「平和に生きる権利」の考察 |
- 今日の中でどっかに入れてくださいと言われたんで、じゃあどこに入れようかと思って、とりあえずここに入れてみました。
「千年の京から『憲法九条』」は『母の友』の今度の号に書いたものです。国を守るためには戦争は避けられない、だから自衛隊がいる、憲法は変えるべきだというのがいまの大勢です。それに反対するためにどんな言い方があるかの一つに「平和に生きる権利」があるというのが平権懇さん。
この本は鶴見俊輔さんと瀬戸内寂聴さんの、「人を殺していいとか戦争をしてもいいとか、一般の民衆のなかにはそういう価値はないんです」、という対談です。「人を殺していいとか戦争をしてもいい」っていうのは、為政者というか仕切る側、指図する側、結局は、自分は殺すことも殺されることもない側の価値観である。けど、そうじゃない人は、いや、私は殺したくありません、戦争したくありませんと言えばいいんだし、思っていることは言うべきだし、それを言うために国会の前で座り込みをして心中しちゃいたいとかいう、そういう対談なんですね。それを皆さん読んでくださいみたいに紹介しました。
それが「平和に生きる権利」の一つの根っこにある。殺したくないという素朴な本音であると思いますね。
女が戦争に反対する理由ですけど、このまえシロタ・ゴードンさんの映画、『ベアテの贈り物』を岩波ホールで見たんです。女の人は戦争に賛成はしないよ、と。「女性の方が平和的だ、それはたぶん女性は子供を産むからではないでしょうかね」という、そういう映画だったんですけどね。このベアテさんの結論は、ちょっと違うなと思います。子供を産むから、子供を育てる側だからというより以前のことがあると思うんですね。子供なんかいないし、産みたくもないしとかいう人もいると思うんです。
そんなことは置いといて、それでも女の人が戦争に反対というのは、例えば男の人だったらついかっとなって人を殴り殺してしまうことが出来ちゃうんだけども、うらやましいなと思いながら、女の人は人を殺したいと思っても殺す能力がないから、だから殺されるのに反対するんです。あまり良識のある女の人は、そういうこと思いもしないみたいだし、思っても「口に出すのはやっぱりちょっとね」というのがあるだろうし、男の人には全然分からない発想だと思うんですけど、言っておきたいと思います。平権懇さんみたいなのが、普通の女の人の協力が得られないのは、なにかそういう殺す能力がない恨み辛みとかが分からない人たちによって運動が行われているからではないかなって思います。
「フォース」ではなく「理力」を。「スターウォーズ」ですね。敵をやっつけるための力を、このごろ公開されている新作では字幕自体が「フォース」になってるみたいですけど、私がまだ子供だったときに初めて「スターウォーズ」を見たときには「理力」と訳されてました。わけが分からないような、でもすごく分かるような、今思うと、とてもいい訳だったなと思います。カタカナで「フォース」と字幕にされるよりは「理力」のほうが、ああ、オビワン・ケノービーはルーク・スカイウォーカーにこういうことを教えたかったのか、というのがすごく良く分かるわけです。
「フォース」を「理力」と訳すのはすごくいい訳だと思うんですけど、「権利」を権力の権と利益の利にしてしまったのは大失敗だと、最近複数のところで主張されているのを見て、私もああそうだと思いました。やはり「ことわり」なんですね。得したいとか損したくないとか、そういうことではなくて、人として当たり前のこと、人がこうあるべきだということが正解で、だから「権理」と「ことわり」の方でやるべきではないかと思います。だから「平和に生きる権利」でも、いきなり「権理」と表記したら「間違えてる」とか言う人も多いだろうけれども、難しいとは思うんですけど、この「利」はおかしいと思うんで、と常に付け加えつつ主張されたらいいと思います。
なぜそう言うかというと、日本語ってすごく曖昧で、いっぺんレッテルを張ったり単語を作ったりしたら変えないんですね。それをすごく感じたのは法医学の講義のときに先生に、「腹上死が一番多いのは後背位です」と言われた時です。「それ違うじゃん、腹上死じゃないじゃん」とか思ったんですよ。でもまあそれは無視っていうことに日本語でなっちゃって、違うやんという突っ込みすらしない。「腹上死」という表現を変えるのはもう無理かも知れないけど、私は関西人ですから、どこか突っ込めるところがあったらとりあえず突っ込んでおけと思うんですけど、東京の人はそういう発想がないみたいで、「違うやん」ていうことをしないみたいなんですね。だから「憲法改正」という言葉を素直に作れちゃう、使える。
さっき言った『みんなの憲法24条』は福島瑞穂さんが書いているんですけど、しきりに「憲法24条を改正する動き」と書く。改正だったらいいじゃん、ということになるんです。「なぜそこで『改正』と書いちゃうかなあ、弁護士さんがそんな」と思っちゃうんですね。カッコに入れてたらわざとだと思うんですけど、書き流すという感じですから、ちょっと引いてしまったんですけど。それは駄目だよ、という気はしますね。
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「強者の悪意」「他者のコンプレックス」を見抜こう |
- これも『母の友』で紹介したんですけど、『虚飾の愛知万博』は光文社ペーパーバックスです。週刊誌の記者さんだった人がいろいろ取材して書いたような感じの雑誌スタイルの単行本です。いろいろなテーマでやってるんですけど、いきなり「母の友」で「ジャーナリズムの闇」とか「民族差別」とかハードなテーマの本を紹介しても、キョトンとされちゃうというか、何か恐がられちゃうかなと思ったんで、マジメで本を読むのが好き、ちょっと社会的なことに興味を持つお母さんたちに、このシリーズの存在を知ってもらいたいなと思ったときに、いちばん取っつきやすいのがこの、愛知万博でこんなに困ったことが起きてますよということをまとめた『虚飾の愛知万博』という本だったんです。
万博の会場で、最初は手作り弁当持ち込み禁止だったんですね。いろいろ問題があったんで結局解除になりましたけど。弁当を持って来られたら金儲けができないから禁止とかいきなりやってみたら、儲けよりも損失の方が多いことが分かったので、じゃあそれをちょっと緩めてみましたみたいなことです。「儲けることばかり考えているからそうなるんだよ、バカだなあ」と私は思ったんで、このテーマで盛り上がっているかとネットの雑談スレを見てみたら、建前でしかないゴミ問題の解消、食中毒防止、テロ対策でお弁当持ち込み禁止、場内での売り上げ至上主義なんて全然関係ありませんみたいな、主催者側の主張を鵜呑みにした上での会話が続いているんで、フーンとか思ったんですけど。真面目な女の人は、「悪気があって悪いことをしている人」が世の中にはいることに気がつかないのかなあ、そういうもんなのかなあと。
「決まっちゃったことは仕方がない」ということ。宝塚が5年ぐらい前にリストラをしたんですね。すごいそのやり方がえげつなくて、下手くそだったんです。いちおう夢を売る仕事なのに、今までもリストラはありましたけど、その時はいかにも「リストラです」みたいなやり方をしたんでびっくりしちゃったんです。口先では劇団側は、「人事の交流を活性化させるため人の配置を変えました」みたいなことを言ってるんですね。「あんな露骨に干すなんてひどいよね」と思っていたら、ネットでは高校生ぐらいのファンが、「人事交流を活発化させると言ってるんだから、みんな劇団のやり方をしばらく見ましょうよ」とか言うんです。「偉い人がそう言ってるんだからとりあえず従って」とか、「決まっちゃったことに文句を言うのは大人気ないですよ」みたいなことを、今の若い人は良く言うんだなと、最初に気付いた事例がこのリストラだったんで、そういう人たちが増えてるんだなあと。そういう若い人達は、後から「あれ、実はリストラだったんだ、許せない!」とか怒るんですけど、私の世代からすれば、そんなん最初から分かってたのに、と思って。これは女に限らず男も、きっと同世代ではそうなんだろうし、そういう人たちが集まって「憲法は改正すべきだよね」なんて言ってるのはとんでもないし、潰さなきゃと思いますね。なんでそんなふうに分からないのかなあとか、どうしてそんなに「他者の悪意」に疎くていられるんだろうとか考えるんですけど。
率いる側、強者に悪意があるのは、そうした方が儲かる場合がいちばんなんですよね。儲かるんじゃなくても支配欲とか権勢欲、小泉なんかは儲けたいとかより、いかに大国日本の大将でいたいかという、しょうもない虚栄心で生きていると思うけど。そういう悪意は、虚栄心を持てる側、そういう立場に育った人たちだけが持てるものだから、そういうふうに生まれ育ってない人たちには見えないみたいですね。でもそれが見抜けないと悪意を持った相手は潰せないんだから、まず見抜ける人間になってくださいという思いで紹介しました。
あと、悪意の根底には、「儲けたい」というのに加えて、「コンプレックスを隠したい」というのもあると思うんですね。これがいちばん、私が言ったり書いたりしては引かれてヒンシュクを買ってるんですけど、石原慎太郎が「ババア」発言をしましたよね。その時、普通の良識ある女の人とかはストレートに「けしからん、石原慎太郎は差別主義者だ、他者への視線に優しさがない」とか、いろいろ言ったと思いますけど、私の場合は、あれを初めて聞いた時、「ああ、この人インポなんだな」と思ったんですね。ほんとに男として現役バリバリで、女の人といい思いをしているなら、生理の上がったババアが生きようが死のうがどうでもいいと思うんですよ。それが気になっちゃうというのは、「この人もう駄目なんだわ」と私は思いました。そういうのは男の人にはすごい大事な尊厳というか、バレちゃいけないし、自分がいちばん辛い、耐えられないことなんだろうなと。こういう人間が、しかもそういうコンプレックスを抱えたジジイが、そのへんの隠居だったらべつに飲み屋でババアの悪口言うだけで済むかも知れないですけど、ああいう地位にいるから、言いたい放題に言えて、それを報道してもらえて、それなりに支持する人には支持してもらえちゃうみたいな。
なぜあの爺さんはふざけたことを言うのか、そのへんをまず見抜いて、その上で、悪いものは元から絶たないといけないと思いますから、その上で反対をしないといけないと思います。訴訟をストレートにしちゃうような人っていうのは、そこには気付かないタイプの上品な人たちなんだろうなと。権力を持っていない側の民衆は、私みたいに、「あの人、もうダメなんだわ(クスクス)」っていう感じに、アホな権力者がいたら「笑いもの」にしちゃうのがいちばん正しい、いちばん有効で手っ取り早い第一歩だと思うんだけど、そういう力をいま庶民がなくしていると思います。
でも私のような発言をすると、「ババア」発言を支持しない人からでさえ、引かれるかむかつかれるかがわりと多い反応なんで、そんなもんなのかなとは思うんですが。活字では中公新書ラクレの、どっちに書いたか、『若者はなぜ怒らなくなったか』か、『声に出して読めないネット掲示板』のどっちかに書いて、初校のとき「これはちょっと」と言われましたね。やはりそういうことを文章にすること自体、「これはちょっと」というのが「良識があって、差別と戦争を許さない人たち」のメンタリティなんで、でも、だからこそ、「悪意があるやつら」に勝てないんだと思うんです。だから差別と戦争が許されるんだと思うんです。
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「フツーの男」はなぜ「日本国憲法」が嫌いなのか |
- 嫌いなんだと思いますね、普通の男は。なんで嫌いなのか、ということを探るところから始めないと、「今の憲法を潰したいんだよ」と言ってる人たちには、対抗出来ないと思うんです。だって、絶対彼らは、自分からは、「自分たちはなぜ日本国憲法が嫌いなのか」ということを言わないし、そもそも「なぜ嫌いなのか」を自覚もしてない。だから、護憲派の側が、憲法を変えたいという人を潰すというか、なんかそういう人たちを邪魔する側になるしかないよな、とか思って、「バリハト派から見た日本の言論の今」という文章を、『論座』という朝日新聞社が出してる論壇雑誌に書いたんです。
さっき石原発言のことを言いました。まあ内容自体より、「こんなことを発言するなんて、荷宮和子という女は」、みたいな、女のくせにとか、いろいろありましたね。言いたいことを言えば内容だけじゃなくて、「女なのに自分の言葉でものを言っている」という意味での悪口を言われることが分かっています。まあ、いくら私でも、尊敬している男の人から悪口を言われたらやはり落ち込むと思うんですけど、幸いにも、ていうか、当然のこととしてというか、そういう人から悪口を言われたことはないんで。私の悪口を言う人に対しては、「別にあんたにどう言われようと平気だし」、でやってきてるんですけど。でも、普通の男の人はそうじゃないみたいですね。誰からもけなされたくないみたいなんですね。
そういう意味でいま左翼とかハト派とか人権派がいちばん悪口を言われるようになってるんですけど、男の人は、そういうのを言われるのがすごい恐いしつらいし、嫌だから、いかにそう言われずに済むような内容のことを発表して褒めてもらうか、ということでやっている。「どうして男の物書きは、自分の価値観が出せないんでしょうね」、みたいなことを『論座』に書いたんです。物書きになる人は普通とはちょっと違う人だとは思うんです。頭はちょっといいと思うんだけど、だけど普通の男の人の顔色をうかがっているということでは共通しているから、日本国憲法が嫌いになっちゃうのかなと思うんです。
あと、女性専用車両について『毎日新聞』に書きました。レジメに載せたのは初稿で、ちょっと書き直してくださいと言われたので、書き直す前のものです。絶対「書き直してください」と言われるだろうなって思っていたところが言われたんで、ああやっぱりねという感じで。どこが言われたかというと、「精子をまき散らされる側」という表現です。どうせ駄目だろうなと思って敢えて出したんで、まあいいやと思って。
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- 女性専用車両については、先に『アエラ』からコメントを求められたので、まずはこう言いました。
- <いちばんいいのは女性専用車両を作るんじゃなくて、女性専用車両、男性専用車両、ミックス、というのを作って、親子連れとかカップルとかどうしても痴漢をしたい男の人はミックスのところに乗ってもらえばいい。女性だけを作るから「女性専用車両に反対する会」なんかができてもめているんで、女性・男性・ミックスを作っちゃえばいい。それで外国の人に不思議がられたら、「女性専用車両を作らないと日本の女は痴漢から逃げることができないんです、それなのに女性専用車両を作ったら『許せない』とか言って怒る男がいるから、だから男性専用車両を作らざるを得ないんです」と言ってあげればいいんです。外国の人はあきれるだろうから、「それが日本の現実なんです、同胞の女にさえそうなんだから、朝鮮人や中国人を強姦したりしても、謝るわけがないんです、この程度の国なんだから、勘弁してやってください」とか言えば、「ああそうか、日本の男っていうのはそんなにバカばっかりなのか、だったらしょうがねえなあ」と、生暖かい目で見てもらえるようになって、少しは対日感情も和らいで平和な世の中ができるんじゃないですか>
- というコメントをして、「載せられないでしょうね」と言ったら、「そうですね」というので、『アエラ』にはそこまでは載らなかったんですけど。
だから『毎日新聞』では、「女性専用車両はシルバーシートのようなものである」とか書いたんですけど、「それならいいですね」と。そういう言い換えが思いつくあたりが、私って器用貧乏だなと思っちゃうんですけど。困った不謹慎な言い方しかできないというわけではないからこそ、いいように便利に使われているような部分もあるんですけど。でも死を前にした男が精子をまき散らすのは仕方がないというのは、慰安婦も仕方がないということになるから、「それはおかしいんじゃないの、人として」と思います。「まき散らす側はいいけど、まき散らされる側はどうするんだよ」みたいな。
この手の議論を見ていて、なぜそういうことを言うのかなと考えると、普通の戦争で死んだ男の人をフォローしてあげる男の人は、「なんだかんだ言っても、戦争になっても女は股を広げてさえいれば死なずにすむんだから、気楽な生き物だよな、それにひきかえ俺たち男は、戦争になったら戦場で殺されるかもしれないんだから、本当にオレたちってかわいそうだよな」、という被害者意識があると思うんです。それで女の人が痴漢なり慰安婦なりに文句を言ったら、「おばさんは関係ないよ」と笑いものにする。でも痴漢はまだしも、戦争での性暴力には、たとえおばさんでも関係がないわけではないんです。たとえば、「ヒトはなぜするのか」(ナイルズ・エルドリッジ/講談社インターナショナル)には、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、40歳過ぎの女の人でも組織的にレイプされた、という事例が書かれています。
「戦争になったら戦場で殺されるかも知れない、女なんかよりはるかにかわいそうなボク」、という間違った被害者意識が男の人にはあると思うんですね。だから「それに比べたら、強姦されることぐらいどうってことないじゃん」、と男の人は腹の底では思ってるだろうし、そう思ってるからこそ、「戦争になったら殺されるかもしれないボクを守るためには憲法を変えるしかない」、ということになると思うんです。
そういう気分に通じるのが、『少年エース』とか、少年漫画ではけっこう売れてる方なんですけど、すごい大戦争があって、その戦争が終わった後の廃墟で生きてるかわいそうな子供たちの話がいっぱい載ってるんですけど。でも最近の少年漫画って少年、子供が買ってるわけじゃないんですね。今どきの子供は漫画なんか読まないです。なんでかというと、大塚英志さんが書いていますけど、「おまえら、漫画ぐらい読めよ」と言うと「めんどくさいもん」「だって半分絵だろ」「半分字じゃん」。漫画なんて読むのめんどくさいというのが今の子供です。『少年エース』の「かわいそうなボクたち」漫画の売り上げを支えているのは、改憲の問題が起こったときに選挙権を持ってる世代の人たちです。本来の少年たちは漫画さえ読めないから、そんなに影響はされないと思うんですけど、でもまあ、何かのときに「たまには漫画でも読むか」とな思ったときに今はこういうのしかないから、油断はできないですね。
「それって人としてどうよ!?」というのは、少女漫画ではいちばん売れている「NANA」のセリフです。1200万部くらい売れている。ヒロインはいろんな男と会って、妊娠したりいろいろあるんですけど、出て来る男性キャラは強くて偉そうなオレサマと、優しいけど軟弱な男の子と、どっちかしかないからこそリアル。少女漫画というのは今の女の子にリアルに感じてもらわないといけないから、しょうがないなあ、みたいな。そのヒロインが、「けど、それって人としてどうよ!?」って言うんですね。そういう意味で、「人としてどうよ」みたいなことを言われちゃうみたいな男の子ばっかりが今の世の中に溢れている、その中から今の女の子は相手を撰ばなきゃならない、そういう内容の漫画なんですね。
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若い人がなんでそうなっちゃうかというと、数年前にバンクーバーの領事が奥さんを殴って現地の警察に捕まったらしいんですけど、「夫が妻を殴るのは日本の文化だから、逮捕されるいわれはない」と言ったらしいんですね。「いや、そんな文化は日本にはありません」とは言えないですよね。「そうですね」と言うしかないから、それが現実だからこそ、こういう漫画があるんで。
「かわいそうなボクたち」のために慰安婦とか強姦がある。そういうことでもないと生きていけないじゃん、そういう「オイシーこと」があるのは当たり前、肯定するのが当然というのが、普通の男の子と、その男の子を育ててきた世代のオジサンたちの本音なのかなあと。そういう意味で、両性は平等とか、戦争はいけませんとかいうのは、それは大嫌いだろうなと。なんでそんなものを守らなきゃいけないんだろうと。
ではどうしたらいいのか。やっぱり女から見て理想の男というのは、気は優しくて軟弱も困るんで、「気は優しくて力持ち」みたいな、言葉にするとバカみたいなんで、もてないとは思うんですけど、でもそれがいちばん最終的にはいいんじゃないかなと思うんです。考えてみれば「ベルばら」のオスカルの恋人だったアンドレとか、「エースをねらえ!」で岡ひろみの恋人だった藤堂とか、「気は優しくて力持ち」だったんです。「エースをねらえ!」で女の子にいちばん人気があったのは千葉さんなんですよ。新聞部で頭がよくて、資料を集めたりひろみの勉強の手助けもしてあげて、でもじつは空手の有段者でという、そういうキャラですね。「そりゃ漫画だよ」と言われれば、漫画なんですけど。でもそういうキャラがやっぱりいちばん人気が出るのが少女漫画の健全なところで。千葉さんは突然変異ではなくて、少女漫画がいちばん売れてた時代はそういう人が漫画に出て来るのが当たり前だったんですね。
男の漫画でも、昔はそういうキャラはそんなに珍しくなかったと思います。でも、今はすごく少ない。いまかろうじてそういう男が出て来る漫画って何があるかと考えたら、『週刊漫画ゴラク』に連載されている「銀牙伝説WEED」、これは犬の話なんですね。野良犬たちが楽園をめざす、「ジャングル大帝」の犬版みたいなものです。ヤクザの出入りみたいなことがいっぱいあって、主人公たちが闘って。これに出て来る土佐犬の「闘兵衛」のことを「男だよねー」と私が言ったら、旦那が「いや、おまえ、それ犬やから」。「こんなヒーローなんて、漫画の中ですらもう犬の闘兵衛しかいないね」と話したんですけど。
漫画ですら「気は優しくて力持ち」な男はもういないから、現実には「弱い犬ほどよく吠える」っていう現実になってるから、改憲しろみたいなことになっちゃってるのかなあと思います。漫画はあまりお読みにならないと思いますけど、『漫画ゴラク』なら男の人でも読みやすいでしょうし、あとお嬢さんがいれば「NANA」は聞けば持ってると思うので、機会があったら読んでもらえればと思います。
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