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戦争が終わって60年
今もなお傷つけられる人々と出会って

第3回集会 2005年7月9日
海南友子(ドキュメンタリー作家)

会場の様子 こんにちは。いまご紹介をいただいた、海南と申します。自己紹介だけさせていただいて、あとちょっとビデオを見ていただけたらと思います。

 いま使い込みとかでいろいろ問題になっておりますNHKに7年ほどいまして、報道局でディレクターをしておりました。5年ぐらい前に辞めまして独立して、なかなか大きなメディアでは、とくにテレビでは扱わないようなテーマを中心に、自主制作でドキュメンタリーをやっております。

 お手元にあるのは、今日お話をさせていただく作品「にがい涙の大地から」のお知らせのチラシです。これの前に1本、インドネシアの慰安婦のおばあちゃま、日本軍の性奴隷のおばあちゃまの作品を作って、いろいろなところで上映しました。「にがい涙の大地から」は去年の8月に完成して、毎週末どこかに呼んでいただいている状態で、100回以上上映しています。

 扱っている問題は、日本と中国という、たいへんいま関係が悪くなっている2つの国の間に横たわっている、過去から今に続く戦争の被害、という内容です。たぶんお話だけではなかなか分からないので、本当は87分あるんですけども、今日は20分の短縮バージョンだけ持って参りましたので、見ていただいてからもう少し詳しくお話をさせていただこうかと思います。

「にがい涙の大地から」短縮版を上映

リウ・ミンとの出会い
 いま見ていただいたようなのを「遺棄兵器」、日本軍が中国に遺棄してきた遺棄兵器と裁判とかでは言っています。この遺棄兵器の問題は実はいま日中間が仲が悪くなっている、いくつかある原因の中のひとつというふうに私は思っています。中国のメディアでもそう言われています。

 もともとこういう問題に関心があったわけではなくて、実は2年前に中国を旅行した時にリウ・ミンという若い女性に会いました。それまでもテレビ局に勤めていたときに、日本の過去の戦争の被害者もしくは加害者には、それなりに会ったことはあったんです。例えば被爆者の方とか、沖縄戦の生存者の方とか、元日本軍の慰安婦であったお婆ちゃま、旧日本軍の兵士。いろんな方に会ってはいたんですけども、それまでにお目にかかった方は皆さん若くても60代、大半の方は本当にもう70台80台っていう、人生の終盤を迎えた方たちばっかりだったんです。リウ・ミンの場合には会ったとき27歳で、私より歳が若かった。彼女のお父さんも遺棄兵器の被害で亡くなったとき39歳って聞きまして、それまで自分が知っていた、もしくは本とかで読んで思っていた戦争被害者と、まったく年代が違う被害者だったんです。

 そういう問題があるということ自体、きちんと自分が把握していなかったこともあって、たいへん強い興味を引かれたので、リウ・ミンに頼んで「ちょっと家に遊びに行ってもいいですか」と言って遊びに行きました。リウ・ミン自身もすごく暗くて重い、感じの悪い女の子だったんですけども、家に行ってお母さんから話を聞くと、4時間ぐらい泣かれてしまいまして。彼らは裁判をやってるので、日本人の弁護士には話をしたことがあるんです。でも日本人が家まで来て話をするのは初めての経験だったみたいで、とにかく話し出したら止まらなくなって。食堂の仕事があるんで本当は抜けられないんですけども、とにかくあっという間に4時間、という感じでした。

 すごく激しい感情で、それは日本人に対する怒りとかっていうことよりは、自分の夫がどういうふうに死んでいったか、あるいは殺されたかってことを語り出したら止まらなくなってしまって。両手両足が吹き飛んで、全身が火傷で、たいへん苦しかったということ。それから自分がお金が払えなくて病院から背負って出てきてしまったことで、翌日夫が死んだんじゃないかという自責の念を含めて、すごく激しい感情に出会いました。

海南友子氏 私はひとつ前に慰安婦の作品を撮っていたので、日本軍の問題を続けるのは個人的にはもういいかなと思っていたんですけれども、目の前に出会った人々に、「あ、分かりました、勉強になりました、ありがとうございました」って言って帰っていい問題じゃないというふうに思ったんですね。友人と2人で聞いたんですけれども、まあ何ができるのかちょっと分からないけれども、何かこの問題に関して自分でできることを考えようって言って、日本に帰ったんです。

 私はお金もたくさん持っているわけじゃないですし、弁護士とか科学者でもないので、被害に対して直接何かすることはなかなかできない。でも私のようにわりと日本の過去の戦争に関心があった人間でも、ほとんど知らなかった話だということは、私の友人とかはたぶん全く知らないんじゃないかと思って。帰ってきてから、新聞などをリサーチしたんです。もちろん記事はないわけではないんですけれども、詳細な記事が継続的に出ているという状態じゃなかったので、とりあえずこの事実をちゃんと日本の方に分かってもらえる何か手段を考えなくちゃと思って、取材を始めました。それが2年ぐらい前です。

 はじめはリウ・ミンという女の子の一家を主人公にしたストーリーを作ろうと思っていたんですけれども、どうもリサーチを4ヶ月ぐらいしてみると、いわゆる遺棄兵器で殺されている方、戦後に事故に遭っている方は1人や2人じゃなくて、数千人単位でいるということが分かった。それから、捨てられてた兵器の中のかなりの部分が毒ガス兵器、今風に言ったら大量破壊兵器だということが、後から分かってきたんです。

 これはリウ・ミン一家の話じゃ駄目だなと思って。いま見ていただいた短縮版には2人の被害者しか出て来ないんですけれども、本編の方には4人ほど少し厚めに取材をした方が出ています。ロケの最中には結局トータルで60人ぐらいの被害者に会いまして、いろんなお話を聞かしてもらいました。
毒ガス弾はなぜ遺棄されたか
 お手元に「『毒ガス弾』を発見したら」というパンフレットが配られていると思うんですけれども、これは環境省が去年作ったパンフレットのコピーです。

 開くと、右下に「旧日本軍の毒ガスの種類」という表があるのが分かりますか。これを見ると名称が「きい剤」「あか剤」「みどり剤」「あお剤」「ちゃ剤」「しろ剤」というふうにあります。これはべつに毒ガスの色が黄色いとか赤いわけじゃなくて、外側の砲弾に目印が付いてるんです。1センチ幅ぐらいの線が入ってまして、その色が黄色とか赤なんで「きい剤」「あか剤」って言うんです。

 もちろん中には致死性の低いものもあって、例えば「みどり剤」とか「あか剤」は、昔学生運動のデモとかに警察から催涙弾を投げられましたけれども、ああいう種類のものなんですね。ただ毒性が強いのはびらん剤の「きい剤」とか青酸ガスの「ちゃ剤」で、これが現在もかなり強い力を持っています。旧日本軍はこういう、かなりの猛毒を使用して毒ガス製造をやっていました。

 第一次世界大戦でまず化学兵器が相当使われまして、ヨーロッパでは被害者がいっぱい出たんですね。それでその反省から1926年にジュネーブ議定書というのが作られまして、化学兵器は全面的に禁止という約束ごとができたんです。ところが日本軍は化学兵器にたいへん興味を持ちまして、禁止になった後の1929年から化学兵器の製造に取りかかっています。とにかく秘密裏に製造しようということで、生産工場などを作っても地図から消してしまって、そこにそういうものが存在しないというふうに見せかけたり、すべての行為をみんな秘密に秘密にやってきました。1931年に広島に大きな毒ガス工場を作りまして、そこから大量生産が始まるんですね。この年に満州事変が起きて、このあたりから大陸にもたくさん毒ガス弾を持ち込んで、実戦でかなり大量に使います。それが45年まで続いています。

 なぜ遺棄兵器が今もたくさん残されているかというと、45年の敗戦の時に、他の戦争関係の資料も一緒ですけれども、問題のあるものはどんどん焼却したり廃棄したりしております。その際に毒ガスも、そもそも国際的に禁止されていたものなので、ばれてはいけないと組織的に投棄をしてきてるんですね。戦争ですから部隊は通常兵器の砲弾とかもたくさん持っていたんですが、それはそのまま置きっぱなし。倉庫の中から黄色い印とか赤い印の毒ガス兵器だけ抜いて捨てなさいという命令が出まして、それに基づいて徹夜で、ソ連軍が入ってくる直前ぐらいに、旧「満州」の地域で組織的に投棄をしてきています。

 731部隊の他にも516部隊とか526部隊という化学部隊があるんですけども、そこを中心に、もしくは各部隊が持っていた化学兵器を、野原や山に捨てて来る。あるいは井戸に投げ込んで見えなくして帰って来るということを、当時やっています。この状態が今も続いていまして、現在日本政府が認めてるだけでも70万発、毒ガスが残っています。これは内閣府が発表している数字なんですけれども。
毒ガス被害とはどういうことか
映像 ちょっと被害者の話をしたいんですが、だいたい事故が起きると直後は、さわったところがお饅頭みたいに、もしくは野球のボールぐらいの大きさに膨らむんですね。手が触った方は手。日本軍が捨てる時に砲弾に入れて捨てているタイプと、ドラム缶の中に液体だけ原液を入れて捨てているタイプがあって、そのドラム缶を抱えてしまって、お腹が膨れちゃったりとか。もしくはそのドラム缶から出た液体が土にこぼれて、その汚染された土で足を痛めたりとか、いろんなケースがあるんです。とにかく触ったところが大きなお饅頭みたいになります。

 本当に人間が普通に遭うような症状じゃないというか、そこから黄色いドロドロした体液がドクドク出続けて、毒ガスですから治療方法がないので、とにかく皮を剥ぎながら治していくんですね。そういう急性症状が3ヶ月から半年ぐらい続きます。症状が一段落してくると、今度は全身に回った毒がさまざまな箇所に後遺症を出し始めます。神経がたいへん弱くなりまして、いつも脅迫されているような、追いつめられているような感じ。とにかく気力がなくなってしまうので、廃人状態っていうんですか、家でぐったりしているような方たちがたいへん多かったです。

 事故から1年とか2年以内は、自分の家が例えば2階にあったとして、階段がもう上がれないんですね。なので被害者の方で2階に住んでいたんだけども1階に家を替えたとか、そういうケースもたくさんありました。

 体の粘膜に毒の影響が出るので、目とか脇の下とかリンパ腺のあるところにすごく影響が出ます。目が悪くなった方は晴れた日には本当に外を歩けないぐらい、痛みがあると言っていて。脇の下のリンパ線は、乳房がもうひとつできたような、膨らんでグチャグチャになっていたり。腿の付け根もそうですね。内臓もその影響を受けて、とにかくすごく後遺症が多岐にわたるんですね。

 もうひとつ特徴的なのが生殖機能なんですけれども、例えば男性の場合ですと陰嚢のところから、ドロドロした気持ち悪い液体がずうっと流れ出てる状態で、まず勃起できなくなる、セックスができなくなります。女性の場合は膣とか外陰部が破れたような状態に常になってしまうので、やはり性行為ができなくなってしまって。全員ではないんですが大半の方が生殖機能を失っています。

 ですから神経が壊されて内臓や外見も悪くなり、なおかつ生殖機能もなくなるということで、ご本人ももちろん苦しいですし、ご家族も含めて、精神的にも肉体的にも追いつめられる状態になっていくという感じでした。

 中国では、かつては共産主義で医療費はほぼタダに近かったんですが、この10年の経済発展の影響で、残念ながら教育とか医療費がたいへんお金がかかるようになっています。ふつう日本だと国民健康保険があって、みんな3割負担とかなんですけども、中国の保険は職場単位なんですね。ですから大きな会社に勤めていれば保険があるんですけども、だいたい事故に遭うのは工事現場の日雇い労働の方とか、そういう方が多いので、そういう方は保険がないんです。

 そうしますといったん事故に遭うと、死ぬまで治らない被害を抱えながら、自分の負担で医療費をまかなわなければならない。いったん躓いてしまうと本当に悪い下り坂をずっとグルグル落っこちて行くという感じです。親戚からも全部お金を借り倒して返せなくて、自殺をした方もいますし、家族が壊れてしまったりとかいうのがたくさんありました。

 被害者にはやっぱり子供がたいへん多いんです。大人でしたらそれまで砲弾を見たことがなくても、何となく出てきたものが変な格好だと思ったら触らなかったりできると思うんですね。だけど子供は分からないですし、中国ではクズ鉄を売るとちょっとお金になるんです。なので山に金属があるとみんな拾ってきてそれを売るために、もしくは遊ぶために使ったりする。
 私が会った被害者の中でいちばん小さいのは7歳ぐらいの女の子でした。髪の毛を両側でギュッと縛っているような、本当に普通の小学校の1年生とか2年生ぐらいの女の子。その子はたまたま家の前の道で土遊びをしていて、たまたま家の近所のマンションの工事現場から毒ガスの液が出てしまった。症状が出るまでに1日ぐらいかかるんです。朝4時に事故が起きて、そのまま毒ガスが何だか分からないでみんな触ったりしていて、結果的にその日のうちに50人近い方がかなりひどい症状になってしまって。その女の子も住んでいた家の前の道にその汚染された土がたまたま運ばれてきてしまって、本当に偶然なんですが、怪我をしてしまって。そういう子供がこれから生理が本当に来るのかとか、神経がちゃんと発達するのかとか、そういうことも含めて本当にまだ未知の状況なんです。

 中国はお子さん1人しかいないので、子供がそういう状態になると本当に親も苦しいです。子供がいっぱいいれば1人ぐらい変なふうになってもいいということじゃないんですが、やっぱり1人ですから、よけい親の心の負担とかもたいへん大きくなって、苦しんでいらっしゃいました。

 最近どうしてこういう事故が続いているかというと、やはり中国の経済発展が関係があるんですね。つい先々週も広州で新しく毒ガスの事故が起きているんですけれども、50年間ぐらい農地で何もなかったところです。日本軍も捨てるときに危ないぐらい分かっていますので、いちおう決まりを作って、土の中に3メートルとか5メートル、場合によっては10メートルぐらい穴を掘って埋めなさいというふうにしているんですね。ふつう農業で掘る分には5メートルまでは掘らないので。ところが、最近経済発展によってビルを建てますので、工事現場でたくさん事故が起きるという状況になっています。

 とくに工事現場ですと、昔だと手で、クワで掘ってるので、砲弾とか出てきてもすぐ対応しますが、今はユンボなどの重機でガンガン掘るので、どんなに頑丈なドラム缶もガシャンとやったら終わりなんです。そこから気持ち悪い黒い液体がドロドロ出てきて、一見油のように見えるそうですね。なので廃油かな、と思って処理しているうちに、そこにいたすべての方たちが被害に遭ってしまうという形でした。

 2年前に黒竜江省のチチハルというところで起きた事故は、日本でもけっこう大きく報道されましたが、1人が亡くなって43人が深刻な被害に遭いました。その事故現場に私も行ったんですけれども、本当に普通の町中です。チチハル市は人口150万人ぐらいですから、日本でいうと福岡ぐらいの都会なんですね。町の中心部には高層ビルが建っていて、回転レストランがぐるぐる回っているような、けっこう近代化したところです。その中心部から歩いて10分しないところ、高級マンションの敷地内から毒ガスが出てきてしまった。本当に日常生活と毒ガスが隣り合わせの状態にあるっていう現実を見ました。

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