意 見 陳 述 書
私は1932年東京都北区で生まれました。兄5人姉4人の末っ子でした。母42歳の時で難産だったと聞きます。ために母は産後の肥立ちが悪く、近くの病院で診察を受けた結果「癩」と診断されました。「癩」とはいまでいうハンセン病のことです。母はたちまち警察官や役場吏員の手にかかって、現在も東村山市にある多摩全生園に強制収容されました。同時にわが家は内も外も真っ白になるほど消毒され、近所の白眼視の的となり、ついにはそこに住んでいられなくなって足立区に引越ししたのでした。
わが国のハンセン病政策は1907年に始まります。しかも制定された法律「癩予防ニ関スル件」は、完全な取締り法だったのです。絶対主義的天皇制の下「民族浄化」が叫ばれ、ハンセン病患者は「日の丸のシミ」としてその絶滅へ追いやられたのです。当初この法律は「業病・天刑病」の偏見・差別から家族を守るために自ら家を出て路上生活を強いられていた患者たちを取り締まりの対象にしていましたが、1931年いっそうの法改悪をはかって「癩予防法」を制定、こんどは家の奥で人目を忍んで静養しているすべての患者を強制収用する政策に転換したのです。この年―1931年は、日本帝国主義が中国東北部に侵略戦争をしかけ、以後15年にわたる戦争の渦中に私たち国民を巻き込んだ年です。すなわちわが国のハンセン病政策は、日本ファシズムの台頭・蛮行と軌を一にするかたちで推しすすめられたといっていいでしょう。
この翌年、私を生んだ直後に母がハンセン病を発病したわけですから、取り締まりはいっそう厳しく、多摩全生園での生活は悲惨を極めました。強制収用されたその先では、まず強制労働が待っていたのです。重症患者や身障者に対する看護や介護をはじめ、施設運営に必要な作業―つまり本来職員や業者が行なうべき仕事の一切を入所患者の強制労働でまかなっていたのです。また終生隔離ゆえに所内での結婚を望めば、その条件として断種・堕胎を強要され、さらにこうした処遇に不満をもらせば、所長の患者懲戒検束権によって所内に設置された監房にぶち込まれる。母に面会に行った父は「ここは人間の住むところじゃねぇ」といい、夜の闇に紛れて脱出させ、わが家に連れ戻したのでした。
こうして再び私たちは母を取り戻したものの、1939年私は7歳で同じくハンセン病を発病してしまいました。幼児感染していたのです。当時のハンセン病治療薬としては漢方薬の大風子油しかなく、それも入所しなければ治療が受けられない仕組みだったため、自分にはまったく効果のなかった薬でも私には効くかもしれないと思った母は、父が「人間の住むところじゃねぇ」といった全生園に私を連れて再入所したのです。ですが私を待ち受けていたのはやはり過酷な患者隔離撲滅の現実でした。私は母から引き離されて少年寮に入れられ、子供にできると衛生材料再生のガーゼ伸ばし作業に就かされたのです。文部省が学齢期にある私たち病気の子供の義務教育を放棄していたので、大人の患者が先生の寺小屋式の学校で勉強しましたが、教材らしいものは何もなく、1941年太平洋戦争勃発後は、勉強よりも飛行に使うとかでひまし油作りの奉仕作業や農作業に駆り立てられました。それだけではありません。私たちは文化人や僧侶の講演会には会場の最前列に座らされ、「お前たちは国の恥。生かされていることに感謝しろ」と説教されつづけたのです。職員たちも私たちに対して「非国民」「座敷豚」「穀つぶし」の悪罵のかぎりをつくしていました。
そんななか1943年に私のすぐ上の兄が同じく幼児感染から14歳でハンセン病を発病し、入所してきたのです。この頃からしだいに戦局は悪化しはじめ、1945年に入るとアメリカのB29爆撃による空襲が毎日のようでした。多摩全生園は東京空襲のちょうど通過点に位置していたためです。やがて艦載機のP51も空襲に加わり、朝から夜まで空襲という日が続きました。そうなると職員は全員防空壕に避難するので、治療はストップ、食事もストップして、非常食に乾パンなどが少量配られたりしましたが、とうてい足りるものではありません。母はこうした状況のなかで急速に病状がすすんで寝たきりになり、ついにはお粥か重湯しか喉を通らなくなりました。しかし、その母にも乾パンです。私と兄はしかたなくその乾パンを水で溶かして母の口に運ぶのですが、母はこれを飲み込めなかったのです。こうして母は敗戦の三か月前の5月に餓死同然で死にました。もちろん私たち兄弟も犬猫の餌以下の食事しか与えられず、餓死寸前の状態で、病状は悪くなる一方でした。ちなみにこの年の全生園での死亡者は入所者1480人中142人・約10%で、それはひどいものでした。
ようやく敗戦を迎えた私たち兄弟ですが、しかしせっかく平和と民主主義また基本的人権を謳った憲法を得ながら、その憲法の光が私たちには届かなかったのです。あの「癩予防法」が居直り続けていたからです。このため画期的開発の特効薬プロミンも絶滅目的の患者には用はないと私たちの切なる予算化要求に応えず、やっとこれが実った1949年の治療実施に私の兄は手が届かず、その前年の6月、19歳で死にました。
しかも国は私たちの「癩予防法」改正要求を逆手にとって、1953年この現憲法下で「癩」の文字をひらがなにかえただけの「らい予防法」を制定しなおし、じつに1996年まで私たちの人間の尊厳のすべてを奪ってきたのです。
これまで述べてきたように、らい予防法は、日本の侵略戦争の申し子です。そして20001年5月11日、私たちがおこしたハンセン病訴訟で違憲の全面勝訴判決を勝ち取ったのはまだ記憶に新たなところです。そしていうまでもなく、イラクへの自衛隊は兵も憲法違反であることは明白です。このイラク派兵という事実は、戦争政策の一翼である「らい予防法」によって多くの犠牲を強いられた私たちの人格をまたしても真っ向から否定するものであり、その精神的苦痛は耐えられません。したがって国に対し、ここに賠償を強く求めるものです。
2004年8月20日