3 平和的生存権の主体
 平和的生存権の主体は、本来、日本国民だけでなく、全世界の国民である。憲法前文第2段は、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する。」と規定しているからである。
 しかし、全世界の国民が「ひとしく」平和的生存権の享有主体であるといっても、属地主義が支配する今日、平和に生きる権利を保障するために手段は、国ごとに異なっており一様ではない。
 諸外国では現在、その圧倒的多数が軍備・軍隊によって、平和に生きる権利を維持し実現しようとしているのに対して、日本国民は非武装によって、この権利を維持し、実現しようとしたのである。この意味で「平和に生きる権利」の「平和」とは、武装の産むに関してはその実現方法が異なることになる。ところで、日本国民にとって平和的生存権は、「一方では国際関係の側面--対外的方向から見る場合、民族、全体としての国民を主体とする基本権である。・・・中略・・・日本の国家主権の執行が国民の平和的生存権を侵害しないように行われることを要請するのである。他方、対内的側面から見る限り、平和的生存権は国民の人権としての性質を持つといわなければならない。」(景山日出弥・憲法の基礎理論207頁から208頁)と述べているように、対外的には民族、国民全体の基礎権、対内的には、国民個々人の人権としての性質を持つのである。
 その意味で、日本国民及び日本に居住する外国人は、正に、平和的生存権の主体となるのである。なお、ここにいう外国人は無国籍人も含まれる。

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4 平和的生存権の内容
 平和的生存権は、前述の如く、憲法の平和主義の客観的制度の側面を憲法第2章、9条の戦争放棄・軍備不保持の規定によって保障し、主観的権利の側面を憲法前文と第3章の平和に徹した諸々の基本的人権によって保障するものである。したあgって、平和的生存権は、平和の状態を前提として、

  1. 平和の下で自由に生きる権利(平和的自由権)、
  2. 平和の下で平等に生きる権利(平和的平等権)、
  3. 平和の下で豊かに生きる権利(平和的社会権)
  4. 公権力に非軍事的方法による平和状態を求める権利(平和請求権)、
  5. 公権力による対内外の平和侵害に対する国民の非暴力によって抵抗する権利(平和侵害抵抗権)

から構成される基本的人権であると解釈することができる。
 この権利の具体化の一例としての訴訟で主張している「加害者とならない権利」「殺されない権利」も当然認められるできものと考えられる。
 また、憲法9条は、日本が戦争の当事者になること禁止している。したがって、9条は、国際法上の中立義務に違反して交戦国と見られるような立場に日本政府が立つことも禁止していることになる。
 このような平和的生存権の性格については、「目的においても手段においても平和に徹し、国際的・国内的次元にまたがり、客観的制度的・主観的権利の両側面の保障があり、外延に政治的規範をもち、中核に法(裁判)規範を含む、日本国憲法の諸基本的人権の包括的総体」(深瀬忠一・「長沼判決をめぐる平和憲法の理想と現実」ジュリスト549号33頁)であるということができる。

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5 平和的生存権侵害の要件及び効果
 前述のとおり日本国民を主体とする平和的生存権は、憲法上確かな根拠が認められている以上、その内容が明確でないとして、これの裁判規範性を否定することはできず、そうすることは逆に憲法を無視し・曲解する態度といわざるを得ない。
 平和的生存権は、その享有主体である日本国民等が、平和のうちに生きる権利、人を公権力によっても殺さない、殺すことを許さない権利であり、いわば人間を人間たらしめる権利である。そして、戦争こそこうした人権を暴力的に破壊するものであことからすれば、世界第3位ともいわれている軍備をもって、自衛隊がイラクへ派兵されたことにより将来回復不可能な損害を生じる危険が高くなる。
 このような平和的生存権の侵害とその場合救済について
「これらが基本権の侵害である以上当然のことながら、侵害の回復または阻止、場合によっては予防の目的で、救済手段が平和的生存権の手続き的保障として肯定されることが必要である。
 このような意味を持つ平和的生存権が憲法における平和の原理音重要な構成部分であることは明らかであるって、疑問の余地を持たない。」
(景山日出弥・憲法の基礎理論208頁)ということができるのである。

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6 判例の評価
 被告は、平和的生存権の権利性について否定的判断を示した判例を挙げて「平和的生存権及び幸福追求権は、いずれも国民個々人に保障された具体的な権利とは言えない」というが、被告国は、平和的生存権についての最も重要な判例である長沼訴訟一審判決(札幌地裁1973年9月7日判決)を無視している。この判決は平和的生存権に関して、次の通り判示している。
 「前文第2項は、前記した平和主義の、規定に続けて、『全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する』ことを明記している。
 これは、この平和的生存権が世界の国民に共通する基本的人権そのものであることを宣言するものである。そしてそれは、単に国家が、その政策として平和主義を掲げた結果、国民が平和のうちに生存しうるといって消極的な反射的利益をい意味するものではなく、むしうろ、積極的に、わが国の国民のみならず、世界各国の国民にひとしく平和的生存権を確保するために、国家自らが、平和主義を国家基本原理の一つとして掲げ、そしてまた、平和主義をとること以外に、全世界の諸国民の平和的生存権を確保する道はない、とする根本思想に由来するものといわなければならない。」

 「高射砲施設やこれに併置されるレーダー等の施設基地は一朝有事の際にまず相手国の攻撃の第一目標になるものと認められるから、原告らの平和的生存権は侵害される危険があると言わなければならない。しかも、このような侵害は、いったん事が起きてからではその救済が無意味に帰するか、あるいは著しく困難になることもまた言うまでもないから、結局この点からも原告らには本件保安林指定の解除処分の瑕疵を争い、その取り消しを求める法律上の利益がある。」
 この判決は、日本国憲法史上初めて平和的生存権の存在を明確に認めており、その歴史的意味は非常に大きいものである。その意味で、この判決は平和憲法の金字塔と評価され、マスコミは「憲法精神に忠実」、「司法の独立と健在を示す」と言って積極的に評価したことは周知の通りである。

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 残念ながら、この判決は、上級審で正しい判決が覆された。
 この上級審での判決には、まず、第一に憲法前文に「平和のうちに生存する権利」が採り入れられるに至った理由やその根本思想について全く無知であり第二に、前文第二段、「平和をわが国の政治における指導理念とし、国政の方針としている」ということは一面において正しいと言いうるが、そのことは必ずしも第二段にある「平和のうちに生存する権利」の裁判規範性を否定するといった杜撰な判断をしているばかりか、第三に国民主権や代表民主制が絶対的な法的拘束力をもつのに対して、判決は、「平和のうちに生存する権利」が何故にそのような拘束力をもちえていないのか、その具体的な説明は全くしておらず、独断と偏見に満ちているからである。さらに第四に、人権と平和主義の関係及び前文、第9条、13条の各解釈とそれらの一体性に関する理解が根本的に誤っているからである。
 このように長沼2審判決は、致命的な欠陥がある問題判決に過ぎない。
 また、被告国は、引用した百里基地訴訟最高裁判決(最高裁平成元年6月20日第三小法廷)のうち、特に「上告人らが平和主義ないし平和的生存権として主張する平和とは、理念ないし目的としての抽象的概念であって、それ自体が独立して、愚痴的訴訟において私法上の行為の効力の判断基準になるものとは言えず」をもって、平和的生存権の権利性を否定している。
 しかし、被告国が引用する風bんは、この訴訟で問題となっている平和的生存権の権利性を直接否定したものではなく、その判決の全体から見ると、憲法9条の私人間の直接適用、あるいは、平和的生存権が、憲法第9条とは独立して私法上の行為の効力判断基準にはならない、ということが述べられているにすぎないのである。
 したがって、これをもって、直ちに原告が主張する平和的生存権の権利性を、最高裁判例が否定しているとはいえないのである。

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イラク派兵違憲訴訟の会・東京
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