原告陳述書

平成16年(ワ)第12797号

平成16年7月26日

東京地方裁判所 民事第13部合B係 御中

原告 友田 良子

 私は、訴状にも述べましたように「戦争を知らない戦中派」として、日本国憲法を守り、憲法前文と、第9条を活かした暮らしを次世代の人々に手渡さなければならない。それが私の責任だと思い提訴しました。戦後といわれる時に戦争体験者の大人達に、戦争という暴力の悲惨さと、平和な暮らしの喜びを教えられました。そして戦争は終わった後まで人々を苦しめていたということも見てきました。幼い日に見聞きした戦争の後始末の暮らしは私の反戦の活動の原点だと思います。

 1949年に小学校に入学した私は、戦争体験者の教師たちに民主主義と平和について学びました。しかし残念なことに「新しい憲法のはなし」という教材は使いませんでした。その本を手にしたのは三十数年後でした。小学生であった私が、戦後の暮らしと教育の中で学んだ民主主義と平和の大切さが忘れられず行動してきたことを思う時、「新しい憲法のはなし」が戦後4〜5年しか使われなかったのが残念でなりません。何故、誰がそんなことをしたのでしょうか。それも今のように平和憲法を「なしくずし」にするための政治の力だったのでしょうか。戦争を知らないはずの、戦時教育を受けたわけでもない私は進駐軍の米人を見ると、「鬼が来た」と逃げていました。子供のころの環境はそれほど強烈なものです。そして小学生時代に教えこまれたこと、見たことはしっかりと心に染みるものです。そんな精神形成の大切な時に、世界に誇る平和憲法を学ぶための素晴らしい教材「新しい憲法のはなし」を、今の私の年代の子らに渡さなかったことの「悪」を憎みます。私は子供の頃の教育、体験から戦争の被害者と思ってきました。その頃は戦争を恐ろしいと思い、「鬼が来た」といって逃げていた頃と違った感じでアメリカを憎んでいました。しかし加害者としての戦争を学び、あの闇市で一生懸命に生きていた人々を、私が戦後の台所で生命を守ってきたのは「女性」だと思ってきた人々を「加害者」として見た時に、新たな怒りに身体が震えました。私もいつでも加害者になりえるのだと思ったとき私の反戦への行動は強いものになりました。

 そして夜間高校に進学しました。そこでは戦争体験者の教師、生徒と共に戦争についてたびたび議論しました。彼らは勉強ができるということをとても喜んでいました。上級生に学徒兵のことも聞きました。「聞けわだつみの声」の冊子をまわし読みしたのもその頃でした。夜間高校では反戦の思いを持つものがとても多かったけれど、しかしそれが活動として行動にはなかなかなりませんでした。それは日本の経済が高度成長に向かい始めたことにも関係があると思います。貧しかった生活から抜けだすことに一生懸命になってしまったのです。しかしあの頃学んだ反戦の思いを持った苦学生達は、日本中に散らばって今を、不安に思っているはずです。いつでも反戦の行動を起こせると私は思います。

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 私は結婚して男の子が3人います。孫も3人います。その生命にも責任を持たなければなりません。フランスの女性達が戦争に反対して、「戦争をやめない限り、私たちは子供を生まない」という運動をしたということを聞いたことがあります。その気持ちは今、よく分かります。現在の若者が結婚したがらない、子供を生み育てることを拒否しているのも、今の社会状況を心配してのことも影響しているのではないかと私は思います。だからこそ憲法前文、第9条、13条等の「平和的生存権」に関わる権利を私も手にしたいし、若者達にもしっかり手渡さなければならないと思います。

 私は訴状にもありますように地方の市議会議員をしていました。その頃の経験で議員は市民の、国民の全ての思いを引き受けられるものではない事を体験しています。特に憲法に関しては多数決で事が決まる議会に任せることはとても危険です。だからこそ「憲法の番人」である裁判所が大切なのです。私は小学生のころ三権分立、司法の独立ということを社会科で教えられた時に、裁判所をとても崇高なところだと思いました。私は憲法前文、第9条を守り、国民がそれを活かした暮らしが出来るようにするために司法の独立があると思います。政治は、経済、権力、社会情勢によって、時の政治勢力によって法律を作ります。その法律が憲法にそっているのか、間違いがないかをただすために「憲法の番人」として司法の独立があるのだと私は思います。憲法前文、第9条が削除されたら裁判所の役割はなくなるのではないかとさえ思います。

 政治は世界に誇る平和憲法を僅か60年の間にことごとく壊してきました。あの素晴らしい「新しい憲法のはなし」の教材を無くし、警察予備隊といって軍隊を作り、その後はその軍隊を自衛隊という名に変えて、自衛のための軍隊は憲法に違反しないとして、そして今ではその軍隊は世界第3位の兵力を備えるようになり、高度成長の経済発展は国民の福祉や日常の生活のためには僅かしか使われず、自衛隊を軍隊として行動させるために使っています。そしていよいよ自衛隊が他国籍軍として派兵されます。それはなんとしても止めなければなりません。自衛隊員が戦争によって殺人を犯す前に。殺される前に。それを止められるのは「憲法の番人」である裁判所しかないと私は思って提訴しました。

 この陳述書を作成している時、2004年7月17日に北御門二郎さんが亡くなられました。91才でした。戦争という「殺人」を憎み、非暴力の生活を続けてきた方です。北御門さんは絶対非暴力主義のトルストイの作品が戦争協力のために使われたことを怒り、間違ったトルストイの翻訳をことごとくやりなおし、ご自分も徴兵拒否をして山奥で農業をして一生を送られた方です。私はトルストイの朗読をなさるときの美しい声を、力強い声を忘れられません。私は今までにこんなにやさしい方を知りません。しかし北御門さんの戦争への怒り、反戦活動はそれは激しいものでした。自分が殺されることよりも「人を殺すことが恐ろしい」と銃を持つ手に鍬を持ち、あの小さな身体で戦争という暴力を否定していらした方です。戦後は日本中を駆け巡り、新憲法とトルストイの非暴力主義を説いていらっしゃいました。日本中にその心を受け継ぎ反戦活動を行動している人々が沢山います。私もその一人としてこの訴訟の大切さを思います。

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 私は4つ目の訴訟を起こしていますが、これまで一緒に平和訴訟をしてきた仲間が何人も亡くなりました。その方達の声を、その思いを裁判所に届けるのが残った私どもの責任だと思いますので今回は2人の方の声を裁判所に届けたいと思います。

 剣持一巳さんは平和訴訟の提訴を最初に呼びかけた方です。東京大空襲を幼い日に体験され、平和憲法を守り、活かすための活動を学制時代から亡くなる日まで、長い間行動してきた方でした。一緒に平和訴訟を起こした1991年以前のことは詳しくは知りませんが、その後2つの平和訴訟をともにしました。剣持さんは2つ目の訴訟なかばに病に倒れ「残念だ」と言う言葉を残して亡くなるまで、憲法前文、第9条の大切さをしっかり教えて下さいました。剣持さんには私が鹿児島地裁で、本人訴訟で起こした裁判の傍聴にも東京からたびたび来ていただきました。そして鹿児島地裁の判決理由で「裁判所は私の平和的生存権を認めた」と喜ぶ私に「友田さん、これは両刃の剣だから気をつけなさい。政府はだからこそ国民の平和を守るために軍隊を持つというから、私たちは憲法前文と第9条をもとに平和的生存権を守るということをしっかりと訴えなければならない」と言われました。今度の訴訟ではそのことが一番訴えたい事です。それは平和訴訟の最中で亡くなった方々の強い意思だと思います。

 尾崎陞さんは「東京裁判」にもかかわりを持った、高齢の弁護士さんでした。東京の平和訴訟の口頭弁論の日に車椅子で参加していられる姿を時々お見かけしました。その後お話を聞く機会もないままお別れしてしまいました。平和訴訟の最中で亡くなった尾崎先生のお別れの言葉を鹿児島地裁の口頭弁論でも述べました。東京地裁でも聞いてほしいです。尾崎先生の「お別れのことば」を陳述しまして終わりにしたいと思います。

 「私は願います。私の命に奇跡がおきますことを。ヒロシマ・ナガサキ原水爆禁止世界大会にも参加出来ますことを。
 日本国憲法九条戦争放棄の理念を世界のものにする努力を続けられますことを。
 命あるなら車椅子でも行きたい。這ってでも行きたい。世界の平和を実現する仕事を続けたいと願います。無念でございます。心残りでございます。」

 
以上で終わります。

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イラク派兵違憲訴訟の会・東京
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