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非協力者を排除する仕組み
 教育基本法の改正案、政府案の構造は非常にたくみな官僚の作文として理解する必要があります。
 まず1条からいきましょう。1条では「人格の完成」という現行法の「教育の目的」規定はまだ残っているんですけども、それと併せて「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」をするという話になっています。その「必要な資質」とは何かが、2条で書いてある、という形になります。
 2条の1号で「幅広い知識と教養を身に付け」というのから始まって、3号の後ろのほうで「主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度」、そして4号で「生命を尊び、自然を大切にし」、また5号で、これは有名になりましたけれども「我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度」、とあります。これが日本人として必要な態度、したがって必要な資質だということです。
 愛国心とは何かということを、誰がどこで定義するかということですが、現行教育基本法の中で言われるさまざまな教育上の理念というのは、これは少なくとも国家が定義するものではないというのが現行法の姿勢です。そのために10条の条文がありまして、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」という形になっています。教育に対する根本的な内容を定めるのは基本的には国民の側であって、国家権力が一方的に何かをおしつけてはいけない、という発想なわけですが、その10条が政府案だと16条に変わっています。「教育は、不当な支配に服することなく」までは変わっていないんですが、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」であると。つまり法律でこういうふうに行うと決めたら、その教育が行われるということになっています。

 2項は、「国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない」。結局、教育内容の確定、もうちょっと言うと2条の言うところの「国際社会の平和と発展に寄与する態度」とは何か、愛国心とは何か、イラク戦争に賛成することか反対することか、を決めるのは、新教育基本法の16条のもとでは国の権限という形になっています。
 たとえば学校教育に関する条文がありまして、政府案の6条2項では「教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない」と書いています。学校教育が体系的だったり組織的だったりするのは当たり前なんですが、これをわざわざ書いているというのは、要するに政府が決めた教育目標の実現を邪魔するような教師がいたら、そういう輩は排除していくということです。体系的で教育が組織的に行われるように、邪魔者はすべて取り除くという話になる。

 2条の教育目標は私立学校に対しても今後あてはまることは、政府案の8条に書いてありますし、あるいは大学に対しても同じように適用されていくことになります。私は早稲田大学に所属しながら、いまこうやっておしゃべりさせていただいていますが、これももう長いことはないかもしれない。大学が早稲田大学の使命として、愛国心の実現を教育機関の使命として持ち出したときに、私がそこに所属し続けられるかどうか、そうとう疑問ということになるかも知れない。
 またこれを学校という場所に限られるのではなくて、たとえば親が子に対して教育の責任を自覚せよと言われているわけです。たとえば政府案13条では、「学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を」、つまり愛国心を実現する際におけるそれぞれの役割と責任を、「自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする」という話になっています。現在さまざまに組織されている地域防犯組織が、地域教育組織としても機能することが期待されているわけで、そこでは地域住民の相互監視体制が導入されてくる。この家庭は教育に貢献する家庭なのか、しない家庭なのか。

 分かりやすい話をしますと、たとえば学校で愛国心教育を行っていますので、町内会でもそれに協力するために、おめでたい休日には門かどに日の丸を立ててお祝いすることにしたいと。ついては日の丸お持ちでないご家庭もあると思いますので、共同購入を組織します、と言われたときに、果たしてそこで拒否できるのか。そこでは結局、みんなでやるべき課題としての教育、愛国心の醸成、愛国心の涵養といったときに、協力しないと潜在的には非協力的、非教育的な、治安上問題のある家庭と見られるわけですし、潜在的なテロリスト家庭というようなレッテルが張り付くわけですし、それによって日常的な行動が監視のもとに置かれる、ということだと思います。そういう中で、あなたは教育に協力するんですか、しないんですかという踏み絵が日常的に迫られてくる。そういう話が想定されているわけです。
この夏は重要な時期
 このように見てくると、これはものすごい組織的な社会変革の仕掛けが動きだそうとしている、ということがはっきりと見てとれるという気がします。要するにここで動き出そうとしているのは、誰か国家指導者のお声がかりのもとで組織された教育というものを設定して、みんなでそれを実現していくのは国民として持つべき心のありかただということを、構造として教育のなかに組み込んでいくことです。もちろん最初に踏み絵を踏まされるのは教師たちです。その次には国民すべてに日常的に踏み絵を踏ませていく体制ができあがってくる。その中ではやはり、最後まで主体的な自分でいられる人間、それほど強くいられる人間というのはそれほど多くないということだと思います。

 たとえば学校の子供たちの保護者たちはいま、子供の安全ということに対してすごく敏感になっています。毎朝毎朝、行ってらっしゃいと子供たちに声をかけながら子供たちの安全を考える。行き帰りには常に目を光らせている。でも校門の中に入るとそれから先は安全だという思いがあります。しかし本当に校門の中は安全なのか。一日中、権力者たちの精神的な働きかけに、抵抗力のない子供たちが晒されている、その教室のほうがよほど危ないかもしれない。

 いまそこで教育基本法が最後の砦になって子供たちを守っているんだけれども、まさにその教育基本法がいま壊れようとしている、ということが見てとれる。本当にこれが国民の間に伝わっていて、教育基本法はいらない、やはり新しいほうがいいということが合意されようとしているのかというと、どうも違うような気がします。もうちょっと長期的な話をしますと、教育基本法については自分では決められないけれども、憲法改正だったら自分たちで決められることも想定しながら、我々の側で歴史と政治の問題について、たとえば立法提案、憲法改正提案、あるいはそれにつながることについて、きちんと監視できる国民をもう一度つなぎ止めていかなければなりません。この夏は非常に重要な時期のような気がします。

 私もこうやって教育基本法の問題をいろいろなところで話させていただいていますけれども、たとえば学校の先生たちは非常に腰が引けている。保護者に対して教育基本法の問題についてなんて話題にできる環境ではなくなっています。そういう中で、気がついた人たちから隣の人と話し合って、いま何が進んでいるのかとお互いに問題にしあって、励まし合っていくことが必要なのではないかと思います。この夏というのがどういう歴史上の位置にあるかということを、皆さんにも分かっていただいていると思いますので、次にいま分かっていない人たちに拡げるべく、この夏はお互いに頑張っていければ、というふうに思います。
 ご清聴ありがとうございました。
(文責・平権懇)

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