【氈z序論二題

1.「理念のない制約」と「制約のない理念」
《憲法の平和主義は、あたかも「理念のない制約」か「制約のない理念」として扱われる傾向がある。》とは、一橋大学法学部の浦田一郎教授の言葉である。

1)「理念のない制約」
今回の「イラク特措法」は、非戦闘地域への派遣を建前としている。ここでは憲法は単なる制約として捉えられ、なぜ憲法が戦闘地域での活動を禁止しているのか、その理念は問題にされていない。イラクへの自衛隊という軍隊派遣が本当に望ましいことなら、憲法は「理念のない制約」を課していることになり、邪魔者扱いされることになる。

2)「制約のない理念」
平和主義は究極の理念的目標に棚上げされ、政策に対する現実的制約が突破されようとしている。究極の理念的目標としての平和に反対する人は、何処にもいない。誰も反対するはずがない議論は、何も言っていないのと同じである。しかし、憲法の平和主義は、非武装平和主義の理念を掲げつつ、現実の政治に対して直ちに戦争を放棄することを命じているはずである。

3)日本国憲法の立憲主義
普通の国の立憲主義は【人権+国民主権+軍事力の統制】からなる。これは普通の民主主義国家の立憲主義だが、現実にその国家が他国民の人権や主権を侵害する軍事大国になることに障害になってこなかった。
アメリカはアメリカ憲法のもとで、民主主義のためのさまざまな努力をしている一つのモデルになる国であるが、同時に、共産主義の脅威からの解放と称して、民族皆殺しのベトナム戦争を行ってきた国であり、イラク国民を独裁者から解放する戦争の実態も偽りであり、現実の通りである。
日本国憲法の立憲主義は、【人権+国民主権+軍事力の放棄】を要求している。この立憲主義は、海外における自前の軍事力行使の自由にとって歯止めとなっており、日本が政治・軍事大国になることを阻止している。今、日本が改憲論という形でぶつかっている問題はこれである。

4)日本国憲法の立憲主義は確かに特殊だが、反帝国主義的立憲主義として、世界の民衆にとって普遍的な意味をもちうるものだ。(但し、象徴天皇制の問題は留意する必要がある)

5)憲法の平和主義は、平和主義の問題だけではなく、他の多くの憲法問題とかかわっている。
 ア)外国人や女性の人権が従来認められにくかった一つの理由は、
  これらの人たちが兵士にならなかったことであろう。
  このような論理の可能性を封じている日本国憲法は、
  国際水準以上にこれらの人権を保障する可能性を
  持っているはずである。
 イ)軍隊を否定するほど国家権力に対して抑制的な
  日本国憲法は、警察に対しても通常の国家以上の制約を
  課しているのではないか。
 ウ)統一的軍事力の掌握という問題を取り去った日本国憲法は、
  新しい地方自治の可能性を開いているかもしれない。

上記は、一橋大学法学部、浦田一郎教授の『現代の平和主義と立憲主義』日本評論社から適宜抜粋し、現在の政治情勢へ原告が敷衍した。

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反論
この文脈から被告への反論を述べる。

  1. 自衛隊そのものが違憲の存在だが、その軍隊を「イラクの非戦闘地域=安全地帯?」に派遣した。
    これは、まさに「理念なき統制」として日本の平和主義を悪用した典型である。詭弁も程々にして欲しい。
    原告は主張する、正義の理念の実行に安全基準は馴染まない。
    故宇都宮篤馬氏は『軍縮問題資料』の巻頭の言で「核兵器に殺されるよりも、核兵器に反対して殺されるほうを選ぶ。」“死に方危険への対応”を記しておられる。これに類する同義語の警句は他のも数多くある。
    正義を行うときは断固実践である。本件の派遣は百の違憲行為はあっても一分の正義も存在しない。傍論であるが、自衛隊のPKO派遣の際も、「大義と安全」は建前安全論一辺倒に終始した。今回も同じ思考回路からの進歩はない。国際問題解決に軍隊は不必要であり、軍備をもってしてはならない。

  2. 被告の「準備書面(1)」の6頁で主張する判決文は、「統制なき理念」として、平和を実行しようとの姿勢が皆無である。曰く「前文は、憲法の建前や理念を荘重に表明したものであって、そこに表明された基本的理念は、憲法の条規を解釈する場合の指針となり、また、その解釈を通じて本文各条項の具体的な権利の内容となり得ることがあるとしても、それ自体、裁判規範として、国政を拘束したり、国民がそれに基づき国に対して一定の裁判上の請求をなし得るものではない。----」

    ア)例示判決は「百里基地事件控訴審判決」で、昭和56年7月7日の判決文である。本件訴訟とは内容と時代が全く違い、被告の理性を疑う。
     
    イ)この事件の事実関係は複雑であるが、要点は、国が自衛隊基地の用地を取得する目的で私人と締結した土地の売買契約は憲法9条に違反するものであって無効である、として争われた事件であり、事件そのものは、土地の所有権をめぐる民事訴訟である。
    要するに、違憲審査の対象になるのは、不作為を含めたあらゆる国家行為であるといえるが、国の私法上の行為はどうなのか、ということである。

    ウ)被告は具体的権利侵害について答弁・反論すべきで、過去の判例を羅列しても、無意味である。前回「部分的反論」でも触れたが、判決も時代的制約を受けての存在である。極論すれば、治安維持法を適用した判決を、現代は誰も支持しないのは当然であるが、当時は、司法の正義であったのだ。尚、判例一般については「準備書面(6)」にて、「憲法判例の変更」について述べる予定である。

    エ)例示判決文は、平和主義を理念的目標に棚上げした見本のようなものである。日本国憲法の精神で政治が行われていれば、日本人の5名は殺されずすんだはずである。また、報復対象国の国民として恐怖と、不安な毎日を過ごすこともなかった。これだけ具体的な事実があっても、被告は「国政を拘束したり、国民がそれに基づき国に対して一定の裁判上の請求をなし得るものではない」と、なお断言し続けるつもりか。

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2 憲法前文の裁判規範性については後に再度詳述するが、被告が例示した判決文の「平和的生存権」の判示について述べる。

ア)「それを(平和的生存権)独立の権利と呼ぶかどうかは別としても、あらゆる基本的人権の根底に存在する最も基本的な条件であって、憲法の基本原理である基本的人権尊重主義の徹底化を期するためには『平和的生存権』が現実の社会生活のうえに実現されなければならないことは明かである。
しかし、『平和的生存権』をもって個々の国民が国に対して戦争や戦争準備行為の中止等の具体的措置を請求し得るそれ自体独立の権利であるとか、具体的訴訟における違憲性の判断基準になり得るものと解することは許されず、それは、ただ、政治の面において平和理念の尊重が要請されることを意味することにとどまるものであり、『本件土地取得行為』の平和主義ないし『平和的生存権』違反をいう控訴人らの主張は、その理由がない。」


イ)「しかし」の前後の思考的断層は何なのだろう?本音を述べた後で急遽、保身の政治的配慮をしたとは考えたくないのだが。昭和56年から、すでに24年の歳月が経過している。被告は「『平和的生存権』が現実の社会生活のうえに実現されなければならないことは明かである。」と言う。ならば、24年間の期間に明らかになったであろうか。答えは否である。今、この政治状況下でこそ、独立した権利として現実の社会に認知されるべきである。
以降、逐次、他の権利によって薄められることのない、平和的生存権の独自の権利性を主張する。

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2.「主観訴訟」と「立法事実論」

「戦争が一度起こると予想もできない方向へ展開することも多く、もはや民主的な統制は期待できない。政治的な判断や感情のみが、その場を動かすことになる。戦争に正しい戦争はありえず、すべて政治力と戦略の結合によるものである。」
「戦争は何を原因とするものであれ、何を目的とするものであれ、その結末が悲惨で人間尊重とは対極に位置するものであるからこそ、戦争自体が不正なのである。戦争を安易に引き起こさないようにすることは、人間の英知なのである。」(『論争憲法学』杉原泰雄・樋口陽一編「国際政治と憲法の平和主義」中央大学教授植野妙実子著日本評論社)

不幸にしてイラクへ侵略戦争は開始され、現在に至るも内戦状態的様相をも含んで占領軍との戦闘が続いている。原告は、これまでに「民主的統制」でなく「人間尊重とは対極」(人間疎外)の状況の中での暫定政府成立までを執拗に検証し主張してきた。その執拗性の、第一目的は、本件訴訟が、民衆訴訟にあらずして、主観訴訟であることを主張するためであった。第二目的は、「立法事実論」を述べる準備、伏線であるが、これは後日「第6準備書面」で述べる。

1)原告の主張する平和的生存権は、日本の国民ないしはすべての個人に認められている権利であるが、被告の本件行為によって具体的被害を蒙ったのは原告であり、具体的平和的生存権である。原告は本件国家行為を争う特殊の利害関係を有するのであり、本件侵害は具体的権利に対する具体的侵害である。
 
2)憲法9条関連の平和訴訟は、本来は総理大臣の政治責任を国会の場で追及すると云う民主主義のプロセスに委ねられるべき問題であり「裁判には馴染まない」とは、これまでの判例その他で、承知するところである。「しかしながら、このような一般論が成り立ちうるのは、民主主義的な解決が可能である場合に限られるのである。民主主義的な解決は、少数派と多数派とが対等の討論の場を持ち、今日の少数派も自由な討論によって明日は多数派になりうる、というプロセスが正常に循環している状態を前提とする。----民主主義の循環ポンプがそもそも作動しえない場合には、少数派が当該人権の救済を求め、裁判所がそれを保護することは、主観訴訟であって民衆訴訟ではない。」(『人権論の新構成』棟居快行(*)著信山社336pヨリ)
 
3)現在の日本の政治状況は、民主主義の循環ポンプが正常稼働しているとは思えない。端的な例は、国会の審議なしで、多国籍軍参加を、そして、イラク自衛隊派兵期間延長をも決定したことである。
何より強く主張したいことは「アメリカの侵略戦争」への追従によって循環プンプは機能停止になり、日本の立憲主義(【人権+国民主権+軍事力の放棄】)が破壊されたことである。
この現象は「アメリカの政治力と戦略の結合」が日本を蹂躙していることの証であり、「報復攻撃宣言」の対象国となってしまった。スペインの列車転覆事件を想起するまでもなく、日常生活は不安と恐怖で身の置き所がない。巷間に「可愛さあまって憎さ百倍」という言葉があるが、日本を思えば思うほど本件の被告の行為は許し難く憤怒にたえない。
(*)=棟居快行(ムネスエ・トシユキ)⇒神戸大学法学部教授

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