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女子供文化は差別と戦争を許さない

第2回集会 2005年6月18日
荷宮和子(女子供文化評論家)

会場にて 荷宮和子です。よろしくお願いします。一人でしゃべることはめったになくて、シンポジウムとかに出ることはたまにありますけど、それもあまり多くないんで、とりあえずレジメをいっぱい用意すればどうにかなるだろうという感じで、用意しました。このレジメを話したらどれくらいの時間になるのか、さっぱり見当がついていないんで、どこまで行くのか分かりませんけれども、よろしくお願いします。

 平権懇さんの前回の集会の報告を送っていただいて、読ませていただきました。まことにまっとうな、まず憲法とは、というところから始まって、大学のころを思い出すような、なんとか事件とかなんとか判決みたいなのがいっぱい書かれているんで、もう私はそういうことは全部すっ飛ばして、私の守備範囲の中で、この平権懇さんの活動とリンクする部分をお話しさせていただきます。

 「女子供文化は差別と戦争を許さない」というのは平権懇さんの方から提示されたタイトルでした。そんなん考えたことないし、とか思ってたんですけど、そういうタイトルの本を書き下ろすのやったらどういう目次を作るかなあ、というスタンスで作ってみました。
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なぜ「大人男」は「差別」と「戦争」を許すのか
 世の中の趨勢としては、「差別も戦争もしょうがないじゃん」というふうにいま動いているから、わざわざこういう会を開いているわけですね。

 私はやっぱり女ですし、『なぜフェミニズムは没落したのか』というのを中公新書ラクレから出したのが最近著なんで、世間の人から見たら、ああフェミニストですね、ということになります。均等法ができる前から就職していた、そういう世代の女ですので、「だから男ってやつは」みたいなスタンスでものを書くことが多いです。

 その場合の「男」っていうのは、たとえば世の中の大勢を左右して、マスコミを牛耳ってて、マジョリティと呼ばれている人。要するに「普通の人は」とか「人間というものは」みたいな感じで普通に文章を作るときに、イコール「男とは」っていうのがほとんどですよね、世の中に流通している言葉というのは。

 私は今日も「男とは」とずっと言うと思いますけど、こんな所にわざわざ来られている方は、それには当てはまらない人だということは十分分かっているんです。そういう意味では普通の、偏見を持っていて、「差別とか戦争とかはしょうがないじゃん」って言ってる、「女のくせに」と言う、そういう普通の男の人とは違う人たちの集まりだっていうことは分かってるんです。まあ、ここにおられる方は、私が「男っていうやつはこうだから」と言っても、「オレは違う」ときっとみなさん思われると思うんですけど。そういう人たちが集まって、「私は憲法をこうすべきだと思う」「いや、オレもそう思う」なんて言ってても、もう全然らちがあかなくなってるから、こういう会があちこちにある。だから同病相哀れむみたいなことは止めようと思います。

 今日の会はホームページにも紹介していただきました。自分でも見てみて、似たようなものを探してみたら、やっぱりすごいあるわけですよね。差別と戦争は許さないというスタンスで活動されたり、ホームページを作ったりブログされる方がこんなに居る、腐るほどいるのに、影響力がない。世の中ということになったらどうして消えちゃうんだろうと考えるためには、まず現実でどうなっているかを見ないといけないですね。

 たとえば、「死に票を投じたくないマジョリティ」というのは、『アエラ』の改憲についての取材を受けたときに出た話です。記者の人は「アンケートを取れば改憲は良くないという人が過半数はいるんだから、もし法が通っても大丈夫じゃないかなという気がするんですけど」みたいなことをおっしゃる。もし石原慎太郎が再選されていなかったら私も「そうかも知れませんねえ」とか言ったかも知れないですけど、やっぱり石原は再選された。なんでかなと思うと、やっぱり普通の人はどっちでもいいし、どっちかよく分からない。アンケートされた時点では「憲法は変えないほうがいいんじゃないかなあ」という方がちょっと多いぐらいでも、いざ国民投票になったら、そういう人たちは雨が降ったら行かないだろうし、わざわざ行ったらそういう人たちは死に票に入れたくないと思う。

 「オレは絶対共産党に入れる」とかいうのはやっぱり少数で、普通の人は共産党に入れても無駄だし社民党も駄目だし、「じゃあ今回は民主党にしとこうかなあ」ぐらいが、一昨年の選挙の結果だったと思うんですね。

 そういうメンタリティの人たちが、わざわざ「改憲をするかどうか皆さんに聞きます」と言われて投票所まで行ったら、「せっかく来たんだから変えるほうにマル」みたいな、そんなもんだと思うんですよ、普通の人ってのは。よほどちゃんと信念があって知識があって判断力がある人以外は、そういう場でバツはつけられないと思うんです。だから私たちの立場の人間がいましなくちゃいけないのは、憲法改正の法案を潰すっていうのが最大ですね。あれが通ってもみんながバツをつけられれば、そしたら守れるだろうって当てがあったらそれでもいいと思いますけど、たぶんそれは無理だと思います。

 「男ってやつは」というのに付け足しますけど、アメリカのフェミニストは、アメリカには「高学歴・白人・男性システム」があって、そのうえでこれが悪いあれが悪いみたいなことを言ってるわけですね。日本は、「白人」じゃなくて、「高学歴・成人・男性システム」っていうものがあって、大人の男に都合がいいようにああだこうだと言ってるだけだと思うんです。やっぱりメディアっていうのは、女子供というのは面白おかしくとかいう扱いしかしていないんですね。

 そういうことの例で思い出したのは、昭和47年秋場所、私が小学三年生のときに先代の貴乃花と輪島がどっちも関脇で、どっちが先に大関になるかですごい盛り上がっていたことがあるんです。その時に千秋楽に貴乃花と輪島が対決して、勝った方が大関になるんじゃないかみたいな場所があって、取り組み前にNHKが観客にインタビューしてるんですね。「やっぱり勝った方がなるべきだ」「いや両方させてあげたらいい」とか。ちょうどそのとき貴乃花はすごいアイドルで、女のファンの「絶対、貴乃花だけ!」みたいなコメント映像が流れて、それを見た、まだ小学校三年生の私でさえ、テレビというのはこういう絵が欲しいんだなと思った。私はそういううがった見方をする子供だったんですけど。でも普通の小学生女子はそういう見方でテレビを見ないし、ましてや中立な「みなさまのNHK」をそういう見方で見る人はそんなにいないでしょう。それを最近の貴乃花報道を見ていてふっと思い出したんです。まあ、メディアでも私が小学生だった頃よりは女性のスタッフは増えているんでしょうけど、やっぱり何も変わっていないんだろうなというふうに思いました。

 はじめに、私のスタンスを説明させていただきました。
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荷宮的「憲法学」初体験
 私にとって憲法を最初にちゃんと考えたというか、伝えられたのは、高校の政経の時間ですね。ウチの高校はすごい進学校で、3年分のカリキュラムを2年で終わらせてあとは受験のことばかりやる、そういう共学の進学校だったんです。政経の先生も、大手のところから受験用の参考書を出している。その先生が、「政経を共通一次で取るやつはオレの出したこの問題集を買ってやれ、絶対通るから。オレはもう言いたいことだけしゃべるから、聞きたいやつは聞け、興味ないやつは寝てても他のことやっても構わない」とか言う、そういう人だったんですね。

 私は共通一次は倫社だったんで、どうしようかなと思ったけど、とりあえず聞いてみようかという感じで聞いてみました。そしたらその人はすごい一生懸命、なぜ9条ができたのか、9条2項の「前項の目的を達するため」という言葉にどういう意味があるのか、どういう経緯でそうなったのかとか、その時点ではまだ小選挙区制はやられていなかったけど、これをしたらどうなるかとか、1票の格差とか、そういうことをひたすらワーっとやる人だったんですね。

 この人の話は面白いなと毎回聞いて、そのあと私は神戸大学の法学部へ行ったんですけど、まず教養で憲法を取って、それで初めてあの先生の趣味でやってた授業が、国立大学の教養課程の憲法よりもはるかにすごかったということを、初めて知ったんですね。でもそれって、そんな人に出会わないかぎりあり得ないことで。

 憲法をいちばん良く知ってるのは、大学で法学部に入って憲法ゼミに入って、院に行ってという、大学の先生とかその教え子たちですね。その次ぐらいが私のように、憲法ゼミじゃないけど専門で憲法をやった人。その次ぐらいが教員試験を受けるには教養課程の憲法が必修だったから、みたいな人。私は教員資格を取ってないから良く分からないですけど、教員試験を受ける子が、専門の憲法は取ったけど教養の憲法の単位を取ってないから、あわてて取りに行ったりしてました。そういう人だけが教養の憲法のレベルのことはやってみるんだけど、普通はそれもやらないでしょう。やっても教養なんて、試験前にノートをコピーしたらそれで終わりだし。ましてや教養でも憲法を取ってない人は、それ以下の知識しかないはずなんですね。そういう人たちが要するにマジョリティなわけですよ。そんなマジョリティの人たちが今の世の中で、なんとなく雰囲気で「憲法を改正すべきだ」と言っている。

 この「改正」というあたりがやっぱり言葉で嫌らしいですよね。ずるいですね。改「正」かどうかは分からないのに、とりあえず「改正」ということになって、みんなそれに賛成か反対か、みたいな感じで、そういうメディアの報道に流されたり煽られたりして。そのために無知なマジョリティ、無知な大衆が、改憲は必要だ、9条はもう駄目だ、普通の国になるためには今の憲法じゃもう駄目だ、みたいなことを言い出している。それが現実です。

 要するに、なぜ世の中でいま改憲が大勢になっているかと言えば、大衆が無知だからですね。無知では困るということを言ってるわけです。

 『バリバリのハト派』は去年の10月に出したんですけど、「気分はもう改憲」というタイトルで、『連合』っていう雑誌に連載したコラムをまとめたものです。そういうことは単行本で訴えたりはしてるんです。でもやっぱり大衆が無知だからこういうふうになっている、というところまで、まあ無知じゃない護憲派の人たちが一生懸命に護憲を訴えるんだけど、無知な人にいきなりそんな話しても。全然無知な人にこの前回の先生の報告のような話をしても、「ハア?」で終わると思うんですよ。だからそういうふうに同病でやってる部分はちょっとあるなあと思いました。

 この『バリバリのハト派』ですけど、編集者から「女子供文化で反戦論を書き下ろしてほしいんです」と言われました。「ところで私が今まで書いて発表してない、宝塚歌劇とか映画とか漫画とかアニメについてのものがあるんですけど、これってどうでしょう」と見せたんです。「いいですね。もう書き下ろす必要ないですね」ということになった。「どうして最近の漫画映画や映画やアニメは差別とか戦争を肯定しているものばかりなんだ、許せない」みたいな評論ばっかしになってしまって、それをまとめたら簡単に女子供カルチャー反戦論ができてしまったということです。自分でもびっくりしています。単にいろんなものを見てその感想を書いてただけなんですけど。

 いま私の連載の一つに、『母の友』という雑誌があるんですね。基本的には幼稚園とか保育園で定期購読を集めて、申し込んだ人だけに販売するという形の本で、書店ではほとんど売ってないらしいんですけど。子供を育てているお母さんのために、絵本の紹介プラスいろんな生活情報が載っているという雑誌です。で、それに「書評を書いてください」と言われて、私は「絵本知らないし」とか言ったんですけど、「いや、絵本じゃなくてもいいです、お母さんたちは本を読むのが好きなマジメな人たちなんだけど、そういう人たちが読むべきなんだけど気がつかない本を紹介してほしいんです」「ああそうですか」みたいな感じで引き受けました。
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 5月号では『ルポ戦争協力拒否』、岩波新書ですね。本は読むしマジメでも、女の人はやっぱり新書の棚自体に行かないわけですよね。だから岩波でとっつきやすい新書が出てても存在を知らないから、こういう本があるよということから始めようと思いました。その中に、戦争になったらこんなことになっちゃうんだよということで書きました。
「華氏911」という去年のマイケル・ムーアの映画がありましたよね。後半、急に選挙運動映画になっちゃったから、日本ではあの後半、ないほうがもっとヒットしたんじゃないかと思うんですけど。その中でいちばん印象に残ったのは、イラクへ行った人が、「もう招集されても行かない、投獄されても構わない、イラクの人たちを殺したくない」と言っている。いっぺん行って、殺してから気がついちゃうんですね。だからそういう意味ではまだ無知で、行く前に知ってたら殺さずに済んだだろうなと。でも今の日本の普通の人たちも、そういう意味では無知だと思うんですね。

 無知は罪、罪ってことは要するに殺すべきじゃない人を殺しちゃったということで罪でもあるし、自分にも返ってくるというか、自分が困っちゃうんだよって思ったのは、最近、『みんなの憲法24条』という福島瑞穂さんが編集した本、両性平等の規定を変えようという動きに対して反対する人たちの原稿を集めた本があったんです。それを読んでいたら、<子育てが大変で、子育てのせいで退職を迫られてる人が、「超大手企業に勤めていてお金持ちで実家の父母が子供の面倒を見てくれる人しか子供を産んで働き続けることができない」と泣いていた、こんな世の中はひどい>という原稿があったんです。私はこれを見て、「あれっ、そんなこと知らないままに産んじゃったの!?」と。それはちょっとびっくりしましたね。

 要するに、「超大手企業に勤めていてお金持ちで実家の父母が子供の面倒を見てくれる人でないと、働きながらまともに子育てなんかできるわけがないよ」と、産む前からわかっていたからこそ、「じゃあ産むか産まないかを考えよう」というのが、私たちの世代だったわけですけど、今どきの人は考えないというか、それが現実だと知らないらしいんで、「えー、そうなんだー」と。昔をそういう現実をわかった上で、「それでも産みたい」と思った人だけが子供を産んでたんだけど、今はそういう現実を知らないまま子供を産んじゃって、あとで泣くのが現実みたいなんで、そしたら自分が大変だし子供もかわいそうだし。だから、みんな自分がこうしたらこうなっちゃうと、もっともっと知るべきじゃないかなあと思います。その問題は均等法ができて広がった、とも言えます。女にとっての厳しい現実について無知な人ですら就職できちゃうような世の中になって、間口が広くなるのは絶対正しいし喜ばしいことなんだけど、全く無知な人、考えが足りない人があって、子供ができてから後悔して泣いたりするのは、それはまずいんじゃないかと思う。

 例えば私の高校では、それは英語の女の先生でしたけど、「あなたたちは女なんだから、男だったら女のアシスタントにやらせればいいことを自分でやらなくてはいけなくて、男のアシスタントもしなければならなくて、しかも男よりもいい仕事をしないとやっぱり女は駄目だと言われるんだから、あなたたち女は男の3倍仕事ができるようになりなさい」と教えられてきたんですね。それが現実だと、まだ大学受験の前から言われて、だいたいみんな、「ああそうだよな、それが現実だよな、じゃあどうしよう」という感じで。とりあえず無知な状態からは動かずに済んでいたのは、ちゃんと現実を教えてくれる人がいたからです。いまそういうことを女子高生に言う先生って、ちょっといないんじゃないかなあという気がするんですね。

 もう一つ思い出したんだけど、ウチの高校にはOGに樺美智子さんがいるんです。直接教えた先生がまだいて、「ああいうことをやって死んじゃったら元も子もない、バカだとは言わないけど、ああいうやり方は駄目だ、もっと考えなさい」とか。もちろん反対しなきゃいけないことはあるし、反対もするべきなんだけど、ああいうやり方は駄目みたいな、そういうふうだったんですよね。普通、私の同世代だったら樺美智子なんて知らないと思うんですけど、そういうのを私は知ってたんです。だから、いきなり「憲法改悪反対」のデモをしようと言われても、それはちょっと、というのが私の中にはあります。

 そのへんの体験は、高校のときにちょっと変な先生たちに囲まれていたということですね。
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私の愛した宝塚歌劇
荷宮氏 私が小学校6年生のときに宝塚歌劇の「ベルサイユのばら」のブームというのがありまして、神戸の阪急沿線に住んでましたから宝塚まで見に行って、そしたら「ベルばら」に限らず面白いことをいっぱいやってるところだということが分かって、それで「ベルばら」ブームが去ったあともずっと宝塚ファンを続けています。

 今日のテーマにふさわしい宝塚歌劇を思い返してみたら、例えば「追憶のバルセロナ」というのが5年くらい前にありました。それは確かフランスとスペインの戦争の話で、スペイン人の貴族がフランスに占領されかけた時に、主人公は「スペイン貴族としての誇りを守るために戦って死のう」みたいなことを言うんだけれども、それを主人公の親友のアントニオが、「国とは人ではないのか!? 人が集まればそれが国になるんだ、生き延びてさえすれば…」と説得して、「反政府運動をするための力を蓄えろ」みたいなところで終わるんですけど。

 「国とは人ではないのか!?」みたいなことが、普通に宝塚歌劇に出て来る、それは30年以上前からそうだったから、それが私のスタンスになって。そうじゃない価値観も世の中にはあって、実は男の人は結構そっちの方が好きでとか、そういうことも知らない小学生のときから、わりとそういう価値観のものを見てたんですね。それは正塚晴彦という人の演出です。

 同じ正塚に「ロマノフの宝石」という作品があって、それは架空の国が舞台です。そこは軍事政権下で、将校たちの相手をしているコールガールがヒロイン。ヒロインと愛し合っている盗賊オスカーが主人公で、「こんな国はいけないんじゃないか」と悩んでいる軍人ベルガー大尉が準主役で、というお話なんですけど。そのベルガー大尉に、オスカーが、ヒロインを助けるために協力してくれと言うと、ベルガー大尉が「祖国を裏切れというのか」、オスカー「間違いを犯しているときにはな。祖国のためにも、人間であるためにも、今は必要なことなんじゃないのか」。けっこうカッコいい役で、ベルガー大尉萌え! みたいな感じで見てたんですけど。そういう形でカッコいい人が宝塚では出て来るんですね。だから宝塚のヒーローはそんな感じだと思ってたんです。だけど、それは宝塚だからそうなんであって、宝塚っていうのは特別なんだということを、小学生ぐらいの時には知らなかった。

 いま青年漫画とかではかなり戦争を描いた近未来ものとか、歴史ものとかがありますけど、そういうのってやっぱり人ではなくて国が大事とか、祖国が間違っていても国に殉じるとか、それがカッコいいみたいな価値観で生きている、それなりの地位と生まれの男の人が出て来る漫画が多いですね。

 宝塚にもそれなりに地位が高い男の人が出て来る話はありますけど、それはほんとに時代劇で、いかにもヒーローな人が出るんですけど、現代を舞台にしたりすると、そういうのってあんまり見あたらないですね。かつては一世を風靡したけど今は売れなくて悩んでいる歌手とか、若いときに文学賞に応募して賞を取ったけど、最近は仕事がなくてという小説家とか、仕事をクビになってしょうがないからコンビニで働いているお兄ちゃんとか、そういうのが主人公なのが宝塚でいう現代劇です。つまり、宝塚の現代劇のヒーローは、青年漫画ではあり得ないヒーロー、アンチ・ヒーローというか、こんなに駄目なボク、という感じですけど。

 とにかくカッコいいヒーローとしては、男向きのメディアでは、生まれが良くて才能があって地位を手に入れた人が活躍するのが流行りだし。「戦場のローレライ」を初めとする軍事もの、戦記ものというのは、密かに水面下ではずっと人気があったんですよね。でもそれはこういう出版社でこういう棚と、日陰の身だったのが、最近ではもうメジャーな出版社のメジャーな文庫で、本屋にドーンと平積みっていうのが普通ですね。あの価値観でいいんだということになっちゃったのが、やはり今の日本の嫌なところだと思います。
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 宝塚の特殊性ということで、「ウエストサイドストーリー」も挙げてみました。映画にもなりましたし、劇団四季でもやりましたけど、宝塚のは知らない人が多いと思います。あれはプエルトリコの人たちとプア・ホワイトの人たちの人種差別があって起きた悲劇ですね。「ロミオとジュリエット」の話を置き換えて作ったお話、人種差別さえなかったらこんなことにはならなかったのに、というお話だったんですけど。

 宝塚版だと、もちろんそういうコンセプトは出てるんですけど、それ以上に、ジェット団の男たちがシャーク団のリーダーの女をレイプしようとして、最後の悲劇につながっていくところが、ものすごくリアルで。なにしろ女同士ですから、女役を男役が大勢で押さえつけて足を開かせて服をまくりあげて、っていうレイプシーンを遠慮なしにやっちゃうんで。舞台で演じている女役の人たちが、観客の目の前で実際にボロボロ泣いている、そういうのを見て、それで最後はトニーが死んでいくのを見てたら、要は、男が女にああせこうせいと言って、女がそれに従うか逆らうか、でもめて、結局、男女差別があったからこそこうなった、と。もしプエルトリコと白人との差別のない世の中ができても、男がいて女がいる限りこの手の悲劇はなくならないんだ、という主張が根底に感じられた劇なんです。宝塚歌劇を見に来たのにレイプシーンなんか見たくないというヅカファンもいますし、それは女の客として正常な反応だと思いますけど、やってる側ではこれはどうしても見てもらいたいという確信を持ってやってましたね。

 宝塚で主役をやった女の人と、劇団四季で主役をやった男の人とが対談することがあったんです。で、宝塚の人が、「たかが子供同士のケンカでなぜこんなにこじれちゃうんだろう、やってて不思議なんですけど」みたいなことを言うと、「男にはそういう時期があるんだ、衝動をどうしても抑えられない時期があって、それはいずれ収まるんだけど、主人公が仲間より一足早くその時期を脱しちゃったから、ああいう騒動が起こった」と男の役者が言う。

 「だって男ってそういうものなんだから仕方ないじゃん」と、男が屈託なく自分の悪いところを肯定する場面は、良くあることですよね。女の方は、男がやる悪いこと自体も許せないけど、「だって仕方ないじゃん」「ボクはしないけどそういう人がいるのは肯定する」という、男のその態度こそが許せないんですね。「もうちょっと後ろめたく思えよ」と。男に生まれただけでもう、「なんて自分は駄目な人間なんだ」と落ち込んで自殺したくなるぐらいのことがあればいいのに。女の人はもう、女なんかに生まれてきたせいで、「生まれてきたこと自体が嫌だ」という人が少なくないと思うんですけど、男の人はまずは女に迷惑をかけておいて、しかも迷惑をかけたことを「しょうがないじゃん」ですませてしまって、全然後ろめたく感じない。だから嫌なんですね。

 そういう感じで宝塚ではいろんなことをやってます。さっき売れなくなった歌手が悩む話とか言いましたけど、それが5年ぐらい前の「LUNA」っていう作品です。この作品の演出家・小池修一郎はその時流行っているものを取り込んで、楽しいミュージカルに仕上げる器用な人です。インターネットとか情報産業を仕切って、ICカードで人間を管理して世界を支配していこう、洗脳しようとしている大企業の、いま思えばあれはホリエモンみたいな人が敵役で、それをヒーローがやっつけるみたいな話です。個々のエピソードは新聞とか読めば出て来るけど、それを統括する元ネタみたいなのはどこから持ってきたんだろうと思ってたんですよ。そしたら最近『カルト資本主義』っていう斎藤貴男さんの本を読んでたら、ああこれかあ、みたいな感じでした。階層化とかプライバシーの侵害とか、政府による管理社会化を否定する、そういうのを肯定する側を敵役にしてやっつけるみたいな話を宝塚ではやってて、宝塚ではそれが普通だったんです。とくに斬新とか異色作では全然なかった。

 それが去年、「スサノオ」っていう作品があったんですね。ビジュアル的にはカッコいいスサノオがイナダヒメを助けてヤマタノオロチを退治するというお話です。演出家の木村信司はアメリカに留学したときに何かあったんでしょうね、国粋主義者になっちゃって、スサノオは自衛隊で、敵のアオセトナが北朝鮮で、ヤマタノオロチがテポドンで、捕まったお姫様が拉致被害者でいまは喜び組にされている、というお話なんです。

 なんなんだろうと、見て呆然としてしまって。この演出家は何を考えているのかと思って。ファン全員の意見を聞くわけにはいかないけど、ネットで人気のある宝塚サイトの掲示板を見てみたら、3分の1ぐらいは、なんじゃこりゃと怒っている人たちがいるんです。あと3分の1ぐらいは、「○○ちゃんかっこいい!」、オワリ、で、残りの3分の1ぐらいは、「こういう社会的現実もテーマに取り組むのもいいじゃないですか」みたいに肯定している。「北朝鮮を自衛隊でやっつけちゃえ」ということ自体を肯定しているわけではないんですけど。「価値観は人それぞれなんだし、そういう価値観を持った作家さんが宝塚にいるのもありなんじゃないですか」みたいな、変に大人の対応をして、受け入れている。自分のスタンスをはっきりさせた上で、他の人のスタンスをどうこうというのは、すごい大人気なくてみっともない、頭の悪い人の振る舞いだと思いこんでいるんですよ。だから、偏向した作品に対して素直に怒っちゃう人よりも、静観出来る自分の方が、知的レベルが上である、と。昔から、男にはこういった態度を取る人が少なくなかったわけですけど、今では、女の人までそうなる人が増えちゃったんだなあと思いました。しかも、ネットができたせいで、そういう人たちが発言する場までできてしまったんだなと思うんです。

 そういうことを思わせてくれたということで、スサノオはある意味で記念碑的な、もし将来本当の戦争が起きたら、前の戦争のときは宝塚は一生懸命に解散しなくて済むように国策に連動して協力したし、なんとか生き延びられたけど、今度戦争が起きたら多分宝塚は潰れると思うんで、そうなった時は、そうなっちゃったきっかけの一つ、「それはスサノオから始まりましたね」とはっきり言えるくらいに困った作品です。

 「私の愛した」と過去形にしたのは、そういうことです。
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