平成16年(ワ)第9114号違憲行為差止等請求事件

陳 述 書

原告 小 林 伸 子

 私は1947年生まれです。幼い頃、おとなの世間話に空襲や配給といった言葉がひんぱんに出てくるのを聞いて育った戦後世代です。
 私の親族には太平洋戦争で戦死した人が1人もいませんし、空襲で家を焼け出されたと言う話も聞きませんでしたから、比較的幸運に戦時を切り抜けてきたと言えます。でもそのような親族の中にもただ一人、あの戦争で運命を狂わせ、癒えぬ傷を引きずったまま老いを迎えた叔母がいます。

 彼女は敗戦の数ヶ月前にお見合いをしました。相手は満州に駐留していた同郷の軍人でした。結婚式を挙げると相手は一足先に帰満し、新居の用意が整うと叔母を呼び寄せる手紙をよこしました。手に入りにくかった船の切符を運良く手に入れ、叔母が単身渡満したのは終戦の数日前だったそうです。ソ連が参戦し、すでに基地を移動してしまった夫にめぐり会う事が出来ず、彼女はたった一人外地で終戦の混乱に巻き込まれたのです。終戦二年目の引き揚げ船でようやく日本にたどり着いたとき、彼女の頭は丸坊主だったそうです。
 めぐり会えなかった結婚相手の元軍人は一足先に引き揚げて、郷里に戻っていましたが、叔母はその男のもとには戻らず、実家の屋敷の奥に引きこもってしまいました。
 人目を避ける生活を続けながら、二度ほど自殺未遂を図っては失敗したそうです。
 満州で何があったのか、頑として叔母は誰にもしゃべらなかったそうです。
 私の父が帰郷した際に叔母のそうした事情を知り、東京なら人の目を気にせずに生きていけるだろうと東京の我が家に叔母を連れて帰りました。
 しかし、一人で生きて行くと言ってじきに我が家からも出て行きました。その後つかんだ消息で、駐留軍のいる街で米兵相手に生きているということがわかりました。
 満州で、心身に一生拭い去ることのできない傷をおそらく受けた、そのときを境に叔母は世間を避け、生きていくために米兵の街のなかへ入っていったのではないかと思います。そんな中でも、彼女は生来の純粋さと潔癖さを極端なほどに持ちつづけ、父が援助を申し出ても受けようとしませんでした。やむなくお金を借りたときは律儀に返しに訪れました。そんなときに私が目にした叔母はいつでも乙女そのままの人でした。
 占領軍が日本から去る時期を前に、叔母はそれまで同棲していた米兵に求婚されたそうです。それを機に叔母は私の父に誰とも結婚するつもりはないからという言葉を残してこの米兵の前から姿を消したそうです。

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 叔母は、また死に場所を探しているところを地方都市の警察に保護されて東京に舞い戻ることになりました。それ以後の叔母は、父の援助も素直に受けてピンチを切り抜けてゆき、なれない地味な仕事にも耐えられるようになる事を目標のように自分に課して、実直に生きていきました。でも人目を避ける暮らし方が変ったことはありません。
 戦後は終わったといわれるようになって人が皆、豊かさに向かう波に乗っていった時代にふとこの叔母のほうに目をやると、不思議となぜかそこだけ時間が止まっているみたいに、「戦後」というものが残っているように感じられてなりませんでした。でも、親族を避け、孤独を好んで生きる叔母のような存在は、姪や甥たちの時代に入るともう不可解な変わり者としか映らないんだろうとおもいます。
 従軍慰安婦の問題が戦後半世紀近くもたってから、広く知られるようになりました。
 解放のときまで生き延びて、運良く故郷に戻った元「慰安婦」がはたして戦後どのような境遇におかれて生きてきたか私は、研究者の聞き書きなどを読んで遅まきながら知りました。日本軍による犠牲者でありながら、性被害を受けたがゆえに、その後の人生でさらに社会的差別と心身のトラウマに苦しみ続け、多くの元「慰安婦」は尊厳を取り戻せないまま亡くなり、あるいは今もひっそりと、理不尽に人生を踏みにじられた無念さを抱えて生きているそうです。
 他にも中国残留孤児、シベリア抑留、強制連行などなど家族が引き裂かれた不幸、人生をつぶされてしまった不幸はそのまま日本の内外の地で、今の今にまでつながっており、この人たちにとって「まだ戦争は終わってない」という現実があります。しかし、私たちは彼らと同時代に生きているというのにその姿がなかなか視界にはいってきません。私たち甥や姪が叔母の心に食い込んだ傷を感じることが出来ないように、私たちのたっている時代が、戦争の痛みを風化させた平和に過ぎないことに気付かされます。しかしこの時代も、実は新たな戦争の前夜に立たされているではないかと恐れています。

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 国際社会には戦争否定の流れを築く努力がある一方で、その隙を縫った兵器のハイテク化によって戦争もいっそうの進化を遂げており、この二つの流れがせめぎ合っています。
 03年3月20日に始まった米英のイラク侵略は、やられる前にやれという野蛮な時代に世界を引き戻し、人間が虫けらとして扱われる実態を見せてくれました。
 イラク戦争の大義が嘘で固められていたことは次々と明らかになっていますが、すでに大量の命が失われてしまいました。
 劣化ウランもイラク全土に使用されました。湾岸戦争で始まった地球に対する取り返しのつかない過ちがボスニア戦争にも引き継がれ、今回の戦争では、500〜2000トンとも推測されるこれまでで最大の量のウランが投下され、しかし、そのことの違法性が国際政治の場で正式に問われるに到っていません。
 この不正な戦争を小泉総理はなぜか支持しました。米国追従を強める中、憲法に反する自衛隊の海外派遣がなされ、違憲の現実を先行させながら「憲法改正」を公言しています。
 また、閣議決定だけで多国籍軍参加も決めるなど、議会軽視もすすんでいます。敗戦の後、日本社会は法による支配と民主主義の道を選んだはずですが、小泉政権の下で急速にその変質が進み、法の軽視がまかり通っています。
 被爆国でありながら、劣化ウランの危険性を軽視して、政府が自衛隊をサマーワの地に送り出したことに、国民の核廃絶への思いと乖離していることが表れていますが、戦争により踏みつぶされた人々の無念の想いが憲法に託されているということも、この国の為政者の記憶からはもう消えているのではないかとおもいます。
 イラク戦争で何が行われたかを国際法に照らし、また日本の自衛隊派遣が憲法に照らしてどうだったのかしっかり検証しておかなければ、今後の戦争も、又日本の戦争参加も繰り返されていくことになります。

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補充書面

 英国の独立委員会は「旧フセイン政権が配備可能な生物化学兵器は保有しておらず、使用する計画もなかった」と結論付ける報告書を出しました。
 米国の上院特別委員会も「中央情報局の情報は大半が誤りだった」という報告書を出しました。
 つまり、嘘から始まり、地獄を見せたこの戦争はもう犯罪という以外に何と呼べばよいのでしょう。自衛隊を送った日本もその一翼を担ったことになります。
 ところが、ブッシュ大統領は「潜在的な脅威を倒したのだから、攻撃は正しかった」と、なお言い募っています。日本がやはりこのまま、ブッシュの後を追い続けるとしたら、この国は世界侵略のモンスターの手足としてなっていくのではないでしょうか。
 日本政府が自衛隊派遣したことにより私たちは、イラクの人々の受けた痛苦に責を負うことになりましたし、テロに遭うことも覚悟せざるを得なくなりました。
 つまり、私たち自身の平和のうちに生きる権利が脅かされました。また、意に反してですが、私たちがイラクの人々の生存権を侵してしまったとも思います。
 償う方法はただ一つ、憲法に違反して侵略に加担した事実を国家が認めることです。
 子どもたちに「結局は、野蛮な力が世界を引っ張っていくのだ」という誤ったメッセージを与えることがないように、司法の勇気ある判断を期待します。

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イラク派兵違憲訴訟の会・東京
会としては2007年9月 解散しました。
ここでは、訴訟の記録を残していきます。
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