【】平和的生存権

1.本件訴訟に如何なる学説を適応すべきか
被告は、「準備書面(1)」5頁において「平和的生存権が具体的権利でないことは、学説の通説的見解である。」として「平和的生存権に具体的権利性を認めることはできない。」と結論している。なるほど、事件を解決するにあたって、学説が果たす役割は理解できるが、被告は二つの誤りを犯している。
第一点は、被告の望む「通説的見解」が、学説の全てではなく、被告の例示した論文が絶対無二の正論ではない。学説の論争は現在も進行中であり、特に違憲審査制の研究は現実の政治と直結していると言い得る。第二点は、裁判である以上、実態審理なしの「予断と偏見」は排除すべきで、如何なる政治実態に、如何なる学説が最適であるかが人間対象の法論の筋道である。

2.平和的生存権の憲法上の根拠の諸説

原告は、平和的生存権が具体的権利性を有し、この権利侵害を訴えることによって、原告適格の条件をも充たすものと主張する。
法律の素人である原告が、たまたま気に入った学説を一途に思い込んだ矮小狭隘な主張との批判を避けるために、裁判所に対して「釈迦に説教」ではあるが、平和的生存権の憲法上の根拠をめぐる諸学説を述べる。

  1. 憲法前文、第9条、そして第3章の人権規定が複合して平和的生存権の憲法上の根拠をなすとする見解。
    [深瀬忠一]⇒「(平和的生存権)は、憲法前文、とくに第9条および第13条、また第3章諸条項が複合して保障している憲法上の基本的人権の総体である。」
    「『平和的生存権』の日本国民に対する実定法的保障という観点からは、第13条が中心的・総則的人権保障条項であるが、それは第9条の制度的裏づけなくして固有の法的保障は成り立ち難いものであり、前文の明示的確認による人類的展望と要請を受け、第3章の平和に徹した人権保障諸条項や他章の平和的統治機構の規定との主体的把握によって、はじめて全体系を十分理解できる。」

  2. 憲法前文に平和的生存権の直接的な根拠を求める見解。
    [浦田賢治]⇒「平和的生存権の憲法上の根拠は、直接的には、前文第二段(「平和のうちに生存する権利」)であると解する。しかし、このことは、平和的生存権が9条により客観的法秩序の形態をとって現実的保障を受け、また第3章の人権諸条項により個別的権利として具体化されていることを決して否定するものではない。平和的生存権の先駆的主唱者たちは、その憲法上の根拠を直接に9条に求める傾向が強かった。しかしこのように解することには、問題があるようである。」

  3. 憲法前文に表現される平和的生存権が具体的には9条によって保障され、根拠づけられるとする見解。
    [星野安三郎]
    ⇒「日本国憲法は、----平和的生存権を軸にして存在するものである。憲法典に即していえば、前文二段に表現される『恐怖と欠乏から免れて平和のうちに生存する権利』である。そしてこの平和に生きる権利は、具体的には、第2章第9条の戦争放棄・軍備禁止によって保障されるというべきである。」
    [杉原泰雄]⇒「日本国憲法は、9条のもとで生存することを、たんに客観的な制度の問題としてだけでなく、主観的な権利としても保障しているのである。したがって、9条に反する国家行為については、他の人権規定を媒介とすることなく、つまり他の人権侵害を要件とすることなく、この権利自体をもって争うことになる。」
    [浦部法穂]⇒「憲法前文で確認された『平和的生存権』は、9条によって具体化されているのであり、9条が『平和的生存権』の具体的内容を示している」「ひとことで言えば、私の考えは、9条=『平和的生存権』の保障規定、ということになる。」

  4. 憲法13条に平和的生存権を読みとろうとする見解。
    [久田栄正]
    ⇒「憲法13条は、----憲法前文に述べている憲法の三大基本原理の結節点である『平和のうちに生存する権利』の具体化である。」「現行憲法は、『政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し』てこの憲法を制定したのであって、憲法13条によって『戦争の惨禍』によって一人の犠牲者も出してはならぬことが要求されており、そのために国家は、万全の措置を講ずる責務があり、あくまで、国民の平和的生存権を守ることが国家目的の最優先目標でなければならぬことを要求している。」
    以上『平和憲法の理論』山内敏弘著日本評論社268-70pを参照。

3.平和的生存権の「独自性・特殊性」その1

1)「政策としての平和」でなく「人権としての平和」
日本憲法の平和主義の重要な意義は、全世界の国民が「平和のうちに生存する権利(平和的生存権)を有する」ことを確認した点に見出すことができる。
日本国憲法は、平和主義の基底に「平和的生存権」を置き、平和を人権の問題として位置づけているのである。戦争は、自由・人権のみならず人間の生存をも否定する。人の自由・生存は、「平和」であってはじめて確保されうるものである。その意味で、平和は、あらゆる人権の基礎をなすものである。核兵器のような人類の絶滅をもたらしうる大量殺戮兵器がますますその「性能」を高め蓄積されている今日、人間がみずからの手でみずからを絶滅させるという愚を犯さないために「政策としての平和」ではなく「人権としての平和」を追及していくことは、過去にも増して重要になっている。
「平和のうちに生きる権利」をまさに全世界の人類に共通の、あらゆる人権の基礎にある、より高次の権利として位置づけ、その実現性をはかる必要性は、いっそう高まっている。

2)「人権の中の人権」の消極論
「平和的生存権」は、憲法が明文で確認した権利であるから、間違いなく「権利」であり、しかも、いま述べたような性格からして、「人権の中の人権」といってもよい権利である。
しかし、それでは、この「平和的生存権」が実定的権利であるかどうかはという点については、学説上意見が分かれ、定説はない。[消極論]は、「平和的生存権」といっても、具体的に、誰が誰に対して何を求めることのできる権利なのか、その内容が明確でないとの理由による。したがって、「平和的生存権」は、あらゆる人権の基礎にある理念的権利であって、それ自体を独自の人権としてとらえることはできない、とする。

3)肯定論の限界
上記、2)に対して、「平和的生存権」を独自の人権として位置づけ、その具体的内容を提示している学説も種々である。
しかし、原告は不遜ではあるが、これまでの学説に限界を感じ、満足していない。自説を述べる前に、これらについて検討を加え自己主張に移りたい。

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  1. 「平和的生存権」の主観的権利としての諸様態は、憲法第3章の諸条項において保障されている、とする説。
    ⇒憲法13条・18条から徴兵制は禁止され、21条の保障は軍事目的からの表現の自由の制限を許さず、また軍事目的のための財産に収容は29条によって許されない、などの結論を導く。(深瀬忠一・星野安三郎)

    検討
    ア)この説は「平和的生存権」の独自の存在意義を唱えるものとしては、いささか弱い。
     
    イ)ここでいわれている具体的な結論は、わざわざ「平和的生存権」という概念を持ち出さなくても、日本国憲法の人権条項の解釈として、当然に導きうるものである。
     
    ウ)軍事目的による表現の自由の制限が許されないことは、表現の自由の保障の当然の帰結であるし、軍事目的のための財産の収容が許されないことも、憲法9条がある以上、29条3項にいう「公共のため」にあらず、当然である。だから、これをあえて「平和的生存権」の内容として構成しなければならない必然性はない。

    エ)日本国憲法は、戦争および戦力の保持を禁じているのであるから、軍事目的による人権制限は、どの人権に関してもいっさい認められない。したがって、憲法第3章の保障する個別の人権が軍事的な観点から侵害され、もしくわ侵害されようとしている場合には、そのような侵害は、なんら正当な理由のない人権制限として、端的に当該人権条項違反とすべきものである。

    オ)これらすべてを「平和的生存権」の侵害として説明することは、せっかくの「平和的生存権」が、あまりにも包括的な内容のものとなり、逆に、その独自性を希薄化する結果になってしまう。
     
  2. 「平和的生存権」を「戦争や軍隊が一切ない、あるいはそれらによる拘束や強制が一切ない状態で平和に存在し、生活しうる権利」と定義づける説。
    ⇒これは、狭義には平和のうちに文字どおり生存する権利それじたいを意味し、広義には戦争や軍隊あるいは総じて軍事目的のために個人の自由や財産などを剥奪・制限されない権利を意味する、とする。
    そして、狭義の「平和的生存権」には、とりわけ徴兵拒否権が含まれ、広義のそれとしては、具体的には、軍事目的のために財産を強制的に収容されない権利や軍事目的のために表現の自由を侵害されない権利などがあげられる。(山内敏弘、古川純)

    検討
    ア)広義の「平和的生存権」とされているものに関しては、さきに、別の説について述べたことが、そのままあてはまる。つまり、軍事目的のために財産権や表現の自由その他の人権が制約されないということは、日本国憲法においては、それぞれの人権の保障の内に当然に含まれているのであって、これを、たとえば財産権や表現の自由の侵害としてではなく、「平和的生存権」の侵害として理論構成しなければならないという必然性はない。そして、このように、「平和的生存権」というものが、結局は財産権や表現の自由など個別の人権の問題に解消されてしまうものであるならば、その独自の存在意義は、なくなってしまう。

    イ)また、狭義の「平和的生存権」に含まれるとされる徴兵拒否権も、国民の兵役義務を導き出す余地のない日本国憲法のもとでは、憲法18条の保障の中に当然に含まれている。
    諸外国では、徴兵制は、「意に反する苦役」からの自由に対する侵害とは考えられていない、などのことがいわれるが、徴兵制が、本人の意に反しても兵役を強制しうる制度である以上、それは本来「意に反する苦役」の強制にあたる。ただ、憲法上国民に兵役義務が課せられている場合には、その例外として徴兵制も認められうる。ということであって、兵役義務のない日本国憲法のもとでは、当然、そのような例外は認められないわけである。とすれば、これも、あえて「平和的生存権」を持ち出さなければ、その違憲性を論拠づけえないというものではない。

  3. 長沼ナイキ基地訴訟に第一審判決
    「平和的生存権」を独自の権利として認め、まさにこの権利に基づいて、保安林指定解除処分の取消しを求める住民の訴えの利益を肯定した点で、きわめて注目される。
    ⇒この判決は、本件保安林指定解除処分はミサイル基地設置のためになされたものであり、このような基地は「一朝有事の際にはまず相手国の攻撃の第一目標になるものと認められる」から、基地周辺住民の「平和的生存権」が侵害される危険がある。として、原告住民の訴えの利益を認めたものであった。
    検討
    ここでは、「一朝有事」の際に攻撃を受ける危険性のあることが、「平和的生存権」の侵害とみなされている。とすると、「平和的生存権」は、まさかのときにどこかから攻撃をうける危険にさらされない権利だということになるが、「一朝有事」に攻撃をうけるのは基地だけとは限らないから、基地の存在によってとくに基地周辺住民の「平和的生存権」が侵害されるということが、はたしていえるのか、という疑問を生じる。
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4.原告の主張
その1浦部法穂説ヨリ


1)「平和的生存権」を独自の憲法上の権利=人権として構成すべきである。
そうすることが、平和を、単に国家の政策としてではなく、人権として位置づけている日本国憲法に適合すると思うからである。

2)これまでに紹介した学説や長沼訴訟一審判決のような「平和的生存権」のとらえ方は、この権利をあまりにも個別的な現実的利益のレベルに矮小化してしまっている

3)[兵隊にとられる]、[軍事目的で財産を収容]、[まさかのときの攻撃]とかの不利益は、たしかに、日本国憲法のもとで、国民に強要することの許されないものである。
しかし、日本国憲法の「平和的生存権」は、こういった目に見える具体的な不利益を排除するだけの権利ではない。そういう現実的・具体的な形の不利益が国民に及ぶか否かにかかわらず、むしろ、それ以前の問題として「平和」の阻害それじたいを権利(人権)侵害と位置づけることによって、国による「平和」阻害行為を排除しようとするのが、日本国憲法における「平和的生存権」の考え方であると思う

4)日本国憲法は、たんに戦争や武力衝突がなければ「平和」だとするのでなく、軍備を持つことじたい、すでに平和を阻害するものだという立場に立っている。このことは、憲法9条の規定によって明かでる。

5)したがって、国が戦争や武力行使を行うことはもちろん、軍備を保有することも「平和的生存権」の侵害となるのである。

6)憲法前文で確認された「平和的生存権」は、9条によって具体化されているのであり、9条が「平和的生存権」の具体的内容を示している。

7)被告はこれまで、しばしば「平和的生存権」の内容が明確でないと主張するが、9条の規定は、他の憲法条項よりはるかに明確であるから、「平和的生存権」は他の人権よりもはるかに明確な内容をもっている。

8)9条を人権規定とすることの疑問に対して。
日本国憲法が、「平和」を人権の問題として位置づけていることを看過するものであって、疑問視するほうこそがおかしい。
平和保障は人権保障なのであり、具体的に平和を保障する9条を人権保障条項とみることは、決しておかしくない。

9)憲法9条の実益(例示2題)
例示その1

ア)軍備の保有がそれじたい人権侵害である以上、国民は当然その救済を裁判手続きによって求めることができるのであり、もしこれが9条違反ではあるが人権侵害でないということになれば、それによって別の法律上の利益が侵害されたということを主張しない限り戦力保持の違憲性を裁判上争うことができないことになるから、大いに実益はある。
 
イ)但し、この場合「平和的生存権」を侵害されているのは全国民であるから、誰でも裁判所に訴えることができることになる。それはおかしいというのが、おそらく、被告の考え方であろうが、しかし、この場合には権利の性格がそういうものなのであるから、「訴えうる者は限定されなければならない」という考え方のほうが、間違いというべきである
例示その2
軍備の保有が人権侵害であるということになれば、軍備をもつか、もたないかを安全政策上の裁量判断の問題に帰着せしめるような考え方(統治行為論、等)は、当然否定されることになる。

小括(憲法前文の平和的生存権)

  1. この権利を、たんに日本国民の権利としてではなく、「世界の国民」の権利として確認している。もちろん、日本の憲法が、国境を越えて全世界の国民の権利を保障するなどということは、不可能である。

  2. 日本国憲法が具体的に保障しているのは、日本国民(および日本に在住する外国人)の「平和的生存権」である。しかし、前文における「世界の国民」「平和的生存権」の確認は、少なくとも、日本が全世界の「平和」の実現に向けて全力を尽くすべきことを意味している。

  3. また、そのことによって、日本国民の「平和的生存権」の保障も、完全なものとなりうる。日本だけが戦争や軍隊を否定すればそれで「平和的生存権」の保障は十分であるというものではない。

  4. 全世界の「平和」実現に向けて具体的行動をとることが、日本国民の「平和的生存権」の実現のためにも必要である。そして、それは、日本が「国家の名誉にかけ」てみずから国際社会に負った義務でもある。
    (以上『憲法学教室U』浦部法穂著109〜130p日本評論社を参考に主張した。)
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5.原告の主張その2特殊性と「成熟性」

1)憲法訴訟における「成熟性」の問題

 ア)成熟性とは、訴訟が司法判断に適する程度に至っているか否かを問う概念であり、司法判断適合性の一要素をなし、特に、行政訴訟において問題にされることは、裁判所の承知する事実と思われる。
 
 イ)成熟性の検討事項は、通常の訴え提起の要件では裁判所による憲法判断が得られない訴訟について、特別の要件を構成する基盤とならないかと言うことである。
 
 ウ)原告は、平和的生存権が「通常の訴え提起」でも裁判所による憲法判断が得られなければ、ならないと確信している。しかし、それを補強する論理として、ここに、平和的生存権の「特殊な権利性」「成熟性」を述べたい。
特殊性

「平和的生存権」の特殊な権利性としての類例は、@環境権訴訟のように、環境が破壊されたり、環境の変更が加えられてからでは回復が困難なため救済が得られない場合。A政教分離違反と思われる儀式が終了してからでは、裁判の意義が薄くなる場合等を挙げることができる。この例をみるまでもなく、平和的生存権の権利侵害は「命」の問題を含めて権利侵害の復帰性が困難な権利性を多様に包括するものである。
原告は、これまで頑固一徹な付随的違憲審査制度に基づく判示に対して、「犠牲者を求める裁判、生け贄裁判である」と主張してきた(「準備書面6」にて詳述)。勿論、本日現在もその思いは強まるばかりである。

成熟性

この事に関しては長文は不用である。これまでの詳細な準備書面は、「訴訟が司法判断に適する程度に至っているか否か」の証明をも考慮に入れて論述したつもりである。
エ)原告は、憲法訴訟の目的である憲法価値の具体的実現ないし憲法秩序の形成ということに照らし、成熟性を認めて、裁判所が憲法判断を下す余地を拡げることを切に期待する者である。
原告の願いに対して「現行制度の改革なくして実現は難しいといわざるを得ない」との著述のあることは承知である。しかし、なおかつ、本件訴訟の切迫した政治状況と具体的な平和的生存権の侵害に対して、裁判所は新境地を拓き、司法の法創造機能を発揮する責務があると考える。同時に、国民も裁判所にこれを求めていくことが、護憲義務だと思える。
(法律学大系『憲法訴訟』戸松秀典著有斐閣103〜105pを参照)
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6.原告の主張その3生活と平和的生存権

1)被告は、平和的生存権が如何に抽象的概念であるかを繰り返し、千年一日のごとく主張している。しかし、これは「法論のための法論」であって、「法は、人間の道具」としての法論ではない。
生活者(被支配者)にとって、「平和的生存権」ほど分かりやすい具体的な権利はない。因みに、平地の生活で殊更に意識しない空気も、標高3千〜4千メ−トルの高地での存在感は絶大である。その地では、高山病に備え行動力の低下する肉体を維持することに努めなければ落命する。「平和ボケ」の叫ばれる日本で、「平和的生存権」は、あまりにも粗略に扱われ、支配する側の政策に覆滅されている。

2)如何に「平和的生存権」が具体的であるか、数字は正直である。日本国は1945年8月15日以降、戦死者としては0人である。これは、平和的生存権を根底とする日本の平和主義の輝かしい具体的成果である。戦死者0人を当然のこととして受け流す日本人は、何度でも言うが「平和ボケ」である。

1.隣国の「韓国」の若者は戦死したであろうか?
不幸にして1950年6月25日の「朝鮮戦争」で老若を問わず多くの方々が亡くなられている。日本の植民地解放直後だけに民族の悲劇として、悔やんでも悔やみきれない思いであろう--。
原告は、あの代理戦争の後も、韓国軍は戦死者をだしていることを、憂うるものである。
ベトナム戦争では米軍の要請で大兵力を派遣している。
その兵員数はなんと延べ37万名、最盛期には55万名を数え、戦闘力から言えばMFA(軍事支援軍)軍の中でも突出したものとなった。具体的には、歩兵師団2個師団(猛虎、白馬)海兵旅団1個旅団(青龍)でいずれも韓国軍の最強の部隊である。
また同軍の特徴としては、空軍や機甲部隊に頼らず、歩兵の接近戦を主体に解放戦線軍に戦いを挑んだことである。さらにはアメリカ軍とは違って、あくまでも敵を確認してから反撃するという手堅い戦いぶりであった。これにより韓国軍はNLF(南ベトナム民族解放戦線)にとって最も恐ろしい相手となったのである。
1968年秋からアメリカ陸軍は、少しずつベトナムから撤退しはじめるが、韓国はその後もこの地に残って戦い続けた。このため同軍の戦死者は4,407名(別な資料では5,700名)負傷者は25,000名に達している。この数はアメリカ軍のそれのちょうど10%に当たる。
注)ベトナム戦争、最終的な犠牲者数
南ベトナム軍18万5528名
南民間人41万5000名
北・解放戦線軍92万4000名
北民間人3万3000名
アメリカ軍5万7702名
韓国軍4407名
オ−ストラリア軍475名
タイ軍350名
フィリピン軍27名
ニュ−ジ−ランド軍26名
中華民国派遣団11名
中国人民解放軍1119名
2.世界最強の軍隊を保有する米軍は、第二次世界大戦以後に夥しい戦死者をだしている。主な戦争に於ける戦死者を国防総省の発表で一見すると下記のようである。
朝鮮戦争33,652名10.3%
ベトナム戦争47,367名8.7%
湾岸戦争313名
イラク戦争1,000名を超過、増加中。
注)%は、ピ−ク時兵力で割った死亡率である。
尚、『世界戦略概観』によるとベトナム戦争の戦死者は5万6201名となって、死亡率は10.3%になる。
※これまでに軍事紛争に参加せずに済んだことは、憲法の具現化であり、平和的生存権の存在証明である。法律の条文と条文の間を精査するのも法律家の仕事であろうが、「枝を見て森を見ない」愚は避けて欲しい。平和的生存権とはこんなにも具体的で、当然の権利で貴重なのである。
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