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天才を育てたい財界の思惑
 もう片方で、教育基本法が悪いから少年犯罪が増えている、というような話があります。これは少年犯罪が増えているかどうかを現実に検証しなければいけないわけだし、基本的には増えていないという認識になってくるでしょうけれども、今日は時間がないので触れません。いずれにしても少年犯罪の問題と教育基本法の問題というのはかなり無関係であるし、ただ単に社会環境が変わった、だから教育基本法を変えなきゃいけない、というような話としてしか出されていない。
 そうすると、実はそこに隠された動きがあって、隠された部分を実現するという意義を含めての、ひとつの仕掛けがあるのではないか。その隠された仕組みを作っているのは、恐らく財界ということになるでしょう。経済界にとって教育基本法改正というのは、1980年代以降かなり一生懸命進められてきた、ひとつの課題です。80年代には中曽根臨教審、中曽根首相のもとで臨時教育審議会が組織されたんですけれども、その時代から、財界を中心に教育改革を求める動きがかなり激しくなっています。

 臨教審答申の中では自由化論が主張されました。非常に勝手な話なんですけれども、分かりやすく言えば、明治維新から1980年代までの日本の教育というのは、追いつけ追い越せ型の社会の中で、欧米先進国の後ろを追っかけていた。生産性を高めるための教育を行なってきた。つまり、我々の先に見えている先頭ランナーに追いつけ追い越せという形で、生産力を上げていくことが日本の使命だった。そのときに教育の場面で誰にいちばんエネルギーを傾けるかというと、生産力を上げる工場労働者たちが最大のターゲットだった。ところが工場労働者たちというのは労働者たちのうちでも基本的には底辺層に位置するものなので、その最底辺の水準を高めることによって生産性向上をはかる、そのことによって世界の先頭グループに入ろうとした、というのが今までの日本のやりかただった。
 しかし1980年代には、それが機能しなくなっていく、という話です。何故ならば、すでに先頭に立ってしまった。目指すべき背中はすでに我々の前にはない。少なくとも先頭グループの一員として、日本がこれから進む道を切り開いていかなければならない。そういうときに必要になってくるのは、工場労働の中で生産性を高めるのではなくて、世界の経済が進むべき方向を決めるような創造性です。

 よく言われるのは、たとえばビル・ゲイツみたいな人材が必要だということです。小さなソフトウェアの会社から始まって、ウィンドウズは今では世界の97%のパソコンを押さえている。そもそもコンピューターのソフトが商売になると考えた人は少なかった。そこに大きな市場を生み出して、バージョンアップされれば新しく買わざるを得なくするという形で支配していく。それだけではなくて、コンピューターはすべての知的生産の道具となっているわけです。ウィンドウズがどういうふうに機能しているかを正確に知っている人は我々の誰もいない。そこで必要な情報がちゃんとペンタゴンに流れるように組み立てられているという話が、まことしやかに語られていますが、我々はそれをウソだときちんと証明することはできない。つまり知的生産の現場の構造というものを、アメリカ資本がそのまま握っているという現状があります。
 アメリカはそういう天才を生み出す、単に大きなマーケットを作るのではなく、そのマーケットの構造を規定することによって、国益にかなった将来の世界の発展というものを作っていく。アメリカはすごいなと、それに対して日本には天才がいないなという話になっていきます。

 それ自身はかなり多くのウソを含んでいまして、たとえばウィンドウズ・マシンの心臓部にペンティアムというICチップがありますが、その基本構造を作ったのはじつは嶋正利さんという日本人の方です。日本に天才がいなかったわけでは決してなくて、日本企業がちゃんと使いこなしてこなかっただけです。財界が、自分たちがうまくいかないのは自分たちのせいではなくて、日本の教育が悪いんだと責任転嫁している。私に言わせるとほとんど冗談のような責任転嫁なんですが、ただ私より彼らのほうが声が大きいので、日本に天才がいないのは教育の責任とされただけです。
 こうして1980年代以降、財界はエリートたちをどうやって作るかが日本の教育の課題だと言っています。教育コストのかけかたの問題として、今までは協調主義に走っていた。それはやはり工場労働者たちみんなに力をつけてもらうことを考えると、すべての人たちが落ちこぼれなく一緒に育っていくことにエネルギーをかけざるを得ない。ところがそのことによって、非常に優秀な人たちの創造性が充分に発揮できない、それが問題だと。したがって、これを是正しようという話になるわけです。たとえば中教審答申の中では「個性に応じた教育の伸長」といった言葉がよく使われます。「個性の尊重」に結びついてのことですが、「自己責任の原則」というふうにもなっていきます。

 非常に分かりやすく言ってしまいますと、勉強が好きなのも個性だし、勉強が嫌いなのもひとつの個性だと。今までは勉強の嫌いな子供たちに対して、お尻を叩いてというのは比喩ですけれども、とにかく勉強しようよと言って、ものすごいエネルギーをかけて学ぶ機会を作ってきた。それは無駄遣いだったんじゃないか。勉強が好きな子供たちに伸びてもらうことが必要なのであって、嫌いな子供たちに無理に勉強させるのはかわいそう、その勉強嫌いという個性を押しつぶしているのではないか。勉強嫌いの子は勉強したくないならそれはそれで放っておく、後で困ることがあるかもしれないけれども、それは自己責任。個性に応じた教育というのは、そういう話です。
 そういう形で自己責任原則というのは、コストの傾斜配分という政策にはっきりとつながっていくわけです。
分断社会の安全弁としての「愛国心」
 たとえば東京では品川区などが先進的だと言われますが、学校選択制を導入しています。選択制で秩序を作り上げて、優秀な子供たちはその受け皿となるような学校へ集中して行くようになる。残りの、地元の小学校に行くような子供たちは、あまり教育関心の高くないような家庭の、あまり支援するような必要のない子供たち。というような、コストに応じた学校ができていく。そうした場合に、競争秩序の中で、どこの学校を支援することが最も効果的か、ということを見極めて、最も支援を必要とする、優秀な子供の集まっている学校に傾斜的にコストをかけていく。そこにコストを集中させることによって、創造性ある子供たちをうまく作っていくことができる。
 そのときに、もちろん切り捨てられる部分というのは出てきますけれども、それは、財界的な言い方によりますと、日本が創造性あるエリートを作っていけば、そのエリートたちにぶらさがって日本の経済をそれなりに潤す。だからひとりの天才を作れば、それにぶらさがってみんながやっていける。だから天才を作ることを優先する。日本経済は没落していくしかないのだから、そのひとりの天才も作れないという体制よりは、天才を作ることを選ぶほうがいいという発想です。

 ここで想定されているのは結局、教育の階層的な分断ということになります。これはすでに現実の姿として、たとえば学校選択制という形で実現されているし、各学校で行なわれている習熟度別学習も、かなりその方向性で動き始めていると言えるような現状です。そうした分断が生じたときに国民の間に亀裂が入って、エリート層と非エリート層というのが分かれていく。

 新幹線停車駅程度の地方中核都市で、駅前に小中一貫校を作るという話が出てきています。その小中一貫校にエリートたちを全部集める。エリートでない子供たちのためには地元の学校がある。そうした場合に誰が一貫校に入れるかというと、それなりの支援体制を作れる家庭、つまりたとえばきちんと朝晩車で送り迎えができる家庭でないと、通わせられない。その地方の中で選ばれた子供たち、教育指向の高い家庭に育った子供たちは、小学校4年生の段階でだいたい小学校のカリキュラムは終わりにして、英語の特訓を受けて、というような教育を受けます。
 そういう小中一貫校で育ったエリートにとっては、地元の学校の子供たちは理解できない。いまの学校制度というのは、いろんな階級の子供がひとつの教室の中にいるのを体験してきているので、自分とは違う育ちでしょっちゅうケンカはしたけれども、最終的にはあいつはいいやつだったという体験を持っているわけです。それとは違うことをやろうとしている。そうするとその中小一貫校で育てられた子供たちが将来、官僚として動き出したときには、世の人々、市井の人々の生活について全く何の想像も及ばない。何を考えているのか訳のわからない人として位置付けられてくることにすらなりかねない。

 そういう形で教育を分断するということは、やはり国民を分断するということですし、もう片方で将来に夢の持てない階層を作り上げることを意味していますので、確実に反社会的要素、あるいは反社会的な階層というものを組み立てていくことを意味していると思います。それが分かっていながら、現在の日本の政策は、その分断の道を進めようとしている。そのままやってしまいますと非常に危険なことです。つまり、自分が大きくなった時には失業者の道しかもたらされていないという人たちを生む。そういう人たちが反社会的な活動に走ることは、各国の先例で明らかなんですが、それを防ぐためには何らかの安全弁が必要です。

 だから愛国心という部分が、現在の教育に関する議論の中で非常に大きくなる。つまり社会に分断が生じた場合に、分断によって大きくなってくる社会の遠心力をなんとか食い止める方法を仕掛けておかなければいけないわけで、その求心力的な仕掛けを学校の中に持ち込んでいかざるをえない。そのための手がかりとしての愛国心です。自らの属する社会を受け入れ、そしてその社会に貢献することを自分の価値として意識させる。そういう形での愛国心教育というものに働きかけていくということになります。
誰が「愛国心」を定義するのか
 教育改革の細かい事柄などはここでは省きますけれども、そこで結局、愛国心を教育の目標にすることが何を意味するのかということです。
 ここにひとつの通信簿がありますが、福岡市の2002年度の通知表です。小学校6年生の通知表で、福岡市の約半分の学校で使われたものです。社会の最初に「我が国の歴史や伝統を大切にし国を愛する心情を持つとともに、平和を願う世界の中での日本人としての自覚を持とうとする」、AかBかCか。小学校の6年生が一生懸命に国を愛そうとしているかどうかについて、AかBかCかに採点されて通知表を渡されたという話です。
 学校というところはひとつの教育目標を設定すると、その目標に向けて走るのがどうしても得意ですし、そのための場所でもある。そこで目標としての愛国心を設定し、そして愛国心を持とうとしているかどうかを成績つけますよと言ったときには、非常に大きな力を発揮するということがあります。
 私は憲法の専門家として言うなら、成績評価というひとつの制裁をひとつの脅しとして使いながら、愛国心を持ちなさいという強制を働かせることになりますので、これはどこから見ても憲法19条で保障された「良心の自由」に反することになります。国家として国民の持つべき心のありかたを決めることになる。愛国心だっていろんな愛国心がある、という話ではありません。いまの日本の学校では、「君が代」の歌を歌わないのは非愛国的だと、明らかに定義されるわけですから、愛国心というのはもう国の決めたものになっている。教育委員会の人たちの言う愛国心、校長先生の言う愛国心を受け入れるという話になっています。それを押し付けられるわけですから、これは明らかに憲法19条違反になるわけで、見過ごすことができないわけです。

 じつは私にとって気になるのは後ろの方なんです。「平和を願う世界の中での日本人としての自覚を持とうとする」。というのは、この通知表は夏休みになって、子供たちや保護者たちの間にも疑問が挙がって、こういうものを使わないでくれという運動ができあがってきました。年間評価項目としてこの通知表を生かすのか生かさないのかと問題になったのが、2003年の1月から3月です。その時期は、イラク攻撃をするべきかするべきでないかということで、世界が2つに分かれていた。小泉首相は最終的にイラク戦争を支持するという決断を下します。このときに国の選んだ政策に賛成することが愛国心だとするならば、小泉首相と同じことを言った小学校6年生に対してAとつけるということになるんですね。ひどい話です。
 それからちょうど1年ぐらいたった2004年の2月の話ですが、宮崎県の高校生が署名を集めて首相官邸まで提出に行きました。それはイラクから自衛隊を撤退させてください、という署名なんです。それはけっこうな数、1万数千くらいになったんですけれども、それに対して小泉首相が、「イラクに自衛隊がいかなきゃいけないのは、いろいろ複雑な事情があってのことなので、学校もきちんとそのへんを教えてほしいものだ」とコメントした。政府が決めた政策、イラクに自衛隊を送ることに反対するのは勉強不足だというんですね。反対する者はさまざまな複雑な事情の分かっていない勉強不足で、そういう困ったやつらに対しては学校できちんとものを教えてもらわないと困るという発想です。
 その発想を福岡市の通知票と重ね合わせるときに、何をやったら「平和を願う世界の中での日本人としての自覚」を持っていることになるのかということが、もう一度問われてくるわけです。そこで目標の設定の仕方が分かった。なぜイラク戦争が必要か、なぜ自衛隊のイラクは兵が必要だったのか、これをきちんと理解できている、これをきちんと説明できたら、「平和を願う世界の中での日本人としての自覚」を持とうとしていることにしよう、という読み替えが動き出す可能性が非常に高い。もう、いまそこまで来ているということなんです。

 これはどこで決めるかというと、基本的には通知票の項目をどういうふうにやっていくかは、学年の、小学校6年生の担任の先生たち、数人の話し合いで決定します。そうなると、ではこれはイラク戦争の意味ということに読み替えましょうということになる。あるいはひとつのインプットとして、校長さんはその学年の話し合いに現在は平気で口が出せる状況になっていますから、そこで、これはこういう意味ですよね、と校長さんが発言する。あるいは校長さんを支えるべく教育委員会の指名によって組織された公聴会のなかで「平和を願う世界の中での日本人としての自覚」をどう定義するかの議論が進んでしまえば、それで終わりという状況です。

 いったん学校が目標を設定してしまった場合に、いい先生とはどういうことになるか。なぜイラク戦争が必要だったか、なぜ自衛隊がイラクに行かなければいけないか、きちんと説明して子供たちに納得させるのがいい先生です。それに対して悪い先生として挙がってくるのは、たとえばイラク住民の上に降り注いだ砲弾、あれはいったい何なんだという問いを発する先生、そもそも正義の戦争なんてあり得るのかという問いを発する先生は、みんなで定めた教育目標とは違ったところに行こうとする、不適格教員という位置付けになっていくことが想定できる。そのときに学校において目標を設定する、そしてその目標を提起する権限を誰が持つのか、これが非常に重要なことです。

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