平権懇ホーム > 改憲への流れにNO!を > 第4回 

平和に生きる都市

五十嵐太郎(東北大学助教授 建築史・建築評論)

 「平和に生きる都市」という題をいただきました。僕自体は建築家ではなくて、なにか設計をして作っているわけではないんです。むしろ過去の建築に関する出来事を研究したり、あるいはいま起きていることを批評するような立場です。ですから直接的に、こうすれば世の中変わるとまでは、なかなか言い切れるようなことはない。ただこれまでも著書の中で「平和に生きる都市」にかかわる内容のことには幾度か触れているし、建築と社会の関係に常に興味を持っているので、僕の中でこういうふうに関心の持ち方が推移している、あるいはつながっているので『戦争と建築』という本を書くに至った、ということが、今日のはなしで伝わればと思います。
五十嵐氏  僕は東京大学に1985年に入学しました。いまもう無くなってしまいましたが、駒場寮というのがありました〔図版1〕。1930年代、同潤会アパートとほとんど同じくらいの年代に作られた、けっこう頑丈な鉄筋コンクリートの建物でした。ここに2年間住んでいたことが、じつは後々効いていたなあと、最近気がつきました。
 それはどういうことかというと、もう僕が住んでいたころはどんどん住む人が減っていて、24畳くらいの大部屋に2人か3人で住んでいたんですね。昔は本当にぎゅうぎゅう詰めで暮らしていたんですけれども、僕が住んでいた時は人が減りはじめて、部屋ごとに全く好きなルールで暮らすことができたんです。つまり部屋によっては完全にオープンにして、3人ぐらいの男子学生が住む。あるいはクローズドといって、ベニヤで完全に仕切って個室を作って暮らす。あるいはセミ・クローズドといって、半分ベニヤで仕切って暮らす。18、19ぐらいの男子学生が24畳の部屋を与えられて、当時月100円の寮費で、光熱費が3500円ぐらいなんですけれども、そこで好きなように暮らせた。渋谷まで歩いて10分です。ありえないような居住環境ですね。大学の敷地内だったし、警察も入りこめない自治があった。ある意味で居住の実験みたいなのを行っていた。これはちゃんとデータをとれば、とても面白い研究になると思います。
 僕は石川県の金沢から東京に来て、初めて親元を出てこういうところに住んだので、これがどれだけ変なことか、後から人並みに賃貸の家を借りるようになって、とても異様な事態だったんだと後で納得したんです。
 何を言いたいかというと、ここでとにかく空間を与えられて、ここで自分たちのルールで好きなように住むということが可能だった。これはけっこういま思うと、物事を考える枠組みをあらかじめ壊したというか、すごく自由にしてくれたような気がします。あともう一つは、共同体と空間というのが僕の中でわりと興味あるテーマですが、男子学生がそれぞれの部屋に別のルールを持ちながら共同して住む、かなり結果的に実験的なことが行われていたんだと。そういう意味で、共同して住まうことに対する関心の元はここにあったのかなあと、今にして思います。

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●長い時間をかけて生成した宗教都市・天理

 僕が大学院生のころの1995年にオウム真理教の地下鉄サリン事件が起きました。これは阪神大震災と同じ年にあったということでも、いろんな意味で日本の戦後の節目というか、日本の流れを大きく変えることだったと思います。僕も大学では周りに統一協会員もいたし、オウム真理教の麻原が大学に講演に来たので見に行ったりとか、直接知り合いにオウム信者はいませんでしたけれども、身近にいた人たちがそんな事件を起こしたんだと、それなりに衝撃的なことでした。
 実は博士論文のテーマを何にしようかとまだ確定していないときにこの事件が起きた。建築の世界では第7サティアンの建物〔図版2〕を見て、工場みたいなものが出来た、もはや宗教は建築と関係なくなった、そんなふうに評論されていたんです。ただ、そういうふうに語るのはとても簡単だし、話としては分かりやすいけれども、本当にそうなんだろうかという気もあって、それで新宗教、日本の近代宗教のことを調べ始めたんです。サティアンって何だろうということを考えようというのがきっかけだったんですね。
 最終的に博士論文としてまとめたのが、天理教とか金光教、大本教、日本の近代宗教の建築のことです。それまで建築の世界ではいかがわしいもの、キッチュなもの、論ずるに値しないものとされていて、ほとんど誰も手をつけなかった領域だったんですが。宗教とは共同体ですから、信者の集団がどういう建築を作っていくかということを調べたわけです。その内容の一部を新書で出したのが、『新宗教と巨大建築』*です。
 日本の内部にまた違う考え方の人たちがいっぱいいる、その中のひとつのケースとして新宗教が挙がると思うんですけど、そうした共同体がどういう空間の歴史を持っているかを調べました。いちばんテーマになったのは、資料も多かったし、実際にできたものも非常にスケールが大きい、天理教です。
 天理市の中心部に本部の神殿〔図版3〕があります。天理教は江戸時代の終わりに中山みきという人が出てきて、神がかりになって始めたんですが、当初は彼女の住んでいた家を取り壊すんですね。建築を作るどころかどんどん取り壊して、貧しい人に分け与えるようなことをやっていた。
 さっきのサティアンというのはせいぜいオウム真理教が活動して10年ぐらいしかたっていない構築物です。そんな建物に立派な建築様式なんか成立するだろうか。それを検証したくて、他の教団は最初のころいったい何をしているのかを見ていったんです。
 天理教の場合も、ようやくちゃんと建築らしいものを作り始めたのは、発足して30年ぐらいたってからで、最初はやっぱり住宅の増改築なんですね。旅館の増改築みたいな感じで、つぎはぎでやっていくんですけれども。
 明治時代にはすでに国家神道の枠組みがどんどん強くなっていきます。その中で新宗教が生き残っていくためには、いろいろと制限を受けていく。例えば天理教では、彼らが考える世界の中心という柱があって、その周りを当初は男女で踊る儀式をやっていたんです。まあ今でもそうですけど、だいたい新宗教が男女で一緒にいるとなにかいかがわしい、何かいやらしいことをしているんではないかというふうに報道される。この時もそういうことですごく批判を浴びて、天理教はですから戦前は儀式のやり方を改めて、男だけで踊るという形式でやっていました。
 当然宗教というのはそれぞれ、人類がどう誕生したかという創造神話を持っているわけですけれども、厳密に言えば、神道の考えている物語と全然違うわけですから、それを押し通すと最終的には弾圧される。それを避けるために、天理教の中ではその一部の起源神話を封印して、明治教典というのを作って、戦争が終わるまではそういう形で生き延びようとしました。戦争時、国に多額の寄付もしています。これを平和になった後の時代から批判するのは簡単なことですが、国家神道に従属しなければ、多くの信者を抱えた組織は生き残ることができなかったと思います。やはり戦争時には、信教や思想の自由もなくなるわけです。もちろん、敗戦後、そうした抑圧が解除されて、本来の天理教の活動を再開します。
 天理市にいま行くと完全に宗教都市になっていまして、長い時間をかけて生成されたものです。お祭りのときに日本・世界各地から信者がいっぱい集まって来るんですが、一気に信者が集まると宿泊所、宿が足りなくなりますね。それで詰所という独特の宿泊施設を作って都市化をしていく〔図版4〕。明治の終わりぐらいから大正・昭和にかけてだんだん宗教都市として成立していくという経緯がありました。
 そういう意味では、いま天理市に行くとけっこうなじんでいるというか、町の中に天理教の施設が点在して、まぶしたようなふうになっています。PL教団などは宗教施設のエリアとニュータウンが完全に切れているんですけれども。天理教の場合、長い時間をかけて、宗教が街に溶け込んでいったという感じです。
 そのとき調べたのでもう一つ印象的だったのは大本教です。大本教には出口王仁三郎という思想史的にも非常に面白い人がいるんですけれども、彼がある意味では挑発的なこと、例えば天皇のコスプレとか、自ら天皇に似せたようなことをやった。建築を作るときも、自分たちの神殿を伊勢神社と同じ神明作りのものに作ったり〔図版5〕、かなり挑発的なことをやって、2度大きな弾圧を受けるんですね。これは恐らく近代以降の宗教史の中では最も大きい弾圧だと思うんですが、建築の立場から見ても、建築を壊されたというのはすごい印象的です。
 第1次弾圧の時は神道の形を真似したのはけしからんということで神殿の破壊命令が出て、礎石だけ残して撤去されるんですね。2度目の時は、大本教には亀岡と綾部に聖地があったんですが、ランドスケープから建築まで徹底的にすべてぶっ壊された。サティアンはいちおう合法的な手続きで壊されましたけれども、大本教の場合は裁判の途中で結論が出ないうちに全部ぶっ壊してしまった。まあそれだけ建築がシンボル的な力を持っていたと言えるのかもしれないですけども。

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●戦前はデザイン的評価の非常に高かった靖国神社

五十嵐氏 新宗教を調べていると、当然そこから翻って神道のことがどうしても気になります。そこでもう1冊、海外の新宗教のことも含めて、『近代の神々と建築』*を書きました。
 とくに20世紀の前半は日本が海外に進出するに伴って、アジアの各地に神社を建てています。これらは敗戦後、恐らくすべて無くなっているはずだと思います。お寺なんかは再利用されて、ホールみたいに使われているのがあるんですが、神社は日本が進出した現地にとっては侵略のシンボルになっていたので。とくに台湾神社とか朝鮮神宮〔図版6〕は、その都市の中で最もいい場所に戦略的に配置されていましたから。
 戦争と建築というとき、よく帝冠様式といって、九段会館だとか上野の国立博物館だとか、和風の屋根を載せたことでナショナリズムを表現したという議論があります。しかし、直接的に戦争と建築の関係があるとすれば、海外神社の方が大きいかなと思います。
 あとはいま話題になっている靖国神社〔図版7〕ですね。伊東忠太という建築史家が神門を設計していますが、戦前のデザイン的な評価はものすごく高いんです。いま建築の教科書を見ても、この建物について触れているのはまずありません。だけど当時、建築の世界でデザインをやっている人は、これがいかに素晴らしいかを、かなりファナティックなまでに言っているんですね、ちょっとびっくりするぐらい褒めていて。それが戦後は誰も言わなくなったという、その豹変もすごいなと思うんですけど。
 コメントとしては、例えば、直線をいっぱい使っていて日本古来の神社のシンプルなデザインであると。神社が直線でお寺が曲線で装飾が多いと。デザインにおける神仏分離みたいなものが語られている。そこにある排除の論理が出て来るんですけれども。
 ベネディクト・アンダーソンという人が『想像の共同体』*という本の中で、近代的なナショナリズムの発生のありかたを分析していますが、その中で無名戦士の墓と碑についての短い指摘があります。「これほど近代的なナショナリズムを見事に表象するものはない」と。これはなかなか鋭い指摘だなあと思う。これはべつに日本に限らず、世界各地でそうだと思うんですけれども、日本の靖国場合はまさに実質的にアンダーソンの言うナショナリズムの表象装置として位置付けられたものと思います。
 海外でいくつか見た例の一つはモルモン教です。これは天理教とほぼ同じころ、1830年代に登場しまして、やはり最初は迫害されていて、教祖は殉教している。アメリカの東海岸で誕生して、移住しては迫害されてまた別の町に移る。迫害を受けるからモルモン教は武装するんですよ。武装した宗教集団なんて地元の人にはすごい不気味です。当時はまだ19世紀ですからアメリカは西へ西へ行けばフロンティアがある時代です。現在のソルトレイクシティ〔図版8〕は、モルモン教徒が集団移住してゼロから作った完全なんですね。モルモン教徒もけっこうアメリカの戦争については協力的な教団だったりします。そうすることで生き延びてきたというところがあるんですけれども。

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●安全な空間として囲われたディズニーランド

『終わりの建築 始まりの建築』*は、現代建築の評論集として書いた本です。この中にディズニーランド的な空間について論じた箇所があるので、ちょっとその話をします。
 1955年に最初にできたのはカリフォルニアのディズニーランドです〔図版9〕。1990年代ぐらいからアメリカの都市論の中で、テーマパークというのが新しい都市モデルとして挙がっているんですね。テーマパークというと、とりあえず楽しそうに聞こえるんですけれども、ここで言っているテーマパークモデルの都市というのは、囲われた安全な人工環境という意味なんです。こういったものはアメリカの都市論の中で80年代、90年代ぐらいから注目されていて、それの最たる理由はゲイテッド・コミュニティという、住民がある意味で要塞のように閉じた居住地を作るというものです。
 実際、アメリカのディズニーランドに行って、ずいぶん日本のディズニーランドと違うなと思ったのは、外との雰囲気の違いなんですね。つまり、日本は何だかんだ言っても全然治安がいいと僕は思っているんですけれども、アメリカの場合は町を歩いている時はもうちょっと緊迫した雰囲気がある。まあ自分がツーリストだからかもしれないけれども。それがお金を払ってディズニーランドに入ると、すごい安心した気分になれるんですね。日本ではたぶんテーマパークの門をくぐったからといって、それほど変わらないような気がするんですけれども。
 同じ頃、『ビルディングタイプの解剖学』*という本を出しました。ミシェル・フーコー*という思想家にたいへん強く影響を受けて、監獄とか病院とか工場とかいう制度、施設、そういったものがどういうふうに出て来たかを建築の立場から論じたものです。
 この本の中でも宗教施設のことをちょっと挙げています。アメリカにシェーカーという教団があります。イギリスからアメリカに渡った教団で、もう信者がいなくなって宗教としては無くなってしまったんですけれども。このシェーカー教は一種のコミューンを作るんですね。とくに町と切り離されたところに、自給自足の共同体を作って、そこで生活を成立させて、外から切り離された世界を作るわけです。
 彼等は基本的にはキリスト教系の教団なんですが、面白いなと思ったのは、いわゆる教会というビルディングタイプがないんです。ミーティングハウスという集会所があって、それが教会に当たるものなんですけれども、他の建物とそんなに変わらない〔図版10〕。ここに住んでいる人全員信者なわけですから、わざわざ建物を飾って、いかにも教会っていうものを作る必要がなくなる。
 これと同じようなものはアメリカにアーミッシュというのがあります。やはり近代生活、都市部の生活と切り離されてコミューンみたいなのを作って、彼等も教会がないんですよね。彼等はお互いの住宅を持ち回りで教会として使うんですけれども。そういう意味で、こういう信者だけが共同生活をする時は、なるほど教会ってのはいらないなあというのが言いたくて、こういうことを調べたんです。
 オウムのサティアンの話に戻るんですけれども、サティアンっていうのは要するに信者の共同施設なんですね。あいいう共同施設の中で、わざわざ、いかにも教会に見えるものを作る必然性があるかなということから、他の事例を挙げました。
 本を出した後、実際にオウムの建物を見ていないじゃないかと、中に入ったことないじゃないかと人に言われて、なるほどそうだなあと思って、当時アレフに改称されていましたが、アレフの施設に行って、中を見せてもらったことがあります〔図版11〕。
 サティアンに似ていますけど、これは彼らが作ったものじゃなくて、もともと工場だった建物、あるいはコンテナみたいなものを再利用しているので、彼らは何のデザインもしていないんですね。外から見ると何も彼らの宗教施設が見えない仕掛けというか、仕掛けをしてないわけなんですけれども。監視小屋があったり、公安とか警察の人がうろうろしていて、周りはすごい騒然としたというか、ちょっと異様な雰囲気になっている。彼らの施設そのものは、外に敢えて何かする必要はないんです、すれば何か文句を言われるだけですから。だからこういう施設ができるんだなあと思いました。
 オウム真理教について言うと、サリン事件はもちろん問題ですけども、いちばん禍根を残すなと思ったのは、あの事件をきっかけにして他者に対する不寛容が広がった。他者に対してすごく我々が臆病になってしまった。違う考え方を持っている人を排斥する、排斥しようとするように世の中が変わってしまったと。それがたぶん最大の彼らがやったまずいことだと思いました。

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●カモフラージュは空爆には無効だった

 『戦争と建築』*という本ですが、これも基本的には共同体の問題がやっぱり関係しています。これまでに挙げたのは、日本という国内に違う考え方、内なる共同体を持つ場合です。戦争というのはそういう意味でいうと、例えば、国家や民族などですが、ある共同体と別の共同体、だいたい幸か不幸かですけれども、それらが深く衝突するときに、どういう空間の変化が生まれるのか、というテーマの設定になると思うんですね。
 この表紙〔図版12〕に挙げたのは、ルネサンスの時代の星形の都市をもとにした図像です。昔の建築家は、都市をいかに防衛するかという都市計画や、お城を作るのも重要な仕事でした。ここにあるのは多角形の形をした都市の図面ですけれども、いっぱい線が引いてあります。この線が何かというと、大砲の弾道なんですね。大砲がどういうふうに発射されるかという軌跡を描いて、ではどうしたら効率的にその城塞都市の輪郭を決めることができるかを、幾何学的に計算して作られたもの。こういったタイプのものはルネサンスの時代に、一種の理想都市、戦争都市として建築家が考案していたものです。
 すごく大雑把にまとめると、古代・中世・近世に至るまで、基本的には壁による防御です。近世のルネサンスぐらいになると、火薬の大砲が使われるようになって、攻撃力がすごく強くなる。それでいかに迎撃するかというの城塞都市が出て来る。それまでは頑強な壁を作ることでとにかく防御するということだったんですけど、ルネサンスになったら向こうの破壊力が強くなって、ただ防御してもそのうち壊されてしまうんで、どう迎撃するかということを考えて、幾何学的な形状の都市が作られるんですね。
 けれども、近代の20世紀の戦争になると、飛行機が登場することで、いま言ったような実験はみんな無効になるわけです。つまり、どんなに高い壁を建てようとも、空から飛行機が飛んで来て爆弾を落としてしまったら、壁なんて関係ないわけです。そういう意味で根本的に建築家がかかわる形での都市の防衛の仕方は、もう全く違うパラダイム、世界に突入していきます。
 第一次大戦からもう出てきますけれども、第二次大戦は本格的な空の闘いなわけで、当時建築をやっている人は、空から都市を攻撃をされたらどういう防御をするかっていうことを一生懸命考える。当時の本を見るといろいろあって、ドイツだとこういう集団で組織的に消火活動を行う〔図版13〕とか、日本はとくに燃えやすい木造の都市で、とくに空からの攻撃に弱いと思うんですが、涙ぐましい努力として建築家はカモフラージュのデザインなんかやってるんですね。これは日本が最初じゃなくて、やはりドイツが先にやったのを日本が研究してるんです。
 例えば、工場だとかは空から見るとすごく大きなブロックになります。当時はそれほど精密度の高い爆撃はできなかったんで、目で見て落とすところもあったんで、それをどう偽装するかということで、屋根をまばらに分割して塗り分けると、住宅街に似せることができる〔図版14〕。そういう意味で、空に対するファサード、これまで建築のデザインは水平方向にどう考えるかだったんですが、空から見るという新しい状況が生まれるんですね。
 当時、建築の構造や材料を研究している人は、どう燃えない建築を作るかとかいうことを一生懸命に考えたんですが、デザインをやっている人はある意味でいうと戦争の時はもうどうでも良くなります。そこでデザインは重要なんだということを一生懸命主張したくて、こういうカモフラージュの理論とかを提案したのではないか思います。
 これはイギリスなんですけれども〔図版15〕、テプトンという建築家の集団がいて、彼らはモダニズムのデザインとしても有名な建築家なんですけれども、地下でどういうふうに避難場所を作るかだとか、どういうふうに爆弾が落ちるかとか、非常に科学的に分析して、防空計画なんかを考えていたりします。さっき言った、水平方向ではなくて垂直、上から爆弾が落ちてくるという事態が起きたのは、とにかく20世紀前半の新しい戦争のあり方で、建築家の意識もまた変わってきます。
 あと、「集中から分散へ」〔図版16〕というのは、何か一極集中するよりは分散させることによって、どれかがダメージを受けても他でそれを補って、ネットワーク的に稼働させるという、こういった都市計画の原理も提出されました。
 まあいろんな努力をしましたけれども、実際にはほとんど効かなかったというか、結局、日本の主要都市はほとんど焼き尽くされてしまう。しかも敗戦間近の時には、原子力爆弾が使われてしまうわけですね。これはある意味で1発で都市がまるごと破壊できてしまうような破壊力を持っているわけですから、僕はもはやこの時点で都市を防御することはもう不可能なのではないかという気がするんですけれども。つまり1つでも落とされたらそれでまるごと都市が破壊されてしまうとすれば、もう建築や空間でどう防衛しようと考えたって、正直言ってもうその概念自体が破産したような気がします。
 敢えて言えば、さっき挙げた集中化です。一極集中して都市に住むという居住形態を変えることぐらいしかたぶんないんじゃないか。ここで最終的に全く違う状況にさらに突入したという気がします。

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●広島でいちばん印象深かったこと

会場 これは広島のピースセンター〔図版17〕ですけれども、広島の爆心地の近くに丹下健三さんという建築家が平和記念資料館、ピースセンターを作ったわけです。これは戦後の日本の近代建築でもエポックメイキングの、重要な建築とされているんですが、もう一つはここに原子爆弾が落ちたという悲劇の場所をどう表現するか、引き受けるかという重要な施設になったと思います。
 ここについてはいろいろ思うことがあって、たとえば展示場に、当時の本物の瓦礫ではなくて、焼け跡ふうの瓦礫を積んで通路に拡張したりとか、要するに本物ではないフェイクとして爆心地の悲惨な状況を再現する展示が増えているのではないかという気がするんです。それはある意味でとてもハリウッド的な手法、まさにテーマパークですけれども、そういうものを増やしていいんだろうかと、ちょっと疑問に思っているんですね。
 原爆ドームも実はとても不思議な建物で、原爆ドームはもし原爆が落とされなければ、たぶん日本の高度経済成長期の間に壊されたと思います、間違いなく。それほど一級品の建築でもないので、保存運動もそんなに強く起きなかったと思います。ところがある意味では原爆という十字架を背負ったことによって、永遠に壊れた状態のままで残るという、すごく不思議な運命をもつ建物になったと思うんです。つまり、あの原爆ドームは被爆後、相当に保存修復されています。ふつう保存修復というと直すんですけれども、原爆ドームは壊れた状態を保存するという、奇妙な状態になっているんですね。しかし、逆に周囲の瓦礫も含めて、何か違うものになっているのではないかと、気にしているんですが。
 そういう意味で、戦争の記憶をどういうふうに引き継ぐかということの問題にもかかわることが、ここで起きていると思います。
 僕は個人的にピースセンターの展示でいちばん印象深かったことを挙げておきたいんですが。あまり多くの人は気付かないと思うんですが、すべての展示が終わった後に、公園に面して、一直線の通路があるんですね。この通路を歩くと公園が広がっていて、向こうに原爆ドームとかが見えるんですけれども、ちょうど真ん中あたりに壁に一枚のプレートがかかっているんですよ。そのプレートが何かというと、町の地図です。
 最初、なんでここに町の地図があるのか分からない。よく考えると、ここはもともと公園ではなくて町だったんですね。原爆が落ちる前は町だったものが、原爆が落ちたことによって無くなってしまって、だから公園になってしまった。実はとても当たり前のことだけれども、そのことをふと気がつかせる。町が全部根こそぎなくなってしまったということを、何も説得的に見せようとおどろおどろしい風景を再現していない、すごく静かな展示なんですけれども、公園を見渡せるところで、振り向くとそのプレートがあって、そこに立つと、なるほどここが町だったんだということを改めて思わせる。そういう意味で僕にとっては、空間そのものがここで変わってしまったということを忘れていたというか。そもそもその場所が町だったというとても当たり前の事実を忘れていたことにまた驚いたということがあるんです。
 あと、2002年にこの近くにもう一つ、丹下健三のデザインで、新しい戦没者のためのモニュメントができたんです。それもわざわざ瓦礫を積んで見せるという手法が建築のデザインに組み込まれていて、テーマパーク的という意味で、正直言って僕はあまり感心しなかったんですけども。どう伝えるかは本当に難しいなと思いました。
 建築というのは基本的にはモノを作ることです。またそもそもシェルターとして始まっているんで、どちらかというと防御するものです。戦争だとか破壊行為を批評すること自体、じつは建築の職能とは真っ向から対立する。なかなか戦争に抗うようなものを提示するのは、建築の立場からは難しいと思うんですが。これは磯崎新という建築家が制作した「再び廃墟になった広島」というドローイングです〔図版18〕。原爆が投下された直後の広島に、未来の巨大な建築物をコラージュしている。その未来の巨大建築物が再び廃墟になっている。廃墟に未来の廃墟を重ねたドローイングなんですけれども。
 これを軸にして磯崎は「エレクトリック・ラビリンス」というおどろおどろしいお化け屋敷のようなインスタレーションをミラノで制作しました。68年の作品ですが、彼は建築家という職能であるけれども、この場合は建築そのものを作らない、どちらかというとアート寄りですよね。現代美術的な表現によって、近代の持っているある理性的な側面と破壊的な側面の両義性を批評的に表現することが可能になっている。まあ建築の立場からの一つの道としてはあるということです。
 原爆の話なんですけれども、一つの爆弾で都市まるごとが壊れてしまう。今はさらに兵器が進化しているわけですから、一人の人間が小型の原爆を持って行くということも可能になっているし、あるいは細菌兵器のようなものも想定されると、都市の防御はもう不可能になっている。
 北朝鮮からミサイルが飛んできたら、なんていう話がよく言われるようになっていますけれども、飛んでくるのが数分ぐらいだとしたら、文民統制どころか軍の人でさえもはや判断する時間がない。とすれば、自動的にコンピュータが反応するしかない。おそろしいことに、人間が完全に不在になってしまう、という状態になっている気がします。

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●9.11のテロリストと建築家のニアミス

 戦争の3段階論というのがあります。ポール・ヴィリリオ*という、もともと建築・都市の研究やデザインをやっていた人で、いまメディア・テクノロジー評論家として有名な人がいますが、この人が防御、攻撃、情報の時代と、3段階に分けています。2番目がルネサンスぐらい。3番目がいまやっていっていることで、相手が何をするか監視することによって抑制する。おそらく、先制攻撃論が、さらにこの延長にあると思うんですけれども、9.11以降、こうした状況がますます進行していると思います。『戦争と建築』は、2001年の9.11のテロを受けて書いています。これについてちょっと、僕の思っていることを紹介したいと思います。この事件は、すでに語り尽くされていますが、敢えて建築の立場から、あまり指摘されていないことを言います。
 9.11の同時多発テロで、ワールド・トレード・センターという建物が崩壊しましたが、アメリカ対イスラムの構図、自由主義対原理主義の構図というふうに、二項対立的に語られます。しかしマイケル・ムーア*の映画でもブッシュ家とサウジアラビアの関係が紹介されたように、実は建築のレベルでもなかなか不思議な因縁があるんですね。
 ミノル・ヤマザキという人はこのワールド・トレード・センター〔図版19〕を設計した人間ですが、日系のアメリカ人です。ビン・ラディンは言うまでもなく、テロ首謀者とされる人ですね。モハメッド・アタという人は、飛行機が2機突っ込むんですが、1機目をハイジャックした中心人物で、最後は操縦桿を握っていたと言われる。この3人は完全に全く違う世界にいたのではなく、様々なところですれ違っていたような気がします。
 まずミノル・ヤマザキの両親は日本人です。20世紀の初頭に日本人移民がいっぱい住んでいた、シアトルにこの人も生まれています。小さい時は貧しい移民の生まれで、日本人であることで差別も受けながら、けっこう苦労して勉強してアメリカの大学を出て、建築家として大成して、しかもワールド・トレード・センターを設計するようになる。ある意味ではアメリカン・ドリーム、大成功するわけです。
 そのヤマザキの出世作品になったのは、実は空港なんです。セントルイスの空港は50年代にできています。空港というのはちょっと因縁深いなと思うんですが。彼はサウジアラビアでもいくつかプロジェクトをやっているんですね。空港を2つ、あとビルのプロジェクトもやっています。そもそもなぜサウジアラビアに空港を作るプロジェクトがあったかというと、サウジアラビアにアメリカ軍が駐屯する見返りで、アメリカのお金で空港を作るとかいうことでできたらしいんですけれども。
 彼はそのときに、イスラム的なものに関心を寄せて、自分のデザインに取り入れようとした。ミノル・ヤマザキはもともと東洋系なわけですよね。彼は1950年代に日本の神戸でアメリカ領事館を設計したとき、日本の古建築を見て感銘を受けたり、世界旅行をして東洋の建築にもすごい興味を持つんです。たぶん、どこかで自分の出自のこともあって、何か東洋的なものに惹かれる。で、自分の中で西洋のモダニズム建築がずっとそのままいくのではまずいんではないかと、東洋的なものをどうやったら自分のデザインに組み込めるのかということを考えるようになるんですね。
 ワールド・トレード・センターの細部を見てほしいんですが〔図版20〕、先っぽがちょっととんがった尖頭アーチが、ビルの足元と頂部についているんです。高層ビルのデザインはだいたい足元と頂部にポイントが来るんで、そのいちばん大事なところにこの尖頭アーチを入れています。このモチーフというのは、近代建築のデザインには絶対に出てこないものです。これは中世のゴシック建築にも登場しますが、イスラム建築でもよく使われています。これが彼のすごくお気に入りのモチーフになるんです。
 よく知られているように、ビン・ラディンの家はサウジアラビアで最大のゼネコンです。国立モスクの施工なんかも手がけている、すごく重要な会社です。そうするとミノル・ヤマザキのプロジェクトも、ひょっとしたらビン・ラディンの家でやってたのではないか、まあこれは推測ですけれど。そこまでつながってなくても、ビン・ラディンがミノル・ヤマザキの設計したサウジアラビアの空港を使ったことは、たぶんあったんじゃないかなと思います。そういう意味で、すごいニアミスがある。
 飛行機をハイジャックして操縦桿を握ったモハメッド・アタ*という人については、わりと詳しい追跡調査が出てるんですけれども、この人はもともと建築を勉強しています。エジプト人で、カイロの大学で建築を勉強した後、ドイツに行って都市計画を研究しています。西洋に追従すると限界がある。そこでイスラム的な都市はどうあるべきかを考えなければいけないと、修士論文で言っているらしいんですね。
 そうすると、ミノル・ヤマザキの考えたことと、モハメッド・アタの考えたことは、実はすごく近い。もしこの2人が建築家とテロリストとして出会わなければ、お互い話をして意気投合したかもしれないとさえ想像したくなります。アタがどれぐらい建築に詳しいか知りませんが、ヤマザキの思想を知ってたのだろうかと、ふと考えさせられます。
 テロの話でも、世界が2つに分かれているから起きたのか、それともテロが世界を分けているのかと考えると、後者のような気がしてならないんですね。つまりあの事件によって、資本主義のシンボルとしてのワールド・トレード・センター対イスラムみたいなものが2項対立であるかのごとく語られてしまうけれども、実際はもっと複雑にからみあっていた。それを忘れてはいけないと思います。
「大衆の圧倒的多数は、冷静な熟慮ではまく、むしろ感情的な感覚で考えや行動を決めるという、すぐれて女性的な素質と態度の持ち主でもある。そして、このような感情は、決して複雑なものではなく、非常に単純で閉鎖的なものなのだ。」「そこには、物事の差異を識別するのではなく、肯定か否定か、愛か憎か、正義か悪か、真実か嘘か、だけが存在するのであり、半分は正しく半分は違うなどということは決してありえない。」
 これは誰が言っているかというと、アドルフ・ヒトラー*の言葉なんですけれども、ブッシュの言っていることはこれに似ているなあと思うんですけど。

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●監視カメラの増殖が不安を増幅する

 去年出したのは『過防備都市』*という本です。セキュリティがすごく過剰になっているいま、都市がどうなっているのかを考えました。共同体の内部が分断されて、無数の闘争線が引かれたような状態が起きているということを、考えようとしたわけです。
 〔図版21〕の左は新宿の地下街でホームレスののダンボールハウス村を追い出した跡に設置された、なんだか現代アートのように見えるけれども、かといってベンチにもならない、ただ、ここにホームレスがいてはならないというので作られたものです。
 右は渋谷のマークシティの下に作られたものです。ここにもやはりホームレスがいたんですが、波なみのオブジェのようなものを置いて排除しようとした。それでもやはりダンボールが設置されたんで、さらに小さな突起物を加えて平坦な面をなくした。それでも突起物を抜いたりしてダンボールを置くので、今度はとうとう囲ってしまった。ある意味で路上での闘いというか、空間を巡って争いが起きているわけですね。
 〔図版22〕は90年代の後半から目立つようになったホームレス排除型のベンチです。座ることはできるけれども寝てはいけないという。これなんか見ると明らかですけれども、もともとなかったのを後から無理やり溶接しているわけですね。そのうちだんだん、最初から仕切りが付けられるような一体型のベンチがデザインされるんですけど、初期のものはいかにも後付けです。
 似たようなタイプを比較してみると面白いんですが〔図版23〕、左上は東京のバス停で撮影したものです。右上は前僕が勤めていた、名古屋の中部大学のキャンパスにあったベンチです。中部大学は郊外の丘の上にあって、まあここまではホームレスが来ないだろうということなんですね。まったく同じベンチを使い分けているんですね。
 左下は仙台の駅の近くで撮った円形のベンチですけれども、高速道路のパーキングエリアです。まさかホームレスは車でパーキングエリアまで来てダンボンールハウスを設営することはないと、それで右下にはない、同じようなものでも明らかに使い分けています。
 公共のベンチを作っているコトブキっていう会社があるんですが、そのホームページを見るとこういう仕切り型のやつがいっぱい紹介されています。どこにも、これはホームレスを排除するとは書いてないんですが。仕切りを付ける理由としていちばんびっくりしたのは〔図版24〕で、健康増進ベンチらしいんですよ。こういうのが路上にあったら、ここで体操ができますよっていうベンチらしいんですけど。
 〔図版25〕はある意味で洗練化されたものですが、仕切りがなくて、リングが段違いで2つあって、座ることはできるけれども、最初からここで寝そべろうなんてことを想像すらさせない。こういうオブジェのようなベンチが増えています。仕切りがついていると、ここであなたが寝ることを拒否します、禁止しますというメッセージをかろうじて認めますが、これになると、ここで寝ることの想像すら選択肢から無くしてしまう。そういう意味では非常にデザインが発達しているんですね。
 〔図版26〕のような張り紙はよくありますね。対ホームレス、対外国人ですが、日本語で書くよりも明らかにアジアの人、あるいは英語を読める人に対してのみ警告を発しているわけです。〔図版27〕は新宿の歌舞伎町の、これはダジャレで蝶=超オモシロなんですけど、下を見ると小さく「セキュリティカメラ稼働中」とあるんですが、ハングルと中国語と英語でセキュリティのことが書いてあって、外国人はこれしか読めない。日本人に対しては超オモシロのメッセージだけが伝わる。
 防犯カメラがとくに歌舞伎町で最初に公共空間に大々的に導入された〔図版28〕ことが良く知られていますが、2002年ですね。9.11テロの10日前に歌舞伎町の風俗店放火事件で多くの人が亡くなった、それをきっかけにしたということになっています。それ以降、どんどん公共空間に増えています。これを後押ししているのは防犯設備事業で、都や区がお金を補助しますということで、商店街でもどんどん増えて、危機が煽られている。体感治安が悪化している。
 ですから、こういう監視カメラが増えることによってかえって不安が増幅しているんではないか。監視カメラの先進国としてはイギリスがたいへん有名で、90年代の早い時期からどんどん監視カメラをあちこちに張り巡らしたんですけれども、わずかに犯罪は減ったらしいんですね。決定的に減ったわけではない。ただ、「以前より治安が悪くなっと思う」という、体感治安の悪化という意味ではすごいポイントは上がっていて、カメラが増えることによってますます不安が増幅されているという悪循環の構図があります。
 同じく2001年の6月に起こった池田小学校事件以後、学校は要塞化の道を進んでいます〔図版29〕。開かれた学校などと言うと、怒られてしまう。ただデータだけを見ると、やはり外部から侵入者が来て小学生を殺傷するというのはほとんど例外的な事件です。子供が刃物を持ち込むか、あるいは最近は卒業生もありますけれども、本当に外部の人が殺傷するというのは、たぶんいまでも稀だと思います。そもそも学校で死んでいる人の数を見ると、いじめで亡くなっている人の方が明らかに多い。だけど社会問題としてはもう新しさがないので語られない。侵入者の方が話題になっていて、どんどん学校が要塞化している。
 日本の治安も同じような状況です。殺人事件自体はいま年間700人代ぐらいで、例えば1980年代の方がはるかに殺人事件の被害者は多いんです。80年代の方が僕も安全だったような記憶があるんですが、データ的に言うと殺人事件は、今はその半分に減っているんですね。ただ自殺者は年間3万人を超える、全然桁がちがってものすごい数ですが、こちらの方の対策をしようという話はあまり出てこないで、事件が凶悪化しているというイメージばかりが増幅されています。
 コンビニもどんどんこういうふうに〔図版30〕防犯対策をするようになっていますし、安心・安全が商品化されて、いまどこのハウスメーカーでも防犯邸宅というのがいちばん売れ筋の商品です〔図版31〕。

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●景観美化運動の恐ろしさ

講演の様子 では建築家が何ができるかというと、実はあまりできることはないんです。例えば〔図版32〕はスミレアオイハウスという小さな住宅ですけれども、一目見て分かるように、塀もなくて外から丸見えの開放的な家で、監視カメラもセンサーも何もないシンプルな家なんです。まあ今の流れとはまったく逆で、建築家が手がける住宅にはときどきこういうのがあるんです、土地がなくても楽しく暮らしていける。ただ、こういうのを作ってもあまりニュースにもならないし、こういうのがいっぱい増えても、1万戸に1戸でももし事件が起きたら「そら見たことか」とメディアが報道するだろうなと思うと、なかなか絶望的な状況だなと思うんですけれども。
 本当に危険になったのかということが疑わしいなと思います。世界的にも、冷戦時代の方がはるかに危険だったはずです。犯罪についても日本の治安は、犯罪学者の河合幹雄さんも言っていますが、依然として世界でも圧倒的に良い。だいたい青少年による殺人事件は先進国の中でも日本は最低レベルで、むしろ戦後しばらくから60年代ぐらいまでの時期の方が青少年の犯罪は多かった。データの取り方によってもこのへんは煽られているところがあるんですけど、それをさらにメディアが煽っている現状があります。
 来年、景観に関する本を出そうかと思っているんですが、最近気になることとして、石原都知事の「心の東京革命」とか、不快行為防止条例のことがあります。いろいろ心の領域に関わることが触れられている。で、景観法に関しては「美しい日本」という、やや復古的な形で語られることがあって、僕の中ではすごくつながっていくなあと。心の領域に入っていこうということと、そこにあるコントロールを加えようというのは、これは偶然ではないような気がします。
 空間を浄化するというような話もあって、例えばこれは名古屋でいちばん大きなダンボールハウスがあった白川公園なんですけど、今は一掃されました。無くなって何があるかというと、美しい草花があるんですね〔図版33〕。愛知万博で外国から来るのに、見苦しいものは無くしてしまえということで、こうなったんですけれども、こういったことは昔から行われているんです。
 1940年に皇紀2600年を祝福して、中止になってしまいましたが日本で万博とオリンピックが企画されたときも、「大東京を美化しよう」という運動が起きています。海外からのお客さまに対して美化しようと。60年代前半の東京オリンピックの時も「首都美化」運動というのがあって、いまは過防備都市、生活安全条例の時代になっている。
 ナチス政権は全国無料健康保険の設立によって、住民をカード登録化しました。そして総力戦の開戦日には、回復の見込みのない何百万の自国民の死刑判決にサインしました。精神異常者、性的倒錯者、心臓病の患者、老人まで。予防医学と健康帝国主義の行き着くところです。日本ではここまで極端にはならないと、まだ僕はやや楽観的に信じていますけれども、究極的にいくと、こういうことも起こりかねないことは注意すべきです。
 都市計画系の学者で平山洋介さんという学者が『不完全都市』*という本を書かれていて、僕の書いたことと重なる部分があります。都市をあまりに完全なものにしようとすると、おかしなことになるのではないかということですね。つまり都市はある意味で、どこか不完全であるからこそ多数の異なる人を受け入れる。それが魅力でもあった。ところがいま完璧で浄化された潔癖な都市を生もうとして、ジレンマに陥っている。そういう意味で次のような彼の主張にはとても納得するんですけれども。
「不完全であるからこそ、都市は多数の異なる声を受け入れる。しかし、グローバリゼーションは不安の感覚を拡散させ、『恐怖の建築』を加速させる。完全都市の『内部』を純化し、境界をつくろうとすることが、不安のもとになる『外部』を生む。」
 いま起きようとしていることは、さっき言ったテーマパーク的な社会です。テーマパークとはある意味では完全な都市なんですが、お金を払える人は完璧な都市を享受できるわけですが、境界の外は危険な世界になって荒れていくという悪循環になる。
 作家ミラン・クンデラの言葉がいまの状況をすごく現しているので引用します。
「ユートピアの一つは、公生活と私生活がただ一つのものになる、秘密のない社会だった。ブルトンに大切だったシュルレアリスト的な夢とは、人間が衆人環視のもとで生活するカーテンのない家だった。ああ、透明の美! その夢の唯一つの実現は、全面的に警察に統制された社会なのである。」
 いま新幹線だとかいろんなところでゴミ箱を無くしたりとかやっていますけど、テロを完全に予防することは基本的には不可能だと僕は思っています。そもそもそういうテロが起きている原因そのものに対して、外交的にどうもっていくかを考えるべきだと思うんです。現時点ではそういうふうに日本の国家は動いていなくて、テロも地震みたいな感じで自然災害のようなふうに思われている。テロは自然災害ではなく、人間が起こしているわけですから、ただ過防備に向かうのではなく、人間の智恵を働かすべきです。
 ただ、本当にテロが完全に予防できるような社会がもし実現できたら、それはそれで恐ろしいなあと思います。すべての人間の心と行動をすべて把握していることになるからです。監視カメラ先進国のイギリスでも、この間みたいにテロが起きていますし。だいたい前科がなくて、ワンチャンスで自爆テロを起こす人をチェックすることは、ほとんど不可能です。起きた時にはもう終わっていて、その本人は亡くなっていますから。
 「マイノリティ・リポート」*というSF映画がありましたが、それはあらかじめ事件が起きることが完全に排除される社会でした。ボードリヤールという思想家が『暴力とグローバリゼーション』*で書いている言葉が腑に落ちたのでここに紹介します。
 「犯罪者をあらかじめ逮捕するSF映画『マイノリティ・リポート』のように、抑止的な暴力が浸透し、究極の予防措置が作動するとき、」「その結果、出来事は消去され、他者も敵も消去され、死さえも消去されるでしょう。出来事ゼロ、死者ゼロの時代こそは、セキュリティという強制命令のめざすところなのです。」

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●究極の安全都市、平壌

 つい最近、雑誌の仕事で北朝鮮の平壌を見る機会がありました。だいたいテレビで紹介されるピョンヤンの風景は、たぶん2種類しかないと思うんですが、キム・イルソン広場で軍人がパレードしている風景か、路上でストリート・チルドレンが飢えて横たわっているか。僕は公式な許可を得て、都市を見に行ったんですが、そうすると、いわゆる観光ルートで、完全にアテンド付きで回るんです。
 正直言って、すごくきれいなのに驚きました。きれいというのは、都市計画としてすごく整っている。見ていい場所といけない場所が完全に区別されていて、僕は当然、見ていい場所しか見ていないんですが、見ていい場所は、本当にきれいです。例えば、〔図版34〕は平壌の景観ですが、キム・イルソン広場があって、博物館、美術館、図書館があって、川をはさんで向こうにチュチェ思想搭が建っているんですね。一直線の軸線が川を飛び越えている。しかもチュチェ思想搭があるだけではなくて、この両側に複数の建物がシンメトリーに並んでいて、集合体として配置されているんですよ。ビルの上に「百戦百勝」とか書いてあって、完璧にコントロールされているんですね。ここまで空間がコントロールされている都市は見たことがない。たぶんブラジリアでも、ここまではやっていないんじゃないかと思うんですが。
 これは例えば、パリの都市計画と同じなんです。セーヌ川を挟んで、エッフェル塔とシャイヨー宮が対峙しているのと、よく似た手法です。ヨーロッパの都市計画を踏襲しているのですが、本家以上に徹底的に実現しているんです。それをほとんど完璧にやっているんですね。ふつうはもうちょっとノイズが入るんですよ。いらない看板が入ったり、何か猥雑なお店があったり、ゴミが落ちていたりとか。そういうのがない。究極の風景がこんなところにあったんだということに驚きました。
 僕はこれを見て、過防備都市とか景観論でやったことが全部つながりました。もちろん、見ていい場所についてです。平壌では、路地裏を勝手に歩いちゃいけない。しかし、見ていい場所について言うと、景観論者にとっては天国のような町です。景観論で叩かれる猥雑なものがいっさいない。看板がない、電信柱がなくてすっきりしている。ゴミが落ちていない、茶髪がいない、不良がいない、浮浪者がいない、風紀を乱すようなお店もない。
 よく拉致されるんじゃないかと冗談で言われましたが、拉致どころかスリに遭うことさえ不可能です。何故かというと、完全にアテンドが付いて自由時間があり得ないんですね。ふつうヨーロッパとかアメリカに個人旅行でも行けば、ちょっと何か盗まれたり、ちょっとお釣りをごまかされたりとか、場合によっては何か事件に巻き込まれたりとかあると思うんですけれど、北朝鮮を正規のルートで観光すれば、犯罪に遭うことすら不可能、ひったくりなんか絶対にあり得ない。ほとんど完璧な安全なんですね。
 そういう意味で、石原慎太郎が求めている、清く美しく正しい安全な都市って、ここにあるなあと。すごい皮肉だなあと思って見ました。
 もう一回、最後にミラン・クンデラ*の話ですが、これがけっこう腑に落ちます。フィリップ・ロスとの対談の中での発言です。
 「全体主義は地獄であるだけじゃなく、夢の楽園でもあるんです。みんなが一個の共通の意志と信仰で結ばれ、おたがい同士なにひとつ隠し合うことなく仲良く暮らせるという、昔ながらの夢の世界でもあるんです。でも、この楽園の夢が現実のものになったとたん、そこかしこに邪魔な人間が出没するようになってくるんです。そこで楽園の支配者は、このエデンの園の隅っこに小さな収容所を建てざるをえなくなる。そして時がたつにつれて、この収容所はますます大きく完璧なものになり、楽園のほうはどんどん小さく、貧弱になる。」
 ミラン・クンデラは社会主義の一部の国家に対する批判として言ったんですが、これは北朝鮮の状況にすごいぴったりなので引用しました。
 他者を寛容する都市、ポリフォニーの都市というのは、複数の価値観が同時に存在して、時にはぶつかり合い、ひしめき合っているような都市です。さっき言った不完全都市というのがそれに近いと思うんですが、そういうのが望ましいなあと僕としては思っています。平壌という究極のユートピアというか人工環境を見て、そういう気がします。

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