教育基本法「改正」が狙う国定“国民意識”の強制
――国が国民に愛国心を求めるとき
|
第3回学習会 2006年7月21日 報告者 西原 博史(早稲田大学社会科学部教授)
|
いま問題になっている教育基本法「改正」を、改憲のための地ならしとか予行演習と見て、だから反対だという方があります。私は憲法学を研究してきた者として、この見方には賛成しかねるところがあります。
教育基本法の改正は、私が考えるには、9条改正よりは影響は大きいかも知れない。9条改正と教育基本法改正と、どちらかがより大きな力を発揮するかといえば、私は教育基本法改正のほうが社会的なインパクト、あるいは歴史的なインパクトのあるものではないかというふうに思います。
なぜなら憲法9条だけを改正しても、その先の戦争を始めるかどうかという段階でつねに国民のコントロールがきく、9条改正をしたところで国民のコントロールはなくならない。というのが一方であるのに対して、教育のありかたを根本的に変えてしまうと、まさに国民がコントロールできない国家というものになってしまいます。そこで私は、教育がいま抱えています大きな、一種の恐怖感というような感覚を理解していただこうと思って、今日の話に入っていきます。
|
国民主権を否定する改憲案 |
- 憲法改正が何を狙いとしているか。あるいは憲法改正は9条改正だけではなくて、やはりそれとは違った大きな枠組みでの国家と国民の関係の転換というものにつながっていかざるを得ないだろうという認識を、まず考察していきたいと思います。
そもそも憲法を変えようという話をしている人たちがいるわけですけれども、憲法とは何だろうというきちんとした認識がないまま憲法改正の議論が進んでいるのは、憲法を研究している我々のような人間、そしてここにお集まりの皆さんたちの共通の居心地の悪さにつながって来ると思います。
たとえば次のような文章があります。「この憲法は、日本国の最高法規であり、国民はこれを遵守しなければならない」という命題です。これはどこから取ってきたかと言いますと、2004年5月に読売新聞が発表した、第三次改憲案の前文の最後の文章です。この考え方というのは、非常に大きな革命を意味します。憲法改正を革命と言うのは適切でないかもしれないんですが。というのは、憲法を国民が遵守しなければならないとは、そもそも憲法という言葉の意味を分かっていないのではないか。
憲法というのは国が守る、政府が守るものです。国家権力あるいは国家権力を担う人々が守るものです。もうちょっと正確に言うと、たとえばいま国会が立法権を持っていますが、国会が作った法律に我々が従わなければいけないのは何故かというと、我々日本国民が日本の立法権、法律を作る権限を国会議員たちに委ねたからです。国会法で決まっているルールに従って作られた法律に我々は従います。つまり誰がこの国の権力を握るのか、どういう形で権力者たちがその権力をふるうのか、それを決めるのが憲法です。国家権力を握って国家権力を使う人たちを指名するときの条件を作っているのが憲法です。
だからたとえば基本的人権に関する条項は基本的には、あなたたちに立法権は与えると一応認めますけれども、ただしその立法権を行使するときには、国民の基本的人権を侵害するような法律を作らないでください、という形でその立法権の範囲を限定する、というのが憲法の基本的な仕事になります。
そういう形で考えてきますと、憲法は国家機関が守るものであって、国民は守る必要がないというのが、基本的な立憲主義の根本原則ではないか。ところが改憲論の中では、憲法を国民が守らなければいけないという。そうすると守らせる側としての国家ということになります。本来、国民が国家に対して突きつけて、これを守らなければいけないよと言っていた条件だった憲法が、いきなり我々に対して刃を向けてくる。そして国民は憲法を守らなければいけないということになる。
たとえば自民党の憲法草案の中で見ますと、「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって支える責務」が憲法の前文の中で記載されている。国民が「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって」支えなければならない。
基本的人権については、非常に条文の上では微妙な変化ですので多くの方には気がついていただきにくい点ですけども、今の憲法13条で、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」となっています。「公共の福祉」に反しない限りは自由でいいんだと。それを自民党の新憲法草案は、「公益及び公の秩序」の範囲内で基本的人権を保障する形に変えようとしています。
どこが違ってくるかというと、「公共の福祉」に反しない限りで人間は自由に行動できるというのは、世のため人のために我慢しなければいけないときはあるけれども、基本的には自由なんだという話になってくるし、そして何が「公共の福祉」なのかということは開かれた概念として、最終的には裁判所が判断していくし、国民の側も考えるという形になります。ところが自民党案がそのまま受け入れられて、「公益及び公の秩序」に反しないように自由を行使するということになった場合には、「公益」とは何かを国のほうで決めてしまった瞬間に、あるいは政府が「公益とはこういう方向で理解しますよ」と言った瞬間に、基本的人権は政府の考えている公益の範囲の中でしか主張できないものになってくる。そういう枠組みがあります。
そういう形で公益あるいは国益という言葉が使われることがあります。たとえば改憲論の中で、自民党のプロジェクトチームで語られていることとしては、今までは憲法というのは国民が国家に突きつける制限規範だったけれども、これからはそうではなくて、国民と国家が一緒になって公益を実現していくときの、実現の仕方の基本ルールだという、新しい意味をきちんと理解してもらおう、という説明になっています。
国民と国家が一緒になって公益を実現していく、そのときのお互いのルールとして憲法を位置付けようとしたときには、結局そこでは公益とは何かを決める、まず国家としての方向設定があって、その公益実現のために国民は頑張らなければいけない。そこで「愛情と責任感と気概をもって」公益実現をはからなければならない。それを監督し、方向を指し示して進行するのが国家ですよ、という形になっていく憲法構想が見えてきます。
要するにこれは国民主権という概念を根本からひっくり返そうとしているわけですし、それは基本的人権という考え方を根本からひっくり返そうとしていることになるでしょう。国民が主権者であって、国としての方向性を国民が決めて、国家に対して「こっちの道で行け」という形の指示をするという理解を根本的に否定される。権力者が先にあって、結局それが進むべき道を決めるんだ、国民はそれに従っていけばいいという発想になっていく。国益・公益のために国民は活動することを義務づけられていますので、たとえば表現の自由などといった基本的人権の保障も、公益・国益の実現の範囲に組み込まれていく。だから「みんなで戦争をしましょう」ということを国益だと決めてしまった場合に、「いや、その戦争は良くないんじゃないですか」という発言する自由は、基本的人権としては認められない。そういう憲法解釈になる基本が、この自民党の改憲草案の中には、すでに組み込まれているという形になっています。
その場合に、コインの裏と表の話でしかないんですけれども、憲法を改正してしまったときには戦争になるというのは、やはりひとつの意味があるのですね。ひとつには憲法9条改正によって戦争ができる国家になってしまう、ということの持っている怖さが一方である。もう片方では戦争をしようと指導者たちが言い出したときに、それに反対できない国家になっている、という裏面が必ず一緒に組み込まれて、現在の改憲論というのはある。そしてむしろ我々の日常生活にとって直接効いてくるのはこの裏面のほうで、自分たちの言いたいことを言ってはいけない国家、考えたいように考えてはいけない社会が出来上がってくるということの怖さというものを認識しておかなければいけない。
まさにそこの問題、つまり我々が言いたいことが言えない社会に向かって行こうとしていることを、実はすでに現実のものとして先取りしているのが、現代の学校教育の現場です。それは教育基本法の改正としてひとつの完成を見ようとしている、という状況にあります。
|
子供たちを守る柵としての教基法 |
- 国会では教育基本法改正の問題については、5月に提出された政府案が継続審議という形になっています。本来だったら閉会中審議という形で地方公聴会を7月、8月の間にやってしまって、それで公聴会の日程を処理したということで臨時国会の冒頭で採決、ということも計画されていましたが、そこも一応回避しました。公聴会は進めないということになりましたので、臨時国会で教育基本法が採決されるとしても、いちばん最初ではなくて、しばらく後、短くて2週間あまり審議をした後の話になります。
ただその場合に、教育基本法改正について国民の間で十分な議論を受けて、理解を受けての法律改正がなされる、あるいは新法の制定がなされようとしていえば、かなり心許ない状況です。
教育基本法の問題というのはなかなか分かりにくいところがあります。現行法もかなりシンプルといえばシンプルなんですけど、いろいろなことが書いてありまして、けっこう分かりにくいところがあります。
そもそも教育基本法があること自身が当たり前のことではない。教育に法律が関わらなければならないということに、それ自身疑問があります。教育というのはあくまでも、大人がいて子供がいて、大人が子供になにか積極的に関わっていこうとする、何かを伝えようとする。子供は子供で大人から何かを、悪い言葉を使えば盗み取っていこうとする、そういう形で社会の何がしかを子供は知ろうとする。そこで人格と人格のぶつかり合いがあって、子供というのはだいたい大人の思っているとおりには大人の言うことを受け止めてくれなくて、そこでおたがいに両方が成長しあう、というのが教育のプロセスなわけです。教育学で教育という言葉を定義するときに使っている表現です。そういう人間の出会いを考えると、そこに法律というものが出てきて、こういうことを教えなければいけない、こういうことを学ばなければいけないという働きかけがあるというのが、そもそも当たり前のことではない。
でも現在我々は教育基本法というものを置いて、教育に対する基本のやりかたを法律でもって律しているという現実があります。何故かというと、これはやはりそうしなければいけなかった、ということになるでしょう。前の時代とのからみでそうしなければいけなかった。現在の教育基本法が1947年に制定される前の段階では、教育勅語に基づいて教育がなされていたわけで、教育勅語の中では結局、教育における価値というものはすべて、教育勅語の言葉で言えば、「天壌無窮の皇運を扶翼」するということになっていた。つまり日本人として持つべき教育的な価値というのは皇室の運勢を支えることであって、その皇室の運勢を支える人材になるために教育が行われる、という形がありました。
いわゆる教育勅語体制の中で行われる教育というのは、子供たちをひとつの道具として見ている、あるいは子供たちを道具の材料として見ている、という話になるでしょう。「天壌無窮の皇運を扶翼」するという価値を使命として自ら抱え込まされた子供たちに、天皇が「汝、臣民」というふうに語りかけて、良き臣民になるための道として指し示したのが教育勅語だった。そういう点から考えますと、結局、国民あるいは臣民というのは、天皇のために、あるいは国家のために便利に使われるべき道具であって、子供たちはあくまでもその道具の材料であり、その道具の材料をなるべく便利な道具になるように鍛えあげる、それが教育というプロセスなんだ、という形で統制がなされていた。
国のための道具として存在することを使命として位置付けられているわけですから、戦争という時代状況の中で見たときに、皇国主義教育の方向に走っていくのはある種必然で、生きるための教育ではなくて、戦争で美しく死ぬための教育が行われたという、大きな矛盾があります。
そういう点を反省したから、教育基本法が作られた。そのときの反省点というのはおそらく、日本人としてどうあるべきか、人間としてどうあるべきかを天皇に決めてもらっていたというのが問題点のひとつでした。次の時代、我々の時代に教育のありかたを考えるときには、もう天皇に頼ることはない。国民として自分たちの次の世代をどう育てるかを、自分たちで考える。結局、国民代表である国会においての法律という形で、次世代の国民の育て方を基本的な宣言として作りあげる。こういうものが、まず法律が関わらざるを得なかった理由だと思います。
そういう流れからいきますと、現行教育基本法の中でいちばん重要な部分は、1条に出て来るタームです。戦前の、あるいは教育勅語のもとでの教育の問題点が、国の道具としての国民を作るということだったとすれば、それは間違いだった。だから現行教育基本法の1条では、「教育は、人格の完成をめざし」て行わなければならないとした確認が重要だろうと思います。
ここでいう「人格」とは何かについては、教育基本法を準備した教育刷新委員会の中でも非常に大きな議論になった点ですし、現在でも議論は続いています。そこで「人格の完成」という言葉で一致できたということのほうが重要なんですけれども。そこには、一人ひとりの子供たちが価値を持った存在なのだと、だから一人ひとりの子供たちを大事にしていく、という考え方があります。そして便利な道具として子供をねじ曲げるのではなくて、そもそも一人ひとりの子供たちが育つ力を持っているのだから、それを周りから応援してあげて、それぞれの子供たちを人格に到達できるように支援すること、それが教育なんだという教育のイメージが、ここではっきりと現れています。
ですから、これは私がよく使う言葉なんですけれども、教育基本法というのはやはりひとつの「柵」としての役割を果たすものです。戦争で崖から転落してしまった、道具として子供たちを利用する発想のなかで、子供たちを戦場に送り込んで殺してきてしまった。これはやっぱり間違いだった。だから、あってはならない教育との間に柵を立てて看板を立てて、この先立ち入り禁止、「教育は、人格の完成をめざし」て行わなければならないという看板を掲げた。そうすればもう転落することはないだろうと思っていたのですが、それから60年たって、この柵はもう古くなったから作り替えましょうという話になっています。
もしかすると、もうこんな崖から転落する者は誰もいない、崖に近づこうとする者も誰もいない、だから別のシンボルが必要になった、という議論なのかもしれないわけですが、やはり柵の向こうに子供たちを連れて行きたい人たちがいて、その人たちには、その柵がいかにも邪魔なようにも見えています。
|
自民党と文科省の結託 |
- そこで、なぜ教育基本法改正の議論が出てきてしまったのか、という話です。
というのは、自民党が教育基本法を改正したいというのは昔からのことでして、池田・ロバートソン会談というものがありましたけれども、1950年代から自民党にとって教育基本法というのは、日本国憲法と同じくらい敵視すべき存在だった。だから戦後社会の中で何回も何回も、たとえばときの文部大臣が教育基本法の問題性を問うことをきっかけにしながら、教育基本法改正をめざす動きは何回も盛り上がりを見せてはきましたが、しかしとくに大きなうねりになることなく、しぼんできたという歴史の流れがあります。
つまり、自民党の中にははっきりと教育基本法の改正をめざしている人たちがいる。たとえば前首相のように、自分は日本が天皇を中心とした「神の国」であることを確認していただくために政治をやっていると、いうようなことを言い出す人たちがいる。天皇を頂点に置いたピラミッド構造というものを意識して、そういうものが日本のあるべき姿だという認識のもとで努力する人たちが、政治の中心にいる。そういう政党に我々は政権を任せているわけですから、そういう発想からすると、教育基本法の改正というのはもとより当然の話ということになります。
自民党にとって、たとえば憲法改正、自主憲法の制定というのはやはり悲願なんです。9条改正を狙っているだけではなくて、そもそも彼らにとって国民一人ひとりが尊重されるという基本的人権というのは、それ自身として政治理論としては認められない。その基本的人権の上に学校がある限り、教育基本法が敵意を持たれる存在であることは、ある種やむを得ない。ですが、やはり国民はこの議論をつねに跳ね返してきた。だから自民党の教育基本法改正論は今まではつねにしぼんできたわけです。
ところが、どうも今回は違うわけで、今回はそれがどうも政治的現実に近づこうとしています。
もうひとつ変わったのは官僚層、文部省・文部科学省の側だったのかもしれません。これまでは自民党が教育基本法改正を言い出したても、文部省は、教育基本法は日本の文部行政の基本法ですから、という立場を保っていた。ところが2003年に教育審議会が教育基本法を「見直すべきである」という答申を出したときには、文部科学省自身がかなりフィットして、その答申を書かせています。
だとすると、文部科学省は教育基本法の改正を実現させたくなったという変化が見えてくる。よくよく見てみると、一種の省利省略みたいなものが見えてきます。たとえばこの中教審報告のタイトルをどうつけているかといいますと、「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」となっています。この教育振興基本計画というのは文部科学省にとってかなりおいしい話です。
たとえば環境基本法でもいいですし、何に関する基本法でもいいんですけれども、基本法システムというのはだいたい1990年代ぐらいから流行りはじめています。基本法と名前のつく法律を作ると、基本計画策定が続くというのがその基本法の中に入っていて、多くの場合は内閣レベルで基本計画、たとえば5箇年計画を作る。するとその計画の実現ということで、優先的な予算配分を得やすい、という基本法システムがあります。
ところが、教育基本法ができたのはそういう基本計画システムよりずっと早い時代で、もっと重要な法律として教育基本法ができたわけですから、文部科学省には自分のところで音頭をとれる基本計画がない。だから予算が逼迫してくると、自分の取り分がどんどん減っていく。それがとっても嫌なので、基本計画システムをなんとか組み立てたい。そのためには教育基本法を改正して、教育基本法を基本法システムとして動かすしかない。自民党の先生たちが愛国心だ何だと言って、教育基本法を改正しろと言っているから、じゃあそれに便乗する形で教育振興基本計画を作ってしまおう、という発想だと思います。
それはそれとして官僚にとっては重要なことでしょうけれども、我々の目から見ると、自民党がなにか社会変革を狙っている、そして官僚が省利省略に基づいて陰謀を一緒にやろうとしているというのは、とくに珍しい話ではなくて、この20年間、我々がよく目にした話です。これまでそういう場合には我々は国民として、それをかぎつける力はあった。そうするとやはり自民党が悪い、官僚が悪いと言うだけでは、現在の局面を迎える動きとどうも結びつかない。
|