「大量破壊兵器査察」の実態
1.湾岸戦争後の国連査察体制
1)国連特別委員会(UNSCOM)
国連は、1991年の停戦決議である国連安保理事決議687号に基づいて、国連特別委員会(UNSCOM)を設立しました。
その目的は「イラクにおける大量破壊兵器の廃棄とイラクにおける長期の軍備監視システムを確立する」こととして、具体的には「生物化学兵器、ミサイル自体を没収、破壊し、その開発計画や調査を廃棄する」ために活動することになりました。
UNSCOMは定期的に報告書を安保理に提出し、そこで「全ての大量破壊兵器が破壊された」という証明書が出ない限り、経済制裁は解除されず、毎回更新されるのです。
UNSCOMは1991年から2年間に29回調査団を派遣し、核兵器開発や細菌兵器開発計画に関する膨大な量の書類を押収、89の弾道ミサイルと化学兵器を廃棄処分にしました。
イラクは、91年10月ごろから、すでに国連との間の小規模の摩擦を起こしており、92年には農業省への立ち入り検査を求めた査察団が入省を拒否される事件も生じています。
2)抜き打ち査察の開始
国連活動に対するイラクの妨害は、96年以降急激に回数が増えます。 これはイラク側が態度を硬化させたというよりも、国連側が査察方式を変えたことが原因でした。
変更理由は、95年に亡命したフセイン大統領の娘婿、フセイン・カ−ミルがもたらした軍事情報にありました。このフセイン・カ−ミルの情報によって、イラク側が事前に機密を隠匿できないよう、抜き打ち査察を行うこととなったのです。
これに対して、イラク政府はこれを阻止し排除しようとして、両者の間には激しい摩擦が生じます。
当時の査察団の中心メンバ−であった、スコット・リッタ−は、自らが指揮した抜き打ち査察での、イラク官憲との一触即発状態を回顧していますが、長文になるので、ここには引用しません。(『イラクとアメリカ』酒井啓子著 岩波新書 188p 参照)
3)生物化学兵器の有無
フセイン・カ−ミルが暴露した情報のなかで、UNSCOMが最も重視したのはイラクが生物化学兵器を予想以上に開発を進め、兵器化している、という情報です。
95年7月にようやくイラク側もその開発計画の存在を認めましたが、兵器化はしていないと報告します。だがその数ヶ月後には、イラク政府は一転して兵器化の試みまで進めていたことを認めざるを得なくなります。
フセイン・カ−ミルが所有する養鶏場に隠匿されていた大量の機密書類を押収してみると、長距離ミサイルのさらなる開発やVX神経ガスの生産、核兵器開発などが計画されていたことが、明らかになりました。
これまでイラク政府が報告してきた大量破壊兵器情報はあてにならない、という見解がUNSCOMののなかで一般的になり、査察団は特にVXガスの痕跡を探すことにやっきになっていきます。
- 96年5月にはイラクの主要な生物兵器生産工場であるハカム工場を破壊。
- 97年10月にはさらに大量の化学兵器を破棄。
VXガス探しの攻防は98年に山場を迎えます。6月、VXガスが付着したミサイル弾頭が複数押収された、との報告に、イラクの軍拡疑惑は俄に現実味を帯びることになったのですが、----
- イ.最初アメリカの試験場でVXガスの痕跡が検出されたのに、
ロ.スイスで実施された検査では結果はシロ、
ハ.さらにフランスでは長い間、態度を決めかねた上に限りなくクロに近いと判定、という調子で、結局判定できずに終わってしまいました。
この時期「食糧のための石油」(注)輸出を巡ってフランス、ロシアなどが積極的に親イラク活動を行なっていた時期でもあり、査察行動自体がいかに政治的駆け引きのなかで振り回されたかをよく示す出来事であると評されています。
(注)「石油食糧交換計画」(Oil For Foods Progrsm)
開戦の動機の一つとも推測されるユ−ロ対ドルの問題を含むので、本題を少し離れて注釈を加えます。
- 湾岸戦争以降、経済制裁を受けているイラクの石油販売代金は、国連の管理下にあった。
A国民の食糧や医薬品などの購入代金に充てる条件でのみ、イラクは石油を輸出できるのである。これをオイル・フォ−・フ−ド・プログラムという。- しかも、大儲けできないように、国際市場の価格Priceよりかなり低い値段でしか販売できない。
- その安くて高品質の石油の80%近くを買い占めているのがアメリカの石油会社だ。
- 年間120億ドルを超える代金の決済が、ユ−ロになったら、アメリカは大変なことになる。
- フセインは、「もし、国連が我々の要求を飲まない場合は、石油の提供を一切ストップする。」と脅した。
- 世界の石油需要の5%を占めるイラク原油がストップすれば、パニックが起こる。当然のごとく「イラクの要請はやむなし」との結論に到った。
- 早速フセインはそれまで国連にドルで預けられていた石油売り上げ代金100億ドルをユ−ロに変えた。
当時は、ユ−ロがドルに対し弱含みだったので、経済的に見ればフセインの行動はバカげたことだった。- だが、その後、ユ−ロが強くなり、結果的にフセインの判断はイラクの資産を17%近くも膨らませることになった。
その直後、イラク政府は「パレスチナへの人道支援」の名目で1億ユ−ロ(130億円)を国連に寄付している。
(『イラク戦争日本の分け前』ビジネスとしての自衛隊派兵 浜田和幸著
光文社 ペ−パ−バックスより 113〜114p)
4)イラクが何故査察を嫌うか
暴露された機密のつじつまあわせに汲々としていたイラク政府は、96年2月以降は、再びUNSCOMに対して強気の姿勢をとります。
イラクが査察団と最も対立した点は、大統領宮殿など国家安全保障上「機微な場所」と見なされる施設への立ち入り問題でした。
査察団は、大統領宮殿とは名ばかりで、その中に機密書類や資材が隠蔽されている筈だ、と宮殿内の査察を要求しました。
イラク側の不満は、
- 全国各地に相当数建設されている「宮殿」はフセインの隠れ家であり、暗殺や謀略を避けるためには内部情報は絶対機密であった。
- 査察団のメンバ−の多くが謀報関係者で、しかも主要メンバ−は英米出身者であった。→彼らは、査察で得た情報を本国の対イラク工作に利用していた。
*「イラク政府は査察団をアメリカのスパイ≠ニ非難しているが、それは事実である。」(前掲載 酒井啓子による発言)
そもそもイラク政府は、査察開始当初から、査察行動と経済制裁にタイムリミットがないということに不満を露にしていました。
無期限、無制限の査察体制にイラクは抜きがたい不信が増幅して、- 「英米はイラクに対する経済制裁を解除するつもりは全くなく、 査察団に協力を続けたとしても制裁は解除されないに違いない」という認識が生まれた。
- 「英米のスパイである査察団がイラク政権の弱体化を狙って内部情報取得のために活動している」と理解するようになった。
(酒井啓子氏は「大統領関連施設や共和国防衛隊施設への査察は、フセイン本人に対する内部工作の下調べであろう、とイラク政府が考えたとしても、不思議ではない。」と断言している。192p)
2.査察体制の崩壊
1)ロシアの「仲介」
97年9月に始まったイラクとUNSCOMの、大統領宮殿への査察を巡る衝突は、英米が「武力行使を辞さず」とイラクに脅しをかけるなか、一触即発状態に陥ったが、ロシアの外交的仲介によって一旦収 拾された。
ロシアが提示した仲介案は
⇒「査察委員会におけるアメリカ人比率を下げるために、ロシア人、中国人の委員を増員する」
というもので結果的には 「査察団は英米のスパイ」というイラク政府の主張を代弁するものでした。
このときイラクがロシアに期待したことは、経済制裁の「非人道性」を強調して英米を「悪者」にし、問題解決の主導権をアメリカから親イラク諸国に移行させることであったと思われる。
2)98年国連の勝利
翌8年、ロシアに主導権を取られた英米は、「砂漠の雷鳴」作戦を準備して、対イラク軍事攻撃計画を着々と進めます。
しかしイランは、今回「仲介役」にアナン国連事務総長を引っぱり出します。イラクは、国連内の「人道的意見」を利用して、2月末にアナン事務総長とフセイン大統領の直接会談を実現させました。
- 秒読み段階に入っていた「砂漠の雷鳴」作戦に待ったをかけた。
- 査察団の「スパイ」疑惑を解消するために特別チ−ムを査察に同行させることや、国連が経済制裁の解除を目的としていることを明言させる。
等々、イラクにとって有利な合意を取り付けた上で、査察団の受け入れを認めた。
※ここにおいて、英米の軍事路線に対するその他の安保理常任理事国、および国連事務総長の外交路線の勝利、という構図が明確になった。 (⇒アナン事務総長がバグダッドからニュ−ヨ−クの国連本部ビルに戻ったときの、国連職員が総出でアナンの到着を拍手大喝采で待ち受けていた。)
3)アメリカ議会のフラストレ−ション
親イラク国と国連の「勝利」によって、イラクを封じ込めておくための国際的協力を維持し続けることが困難であるばかりか、制裁に拘泥する英米こそが国際社会での「少数派」になりつつあることに、アメリカは気づきはじめた。
クリントン政権にできたことといえば、対立を続けるクルド反体制派のKDPとPUKとの調停に成功したくらいで、シリアをはじめとして周辺諸国が急速にイラクとの経済関係を回復させていくのに対しても、座視するだけであった。
だが、納まらなかったのは当時の米議会、共和党である。
- クリントン政権の弱腰を批判。「フセイン政権の打倒」がはっきりとした潮流として出てきた。
- 彼らの危険視の内容とは
- イ)大量破壊兵器が完全に破棄されたかどうかにも確証が得られず、またイラク国内において体制上の変化も見られないままに、フセイン政権のイラクがなし崩し的に国際社会への復帰の道を着実に歩みはじめること。
ロ)「フセイン政権が替わらなければ、再びイラクが軍事大国の道を歩み、湾岸地域の安定を脅かす」という強い認識であった。
こうして米上院は98年3月以降、イラク反体制派支援のための予算を次々に計上していきます。
- 国防省予算に3800万ドルを増額し、「民主的」と見なされた反体制派にたいする政治的支援や反体制派のラジオ放送のために使用することが決められた。
- 9月末には9700万ドルの反体制派軍事支援法案が提出され、10月に「イラク解放法案」として可決された。
クリントン政権は、議会に押される形で「フセイン政権の打倒を目指す」との政策を明示的に掲げることになった。
4)査察体制の終焉
イラクは相変わらず査察団との押し問答を繰り返していた。アナンとの合意以来、査察団の受け入れは一応続いていたが、要所への立ち入り拒否は減らない状況であった。
クリントン米政権は、年末、査察団がバアス党本部への査察を拒否されたのを見て、待ちかまえていたように空爆を実行する。
- 98年12月16日、UNSCOMが「イラクが査察に非協力」と記した報告書を提出したその日、英米は、首都の謀報機関やミサイル基地、化学兵器工場、共和国防衛隊施設などを空爆した。
- 作戦は「砂漠の狐」と命名され、4日間にわたり主要政府、党、及び産業施設に激しい攻撃が行われた。
しかし、この作戦は、開始とともにその限界がはっきりわかる作戦であった。- 空爆を開始したのは、ラマダ−ン月の4日前である。ムスリムにとって戦争中であっても休戦するのが常識であるラマダ−ン月に入ってまで攻撃を続けるほど、積極的な意味が込められた空爆ではない。
- 最初から4日間と限界のある攻撃に、どれだけの効果があるのか。 クリントン大統領のセックス・スキャンダル隠しの空爆、と揶揄されたのは、こうした中途半端さゆえである。
この空爆の逆効果。- フセイン政権は、空爆を生き延びたことで声高に「勝利宣言」し、国連に対する姿勢は一層硬化した。
- 以来査察団はイラクに入ることが一切できず、空爆は、結局UNSC0Mが機能停止したことを白日のもとに曝け出したに過ぎなかった。
1年の空白期間の後、1999年の末に、安保理はUNSCOMを継ぐ機関としてUNMOVIC(国連監視・証明・視察委員会)の設置を決定したが、この新組織の委員が訓練を終了してようやくイラク国内に派遣される準備が整ったのは、2000年も秋になってからであった。→このこともイラクは拒否し続けた。
この長いブランクは、国際社会がいかに査察体制の再確立を急務と考えていなかったかを示している。
3.開戦までの道筋
(◎ここからは、9.・11から開戦までの経過を検証します。)
1)戦争を決意するに至った最終的な理由。
イ)世界各地で行われた世論調査の答え。
「イラクの民主化」というアメリカの「善意」を人々は決して信じていない。
- 「石油利権の独占」
- 「ユダヤ・ロビ−の影響」
- 「アメリカの新保守主義者による新たな帝国主義」
- 「ブッシュ大統領自身のあまりにも信仰熱心なキリスト教保守主義」
ロ)2001年9・11同時多発テロ事件
この事件がなければ、開戦の決断は下されなかったとの、推測もなりたつ。
事件以降、「アメリカの国民がテロの不安に再び駆られることなく、安心して生活できるために、政府がそのために常に努力しているのだ、ということを示すために、中東で“テロに対する戦い”を継続していかなければならなくなった」のである。
だが、イラクを直接攻撃することで「アメリカ人の安寧」が得られるかどうかについては、9・11直後から明示的だったわけでは必ずしもない。
ハ)「アフガニスタン戦争」
「イラクを叩く」という方針が具体性を帯びてきたのは、2001年末のアフガニスタン戦争での、予想外の早い軍事的成功によってであろう。
⇒ソ連を長年てこずらせたアフガニスタンで、わずか一ヶ月程度で政権の交替を実現した、という自信が、イラクでの政権交替も容易に可能だ、という認識を生んだ。
- 到底根付くはずもなかろう、とその安定性が懸念されていたアフガニスタンのカルザイ外来政権が、形だけでもなんとか維持されている。
- 同じように次期政権の受け皿がない、と言われるイラクでも、それなりに亡命政権を埋め込んでしまえば、案外もつのではないか。 アフガニスタンでのそれなりの「成功」が、イラクでの武力による政権交替を楽観的に見せたに違いない。
2)逡巡するアメリカ
イ)2002年の年頭の一般教書演説で、イランとイラク、北朝鮮を「悪の枢軸」と指名したブッシュ大統領だったが、2002年7月頃までは具体的な対イラク行動に取りかかろうとしなかった。理由は
- 4・5月頃のパレスチナ問題の深刻化。特に4月初めにジェニンで発生した大量虐殺は、アラブ・イスラ−ム諸国のみならず世界に衝撃を与えた。
このような空気のなかで、同じアラブ国であるイラクをアメリカが叩く、と発表することは、アラブ・イスラ−ム諸国の不信、反発が蔓延するなかで、火に油を注ぐようなものだった。- .国内の質問への対応⇒質問内容
・「フセインがどの程度差し迫った脅威なのか、説明せよ」「いったい何のためにわが国民の子弟を戦場に送らねばならないのか、はきりしてくれ」
・戦費コストの問題。とりわけ焦点となったのは、戦闘自体もさることながら戦後処理にも多くのコストと長い米軍の駐留が必要になるのではないか、という懸念。- 国際社会との関係
政権の重鎮政治家たちが次々に慎重論を米有力紙に披露した。しかし、これは戦争遂行自体についての慎重論ではなく、戦争を単独で行うこと、あるいは入念な準備なしに行うことに対する慎重論である。⇒「9・11以降、国際的反テロ同盟がアメリカを中心に確立されている。しかいここで国際社会の了解を得ずして対イラク攻撃に踏み切れば、せっかく構築された反テロ同盟は瓦解する危険性がある。ここは国連を通して、国際社会が納得がいくような形でイラクを追い詰めていくべきだろう。」(2002.8.15日付『ウオ−ル・ストリ−ト・ジャ−ナル』)- 国際社会への「戦争理由」
それは、イラクの大量破壊兵器保有疑惑であり、国連の査察活動に対する非協力姿勢である。
まずはこの問題を国連に訴え、イラクの違反行為を国際社会に周知徹底させた上で、武力行使に踏み切る、という手順を踏むことをアメリカは選んだ。3)国連の舞台
イ)2002年9月12日(同時多発テロから1年))国連総会において米国は、イラクの「国連決議違反」を厳しく糾弾する演説を行った。フセイン政権が危険な存在であると断定し、フセインに大量破壊兵器廃棄という国連決議を遵守させるためには強硬手段も辞さず、と強調。
ロ)アメリカが本気で動いていることはおそらくサダム・フセインその人 が一番よく認識していたであろう。
- 8月2日には、イラク政府はブリックスUNMOVIC委員長をイラクに招待したばかりか、同5日にはイラク国内で査察活動に参加できるよう米議会派遣団を招待する、と発表した。
⇒こうした施策は、結局「ただの策略にすぎない」としてアメリカにも国連にも一蹴された。
しかし何とかしてアメリカの攻撃を回避しようとするフセインの真剣さだけははっきりしていた。
- フセインは9月17日、これまで4年間拒否し続けてきた査察団の入国を、一転受け入れると表明した。
ハ)逆に焦り慌てるアメリカ
- 「これまでの査察条件のまま受け入れられても十分な調査ができない」として、新たにより厳しい条件での査察体制を定めたた安保理決議を採択することが必要だ、との方針に固執した。
- 新たな国連決議案としてアメリカが提案した草案には、イラクが決議に違反すればすぐにでも戦争に突入できるように、武力行使を示唆した「あらゆる手段をつかう」という表現が盛り込まれていた。
ニ)フランスとロシアの「二段階論」
- アメリカの急ぎがちで強引な国連の動かし方に疑義を呈し始めたのが、フランスとロシアである。
- アメリカ提案に対して両国は、「イラクに査察の受け入れを求める決議と、それに違反した場合の制裁を規定した決議は分けられるべきだ」と主張。
- 一回の安保理決議で戦争にお墨付きが出たとおもってもらっては困る、問題が発生したら実際にそれが武力行使に値するかどうか、もう一度国連に諮れと言うことである。
(*フランスとロシアにとって最も大きな懸念材料は、フセイン政権に対する債権の問題があった。しかし本稿では省略。)
4)国連決議1441号(11月8日)
それまでのイラク政府の対応を見る限りは、到底受け入れられるようなものではなかった。
イ)「決議採択から一週間以内に査察を受け入れ、30日以内にすべての大量破壊兵器に関する情報を開示し、提出すべき」
⇒日程自体が、どだい無理な要求。
ロ)査察団が「イラクの陸空の交通を自由に封鎖できる」「無人偵察機を自由にとばせる」「自由に口頭・文書での情報にアクセスでき、これらの情報を自由に差し押さえできる」
⇒力ずくでも彼らが自由に国内を動き回れることになっている。
そもそもイラク政府が「スパイ」と断ずる査察官が勝手にイラク国内の要所を家捜ししてまわること自体、これまでイラク政府が「主権の侵害」と非難してやまないことだった。
ハ)主権侵害の顕著なものとして、「イラク人科学者など、捜査に協力してインタビュ−に応じた者に対しては、希望があれば家族ともども亡命できるよう保障する」とした。
⇒さすがのブリックスUNMOVIC委員長も、「我々は亡命エ−ジェントではない」として、実行したくないとの意志を露にして、抵抗を示した。
☆これらの内容が意図することは一つであった。イラク政府に対する挑発である。
これだけ査察条件のハ−ドルを高くしておけば、これまでのフセインの態度から見て、どこかで躓くようにできている。あくまでも国連決議は、フセインを躓かせて「決議違反」の口実を得るためのものでし かなかった、と見てよかろう。まずフセインが決議受け入れを拒否すれば、それが武力行使への最短距離となる。(『イラク戦争と占領』酒井啓子著 岩波新書 74p)
ニ)しかし、フセインは決議を受け入れた。
国連での決議採択が明らかになると、当然イラク国内では各メディアを通じて囂々たる非難の嵐が吹き荒れ、国会では11月11日フセインの判断を待たずに「国連決議を拒否する」との決議がなされた。に もかかわらず、同月13日にフセインは「ひどい内容ではあるが」と断った上で、国連決議の受諾を「不承不承」表明した。
- 「国連決議受諾」という第一関門を通過したイラクは、11月末、過去4年間で初めて、国連査察団の国内立ち入りを受け入れた。
- まずブリックス委員長とエル・バラダイIAEA(国際原子力機関)事務局長が先遣隊としてイラク入りし、25日から本格的に査察団が入国、27日から査察を開始した。
当初は少人数で始められた査察だが、査察団は45ヶ国の出身者から構成され、12月中には85〜100人規模に拡大された。
緊張のなかで始まった査察は、特にイラク政府との間に衝突もなく、「査察団はスパイだ」と主張するイラク政府に対して、ブリックスが「査察団にスパイがいたら追い出す」と配慮を示す場面もあった。- 予定されている査察対象施設は1000以上にのぼり、結果報告を2003年1月27日までに提出しなければならない、と定めた決議上の日程に従えば、到底この人数では綿密な調査が行えるわけがない。
具体例⇒「国連決議から30日以内に提出」と義務づけられた、「すべての大量破壊兵器に関する報告」についての報告書は、12月7日、イラク政府は大量破壊兵器開発に関する申告書を提出したが、その分量はなんと13,000ペ−ジにものぼり、トラックに満載して運び込まなければならなかった。
加えて、この報告書の検討を国連と同時にアメリカ政府も行うと主張したため、コピ−を作成するだけでも大いに手間と時間を浪費するものであった。- パウエル国務長官は、即座にこれをイラク側の「時間稼ぎ」だと批判した。
そしてその二週間後には、それが内容的に十分ではないこと、特に生物兵器や一説には6000発あるとも伝えられる化学兵器が申告されていないとして、それが「国連決議に記された重大な違反≠ノあたる」とイラク政府の非協力的姿勢を糾弾した。
ブリックス委員長も翌日、「申告書には新しい情報が記載されていない」と批判的な発言を行ったものの、それが国連決議の言う「深刻な事態」(武力行使を指す)をもたらすほどの「重大な違反」である、との認識は行わなかった。- イラク政府がなかなか尻尾を出さないのに対して年末になるとアメリカは徐々に追及の手を強めていく。
ブリックス委員長は、イラク人科学者に対する「亡命」をほのめかした事情聴取は行いたくない、と否定的な態度をとっていたが、アメリカの執拗な要求に答えて査察団は、12月27日にはイラク人科学者へのインタビュ−を開始した。
翌日にはイラク政府から500人以上の大量破壊兵器の科学・技術者リストが提出されている。5)査察団による中間報告発表
ブリックス委員長はイラクが提出した申告書の内容が「不満」である、としながらも、それまでの査察活動では特にイラクが大量破壊兵器を保有しているという確証は得られなかった、とするUNMOVIC中間報告書を安保理に提出した。(2003年1月9日)
イ)「成果」のあがらない査察にアメリカが業を煮やすなか、同月15日にはカラの化学兵器弾頭11基が発見された。
その4日後にはさらに4基が追加発見され、イラク側が「古く期限切れのものであり、すでに申告済みである」と重要性を否定したものの、始めての「現物」の発見にアメリカは色めきたった。
さらに18日には、調査したイラク人科学者の自宅で核開発関連書類が押収された。
ロ)このように、中間報告でのほぼ「シロ」に近い報告内容を「挽回」するかのように、少しずつ「クロ」へと導く証拠が見つかり始めていたが、この時期問題になりつつあったのが、査察活動の最終的なスケジュ−ルであった。
6)「国連決議1284号」と「国連決議1441号」
イ)UNMOVIC設置自体を定めた国連決議1284号(1999年)では、UNMVICは120日間(本格的な調査開始から)の査察活動を行うものと規定している。
ロ)国連決議1441号(2002年11月)では、60日後(本格的な調査開始から)すなわち1月17日に最終報告を提出することが定められている。しかしこの最終報告と、その後に続く可能性のある「深刻な事態」との関連は明確にされていない。
ハ)つまり両方の決議に準拠するとなれば、UNMOVICは1月末に決議1441号に基づいて調査活動の最終報告を提出するものの、1284号に基づいての査察活動自体は3月末まで続けて良いことになる。
ニ)ブリックス委員長は、早い時期からこの両論併記のスケジュ−ルを年頭に置いていた。
ホ)アメリカは、新しい方の決議1441号が優先されるのは当然であるとして、1月末の最終報告で査察活動に決着を着けるべし、と主張した。
軍事攻撃を行うとすれば、気温が上がらず、かつ砂嵐などで視界が悪くなる春前に着手しなければ米軍は苦しいという「技術上」の時期的制約がそこに横たわっていたことは、誰にも暗黙のうちに認識していたことである。
7)査察日程短縮への抵抗
イ)米国の思惑に予想外の抵抗を示したのは、ブリックス委員長ではなく、フランスとロシア、そしてドイツであった。
ロ)中間報告が提出された頃からフランスは、査察が順調に進んでいることに対して「もっと査察をやらせればいいじゃないか」という姿勢を強めていた。
アメリカが戦後のイラクに描いている青写真のいい加減さが、中東諸国の内情を熟知しているフランスに危機意識を抱かせたものと思われる。
ハ)イラクから油田契約を破棄されたロシアもまた、年末の国連決議でアメリカと不協和音を生じていた。
- 12月30日に、イラクに対する輸出禁止物資リストの更新を行う国連決議1454号が採択されている。
- ここでは、従来の軍事転用物資の禁止に加えて、神経ガス対策用のアトロピンや電波妨害用物資など、来るべき戦争に備えてイラク政府が輸入しそうな物資が新たに禁止されたが、アトロピンの主要供給元はフランスとロシアであった。
- そのことに反発したのか、この決議にはロシアとシリアが棄権した。
- 対イラク国際協調を派手に謳った決議1441号の陰で、すでに年末には「全会一致」のム−ドは綻びつつあった。
8)国連査察団の「最終報告書」安保理に提出(1月17日)
イ)「シロ」っぽさの強かった中間報告に比較して、最終報告はかなり「クロ」さを強くだしたものになってはいたものの、相変わらず決定的な「証拠」を欠いたものであった。
ロ)それを補うかのように、翌28日、ブッシュ大統領は2003年の一般教書演説で、改めてフセイン政権の非人道性、脅威を強調する演説を行う。
「大量破壊兵器の開発」という点で確証を得られなかった分、フセイン政権下で行われている反政府勢力に対する拷問や弾圧の残虐さを、演説の場には不似合いなほどに生々しく表現してみたり、改めてビン・ラ−ディンとフセイン政権の関係を示唆してみたりして「攻撃事由」の複線化を図った。
さらに2月5日には「証拠」不在の弱みを補うためにパウエル国務長官が、国連の席上で盗聴記録などを公開して、イラク政府が大量破壊兵器を隠匿していたとの主張を繰り返した。
ハ)だが、それに反比例するかのように、フランスとドイツはアメリカの武力行使に拒絶反応を強めていく。
ニ)当初半々程度と思われていた安保理内の査察継続派≠ニ打ち切り派≠フ比率は、パウエル国務長官の必死の外交工作にもかかわらず、最後に大きく継続派に傾いた。
米英とスペイン以外の国がすべて、「査察活動に時間を与えよ」との姿勢をしめしたのである。
4.イラク国民の意識の一端 大量破壊兵器の発見と撤去は、開戦の大義の最大理由の一つに挙げられていた。しかし、当事者であるイラク人自身は米英による開戦の根拠は 何処にあると思っているのであろうか。
- 「石油利権の確保のため」→47%
「イスラエルの安全保障のため」 →41%
「大量破壊兵器を破棄するため」 → 6%上記のデ−タ−は、英国の『スペクテイタ−』誌の世論調査として、 『イラク戦争と占領』酒井啓子著に引用されている数字である。簡略で あり、国民意識の一端ではあるが、国民感情を知り、「戦闘地域の特定 と定義」「治安悪化の要因」等々を考える上で非常に重要な意味を持 つと思われるので提示しておく。
次回の、イラク占領の実態の準備書面で詳しく主張する。
(3)主張
1.「羊頭狗肉」
「イラクの大量破壊兵器の捜査を続けていた米政府調査団--は米上院軍事委員会の公聴会に出席して証言し、開戦時にイラク国内に大量破壊兵器は存在せず、具体的な開発計画も確認できなかったとする最終報告書を公表した。」「報告書は、イラク元大統領のサダム・フセインには国連制裁が解除されれば開発を再開する意図はあったとの重要な指摘もしているものの、ブッシュ米政権がイラク戦争で掲げていた大義名分の柱を否定する形になったことは否めない。」(アンダ-ライン原告)
上記に引用したのは、『読売新聞』10月15日朝刊掲載の藤本一美、専修大学教授の記事の一部分である。(末尾に本文コピ−添付)
引用記事を基底にして概略二点について主張したい。
第一点
「大義名分の柱を否定する形と」は如何なる形なのだろうか?
「侵略行為・21世紀の恥ずべき蛮行の形」との形容は間違いだろうか。原告は間違いないと確信して主張と立証に努める所存である。
そもそも、最終報告書の結論は、査察段階を客観的に冷静さをもって観察し分析すれば「シロ」は明白な事実として誰の目にも明かであり、世間に公表される時期は遅過ぎたと言わなければならない。
「解放軍」と「侵略軍」との識別方法について「占拠地や占領地域の住民への軍の対応姿勢」で判別せよと教えられたことがある。過去に例を採るならば、抗日戦・国内戦を通しての八路軍(俗称)≠ニ支那派遣軍・関東軍≠フ違いが適例であろうか。我が大日本帝国陸軍(皇軍)が侵略軍であることは論を待つまっでもない。
今回のイラクにあっては、米軍の暴虐行為の数々はアブグレイブ刑務所事件、文化財の略奪等々枚挙に暇がない。(次回準備書面にて主張)
被告は、戦争支持の規準を何に求めて決断したのか。当時の情報源の信憑性、その検討内容を主権者国民に明らかにすべきである。そして判断ミスを謝罪し、同時に自衛隊を即時撤収すべきである。しかるに、被告は、周知の如く「開き直り」に終始している。この無責任と破廉恥な被告の態度には遵法(憲法尊重)精神も民主政治の精神も認められない。
第二点
記事そのものに異議がある訳ではないのだが記事に限らず「大義名分の戦争論」があまりにも安易に論じられ、生活の中で正邪・勧善懲悪の概念として定着していることを憂慮し「異」を唱えたい。
原告も「大義なき戦争への加担は許せない」等と、この言葉を「方便」として便利に使うことはある。しかしそれは、停止条件付きで使っているのである。「正しい戦争はない」「戦争は絶対悪である」ことを大前提として、「それなのに大義さえもない戦争」と言う意味であり、「大義のある戦争は肯定される」とは思っていない。
仮に、大量破壊兵器の保有があり、その排除が大義名分であるとしても、その解決を「戦争」という手段に訴えることは日本国憲法に違反し、世界の趨勢にも背反することなのである。時代は21世紀、有名なクラウゼビッチの「戦争は政治の継続である」(『戦争論』)の時代は終焉したはずである。
今日、戦争は犯罪行為として断罪されているのである。それは、歴史を経ることによって学んだ人間の平和に対する英知であると共に、人類滅亡の兵器を開発してしまった人間の愚行の解消をも包摂しているはずである。
この思想を具現化した結晶として日本国憲法は誕生して、世界的評価を獲ているのである。
にもかかわらず、被告は「イラク開戦」に反対しなかったのである!
いや、開戦を支持したのである!
2003年2月15日、世界の各地で近年にない規模の反戦デモが組織され、フランスでは100万、ドイツではベルリンだけで50万、イタリアでは300万の人々が路上に出て反戦を叫んだ。主戦派の国でも、アメリカではニュ−ヨ−クで50万、オ−ストラリア全土で50万、スペインでは300万人が集まった。(『世界』緊急増刊「No War! 立ちあがった世界市民の記録」より)。ロンドンだけで100万人以上のデモ参加者が出たのは、イギリス史上初めてであるとも報道されている。
再度、発言する。こんな国際情勢の中で日本は開戦を支持したのだ。
国権の発動でないならば、他国の行為であるならば「武力による威嚇又は武力の行使で国際紛争を解決しても良い」のか?。日本国憲法の立憲精神から考えて良いはずはないではないか!。
日本国憲法第九条は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と威厳を持って規定している。
原告は、日本国憲法前文と平和条項は法律であると同時に人間哲学の至高の境地を明文化したものと考えている。
大量破壊兵器の査察過程においても、また、開戦気運昂揚の時期にも、被告は憲法の精神を世界に示すべきであった。出遅れではあっても、今からでも遅くはない、自衛隊は即時撤退させ、「イラク人民によるイラク国の建設を見守る」と宣言すべきである(後に準備書面にて主張)。
崇高な戦争放棄論もさることながら、国連常任理事国の全員が大量破壊兵器の所有国であり、「率先垂範」には無縁であることも忘れてならないこととして指摘しておきたい。
原告は現状において、日本の平和憲法は「羊頭狗肉」と揶揄され指弾されても反論できない。この悔しさと情けなさに、怒り心頭である。
2.無意味な自衛隊派遣。
馬賊、敗残兵匪、大刀会匪、紅槍会匪、共産党会匪、不逞鮮匪、便衣隊、義勇軍。(『満州事変史 第六輯 満州に於ける匪賊討伐戦』参謀本部編) 唐突であるが、上記は、大日本帝国が「傀儡満州国建国」の前後に活動した抗日的(のち反満的)勢力の称呼である。
抗日分子は“匪賊”と呼ばれて討匪、掃匪の対象とされた。現在流で称呼するならば「テロ」と呼ばれるであろう。イラクの現状は1935年代の満州に酷似していると思う。
原告が、詳細に大量破壊兵器査察を検証した一つの目的は、日常生活の不合理が国民感情として、対英米、強いては国連不信に繋がり過激行動に追い込んだであろう、その経緯を辿りたいと思ったからでもある。
はたせるかな、治安の悪化は鎮静の兆しを見せない。イラク戦争当時、エジプトのムバ−ラク大統領は図らずも「この戦争によって100人のビン・ラ−ディンが出現する」と「予言」したが、まさに「テロへの戦い」はテロの増幅を呼ぶばかりである。
大量破壊兵器査察に見たように、露骨な主権侵害を犯して、顰蹙の的となった米国は、占領政策においても失敗をする。
詳述は次回として一例だけを挙げると、6月18日に旧軍人が軍の解体反対と未払いの給与の支払いを求めてバグダッドでデモ行進を行ったのだが、銃を保持していたとみられるデモ参加者に米軍が発砲し、デモ隊に初めての死者を出す結果となった。
旧軍人の不満が新たな対米衝突への転換となり、一挙に反米感情に火がついた。CPA(連合国暫定当局)の文民行政官プレマ−は、この発砲事件を深刻視して国軍解体の方針を急遽一転させる。6月23日には旧軍人20万から25万人に対して恩給を支払うことを発表し、また小規模ながら新たにイラク軍を形成する予定だとのべて、軍人層に対する懐柔に着手した。
イラク国民は国土を蹂躙した占領軍への反発は当然として、主権が移譲された暫定政府の傀儡的権力(亡命イラク人の大量登用)の圧力を忌まわしいものと受け取っている。失業問題や破壊された生活環境、そして治安の悪化、どれもこれも解決されない現状に追い打ちをかけて、身内に抗争の犠牲者が続出する。因みに今月20日の朝日新聞の夕刊は、イラク民間人の犠牲者数を15,357人と報道している(米軍死者1,102人)。
彼らは、民族の誇りと信仰への帰依、そして何より生活防衛のために命を懸けて抵抗勢力に参加すると思われる。
「イラク特措法」の第二条2項・3項に違反しない行動と地域がイラクに存在するこは皆無に等しい。人質事件が象徴するように、イラク全土が戦場であり、占領地維持の支援に自衛隊が派遣されたと理解するイラク人を非難することは出来ない。
決して暴力を肯定するものではないが、嘗て、中国において愛国、独立の闘士を賊≠ニ蔑称したごとく、現在イラクの抵抗勢力を無差別に悪の代名詞「テロ」呼ぶことは問題である。暴力的抵抗を誘発する原因を究明し、その原因の除去に努めるのが第三者(日本を含む諸外国)としての役割ではないだろうか。
このイラクの状勢下で、自衛隊の「人道復興支援活動」とはなにか?「実効のない無意味な違憲の派遣」以外の何物でもないと思うが、これも次回に詳述することとして、今回はカンボジア現地で活動したNGO(非政府機関)の日本国際ボランティアセンタ−(JVC)の方から学んだことを、主張に替えてこの書面を終わることにする。
「緊急支援」と「復興支援」とは峻別すべきであると教えられた。
緊急支援の場合は理屈抜きで、体力勝負、速度の勝負である。至急に必要とされているものを与える労働力であり、受け取る側は貰うだけの一方的受け身である。そこに、与える側の優越と受け取る側の甘え、怠惰が生まれて、人間本来でない関係、歪んだ癒着に陥りがちである。
であるから、同一地域で「緊急支援」の時期が経過し「復興支援」の時期を迎えた場合は、双方の実務担当者を共に交替させ一新させるべきである。復興支援とは当事者が独立独歩できるように援助することである。長い時間と人間的理念が要求される。
以上は、「カンボジアPKO違憲訴訟」の現地調査(1996年)で現地を訪れた際に、カンボジア自動車(修理)学校校長馬さん(日本人)から聞いた談話である。尚、馬さんは学科に「カンボジア憲法」の時間を設けて自らが講師をなさっていた。この教育姿勢にも大変に感動したことを思い起こす。
(4).今後の主張計画
原告は、今後以下のように準備書面で主張を展開する予定です。
1)第3準備書面 イラク戦争の実態
2)第4準備書面 原告の被害法益(1)
平和的生存権
3)第5準備書面 原告の被害法益(2)
納税者基本権、他
4)第6準備書面 法の支配の回復と裁判所の責務
以 上