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護憲運動の敵(宮崎駿)と味方(大塚英志)
講演中 みんなは宮崎駿といったら「もののけ姫」とか「千と千尋の神隠し」とか「ハウルの動く城」とかを見てるかも知れないですね。いま出ている『大航海』という雑誌が「現代日本思想地図」という特集をしていて、宮崎駿と大塚英志を書いてくださいという依頼があって、宮崎アニメの傾向がどうのこうのというのを書いてみました。アニメだったら宝塚のような舞台と違って古いものも見られますし、私は宮崎駿が映画監督になる以前のテレビ漫画のころ、東映動画に入ったころから全部見てますから。宮崎アニメを誰もが理想的な子供向け文化だというふうに認めているいま、宮崎アニメってどうよみたいな感じで読み解いてみると、最終的には「宮崎アニメって最低!」みたいな結論になってしまって、ああそうだったのかとちょっと悲しかったんですけど。

 なぜ宮崎アニメを叩いたのか。その手段の一つとして、手塚治虫の特徴との比較があるんですね。これは私は『手塚マンガの心地よさ』という単行本で書いて、『バリバリのハト派』の中にも書いたんですけど、
    1. 暴力を生理的に(論理的にではなく)嫌悪している。違和感ですね。体が軟弱で、戦争に巻き込まれて、暴力って嫌だと素直に、素朴に思っているんですね。
    2. 武器フェティシスト的な面が(男性クリエーターにしては)少ない。男の子ってなんだかんだ言っても戦車とか好きじゃないですか。戦争が好き、人殺しが好きじゃなくても、ああいう機械が好きだという人は多いと思うんですけど、手塚治虫は戦車大好き、機械大好きではないです。嫌いとは言わないですけど、男にしては興味ないという感じ。
    3. 家族の絆の描写にあまり関心がない。昔の人だから、いまみたいに崩壊した家庭を舞台にしているわけじゃないんですけど、でも何となくあの世代の男の人にしては、親子の情愛とかに興味ないのね。個人としての人間と人間の関係には興味あるけど、「だって血がつながってるんだから」で説明されちゃうような関係にはあまり興味がないんで、だからあまり家父長制みたいなものも好きじゃないんじゃないかな。
    4. 女性キャラクターが「尊厳を持った人間」として描かれている。いまの流行りの漫画やアニメはそうじゃないんですね。「尊厳を持った人間」ってどういうキャラかは説明しづらいんですけど。
 以上が手塚治虫の特長だとしたら、宮崎駿というのは、
    1. 暴力を論理的に嫌悪している。生理的にとにかく嫌だというんじゃない。暴力は良くないことだよという理性ある人間として主張していると思う。
    2. 武器フェティシスト的な面はものすごく強い。戦車大好き、飛行艇大好き、銃器大好き、クルマ大好きで、それが人殺しの道具であろうとなかろうと、とにかく機械は大好き。武器でないものも含めてですけど、とにかく武器フェティシストになってしまうのは、男の子でエエカッコが好きな人はどうしてもそうなるんですね、普通は。そうじゃない手塚治虫がちょっと突然変異かなと、宮崎アニメを見て分かることです。
    3. 家族の絆の描写にこだわることが多い。手塚先生があまり興味ないんだろうなということから思えば、この人は血がつながっているから、ということに基づいた情愛や憎しみが人間として当たり前で、素朴に肯定できているんだなあと思います。女の人はわりと肯定はしないですね。男の人は子育てで手を汚さなくてすむから、汚いものを見ずにきれいなところだけを肯定できるんでしょうね。
    4. 女性キャラクターの価値は「家事が得意か否か」によって左右される。
 この原稿を書いていて、ああやっぱりそうだったのかみたいに分かったんですけど、ほんとに昔の監督デビューしたころから「ハウルの動く城」まで、いろんな女性キャラクターを描いてきて、宮崎アニメに登場する女性は自立しているとか行動力があるとか言われましたけど、私から見たら、結局この人は女の人を家事が得意かどうかだけで評価する。お姫様だろうとお嬢様だろうと庶民の娘だろうと、頭がいい歌のうまいいい女だろうと、これまでの男の監督が作ったアニメのキャラに比べたらはるかに女の人が活躍しているんだけど、結局その人たちが幸せになれるかどうかは、男が要求する家事が得意かどうか、あるいはその男の要求に応えようとするかどうかで、女性キャラクターの幸不幸は決められちゃってる。20年前ならまだ作品数がたくさんはないですから、そこまで言い切れるかどうかでしたが、今となってはもう言い切っていいと思います。 

 結局、宮崎駿という人は、メンタリティとしてはごくごくフツウの日本人の男だった人が、たまたま特殊な才能があったからこうなりましたというだけのことで、メンタリティとしては、フツーの日本人のサラリーマンと同じだと。だからこそアニメブームが起きる前から、アニメが好きな人は「宮崎アニメっていいよね」みたいな。ちょっと大衆化しちゃって「最近はなあ」みたいな思いはあるだろうけど。

 そういう宮崎駿から独立したクリエイターが作ったジャパニメーションというジャンルが成立します。どんな作品かといえば、引っ越してきたら下宿にかわいい女の子ばっかりが住んでいて、あるいは遺産を相続することになって初めて生き別れた親の家に行ったら血がつながっていない妹が12人いて、その12人が全部自分のことを好きになって、みたいな、そんな話ばっかりなんですけど。お金持ちになってメイドさんがいっぱいいる家に行って、いろんなメイドがいるんだけどみんながその主人公を好きになるとか。お金を儲けるためにアニメを作っているわけですから、DVDにわざわざお金を出してくれる男の子に受けるものがどういうものかといえば、そういうものです。主人公は軟弱で不細工で頭が良くなくて、要するに見ている人が「オレみたい」と思えるようなものですね。そういう男の子がなぜかかわいい子にモテモテになるのばっかり。
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 アニメファンの男の子にDVDを作るために作られたそれらの作品は、あまりにも身も蓋もないんだけど、根っこの部分は宮崎駿の作ったアニメとじつは一緒なんですね。宮崎ならいちおう反戦の味付けもしてありますけど、味付けなしに「素材の味をどうぞお楽しみください」みたいなのが今のアニメなんで、そういうのを見てたら、そういうのに抵抗がない男の人たちは、憲法24条の両性の平等はウザいと思うだろうな。で、それを「変えますよ」と言われても「あっ、そう」とか、「変えた方がいいという人がいるなら変えてもいいんじゃないの」ということになる。だって、男は何も損しないんだから。彼らは、べつにもてないと思うんで、両性の平等がなくなっても得はしないけど損もしない。その根っこには、「宮崎アニメっていいね」と屈託なく言えるのと同じものがあると思う。

 では大塚英志はどうか。「従軍慰安婦に精子をまき散らすのは戦争で死ぬ男にとっては仕方のないことなんだ」という意見に対して「それはどうよ」、宮崎アニメに対しても「それはどうよ」と言ってるんで、こういうことを言える男の人は珍しいとは思います。「両性の平等規定を改悪するなんてとんでもない話である」と、それなりのメディアで言っているのも、男では、この人と斉藤貴男さんぐらいしかいないなと。

 大塚さんが主宰している『コミック新現実』という雑誌を今日持ってこようと思ったんですけど、すんごい分厚くて、どれくらい分厚いかというと、郵便屋さんが郵便受けに入らないというんでチャイムを鳴らされちゃって、ええ、何が来たんだろうと思ったらごっつい本で。そういう雑誌を大塚英志さんは出してまして、今月号の特集だったらベアテさんの生涯を漫画にしたものとか、元右翼の鈴木邦夫さんと改憲について対談するとか、そういう困った雑誌があるんです。その中で私は「おたくの花咲くころ」というのを連載してるんですけど、その去年の5月号には、いまの宮崎アニメを見てる子たちに、新作の「鉄人28号」はちょっとどうかなということを書いてみたりしてます。

 男って、とさんざん文句を言いましたけど、大塚さんや斉藤さんみたいな人もいるんだから、男の人みんながそうじゃないということなわけです。だから「男って嫌い」というのも感覚的だと思うんですけど。でも男ってこうだから嫌いというのがバカな考え方であるのと同様に、国籍が違うからあいつら嫌い、というのもバカだと思うんですね。逆に言えば国籍が一緒だからという理由だけで他人を信じるなんて大バカだと思うんですね。そんなの関係ないと思うんです。在日の問題とか考えたら、国籍じゃないだろうと。差別があったり、不信感を抱いたり。国籍が同じ人だけで幸せになろうとしたら、それはおかしいと、もし本にするなら書こうと思ってます。
理想は現実にできる
 なかなか分かってもらえないとは思うんですけど、もしこのテーマで本を書くなら力を入れて書こうと思うのは、「バーチャルアイドル」より「コスプレ喫茶」「メイドカフェ」「コスプレフーゾク」ということです。ゲームとかアニメが人気になる以前の、コンピュータ・グラフィックとかそういうものでないと反応しないみたいな、そういう人たちがオタクであると、10年ぐらい前から言われて来たと思うんです。確かに現実の生身の女とセックスするよりゲームキャラの女の子が好き、そういうところに出て来る女の子をネタにオナニーしたいという男の人が増えてきたのは事実ですね。
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 なぜそうだったのかと。じゃあ、という感じでCGによるバーチャルアイドルを提供したりして失敗したりして10年ぐらいあって、最近ようやくそのオタク向けにコスプレ喫茶、メイドカフェというのが出てきて、今では、そういう格好をした女の子がそれ以上のサービスを個室の中でするフーゾクももちろんあるんですね。そういう店では女の人がアニメやゲームのキャラクターの格好をしている。童顔で目が大きくて胸が大きくて、「ですですう、ご主人様のためなら何でもしますう」なんてアニメ声で言える、そういう女の子が、今まではアニメとかゲームの中にしかいなかったから、彼らは仕方なくそれをネタにオナニーしてたんですね。それが最近では、かわいい顔で胸が大きい女の子が、そういう声を出せば商売になると気付いて、そういう商売をしだした。生身の人間でそれがいるんだったら、そっちへ行って金を払って、やってもらえるんだったらやってもらおうみたいな、そういう人がどんどん増えてきている。

 要するにCGだから好きだとか嫌いだとかいうことだったわけではなくて、要は、自分が好きなスペックの女がアニメやゲームの世界にしかいなかったから、仕方なくそれを見てたんであって、生身の女で自分の好きなスペックの女がいるなら、というわけでその手のフーゾクが盛り上がっているんですね。それが実現するのに10年かかったというのは、10年前はそういう人がいなくて、そういうしゃべり方ができて胸が大きくてという女の子がいなかったんですね。10年前にそういう店を作ろうと思っても人材がいなかったと思うんです。それがこのごろは女の子が、こういうしゃべり方をすればいいんだとか、こういうふるまいをすればいいんだとか、いうのができるようになってきて、雇ってくれる人がいて、買ってくれる男の子がいる。だから「理想は現実にできるんだな」と思う。

 「日本国憲法なんて理想的すぎて駄目だよ、使えねえよ」、なんて意見があるけど、「夢見てたら理想は現実にできるんですよ、コスプレ喫茶を、メイドカフェを、コスプレサロンを見なさい」と言えば、オタクの人も「そうか」と認めざるを得ないと思うんで、これはちょっとどこかに書こうと思ってることです。でもそういう風俗で働いている女の子は、金さえ払えばやってくれるわけですけど、愛してはくれないですね。何故かというと、今の男の子は女の子に愛されるような男じゃないからです。理想を現実にしたいんだったら、やはり自分はその理想にふさわしい存在にならないといけないから、日本国憲法をただたんに崇めるだけでダメで、日本国憲法をまっとうできる生き方をしなくちゃ駄目ですよみたいなのを加えたら書けるんじゃないかなと思ってるんです。

 「キャラクターと戦争」というのは、『毎日新聞』が配っている「トクプレ」っていう冊子に連載しているで時事ネタを載せるコラムに書いたものです。いま配ってる号では原稿を2ヶ月ぐらい前に書いた「JR西日本のカードはいけてる」というのが、配られる時点では「よりによって今、JR西日本を褒めてる、この人」みたいなことになってしまったんですけど。そういうコラムでイラク戦争が始まった時点で「キャラクターと戦争」というのを書いてみました。戦争は良くないということを、できるだけいろんな媒体で書いていきたいと思ってるんで。

 ここでも、「理想はこうでも現実がこうだからしょうがないよね」と諦めるんじゃなくて、「理想を忘れないように、見失わないようにしなけりゃ」、みたいな。イラク戦争の開戦のときの困った現実としては、ニュース解説者が「どうやら開戦自体は避けられないようですから」みたいなのが枕詞で、そう言うのが当たり前みたいな雰囲気がありました。ちょうどそのときに東京アニメフェアというのがあって、声優シンポジウムで永井一郎さんが「イラクの子供たちが一人も死なずに日本のアニメが歓迎されるといいなあと思う」と言っていた。マスメディアも「開戦自体は避けられないですから」なんて言わなくて、こういうことを言わなきゃと思いました。

 現実って、要するに多数派が良しとしている意見ですから、それは変わると思うんです。歴史を調べてみると、産業革命で綿織物がいっぱい作れるようになったんですね。いっぱい作れるようになったけど、買ってくれる人がイギリスだけでは足りないから、ではインドで売りましょうということになって、インドにも綿織物職人がいるけどどうしよう、じゃあ、ということで綿織物職人5万人を殺したらしいんです。いまそれやったらすごくヒンシュクというか、あり得ないと思うんですね。でも当時の人にとっては、「それってしょうがないよね」というだけだったと思うんです。「しょうがないじゃん、インドの綿織物職人が邪魔なら殺すしかないじゃん」というのが、たぶん当時の常識だったと思う。

 「イラクの石油はいるんだし、日本企業はよその国にいっぱい進出してるんだから、そういう利益を守るためには、イラクとかアフガニスタンの一般市民を誤爆で殺したのもしょうがないわね」、というのがいまの常識だと思うんですね。でもそれって、「自分の属している国の利益を守るためには、戦争で関係ない現地の人を誤爆で殺すのはしょうがないんだなんて、この時代の日本人はすごいバカばかりだったんだなあ」と、未来の人から言われると思うんです。いまはそれが常識になっていないけど、変わると思うんです。変わると思うから、理想は現実になると。

 ただ、変わる・変えるについては、変えればいいなあと思いながら、でも私が生きてる間には無理かなあみたいなこともちょっとは思うし。爆笑問題という漫才コンビがイラク戦争のときに、「人間は進化してるんだから、そのうち絶対に戦争はなくなるよ……あと1万2000年もしたら」「そんなにかかるのかよ!」というネタをやってたんですけど、それを笑えるかというと、「笑えるかもしれないけど、でも、完全にギャグになってないかも」、というのが今の我々です。1万2000年はちょっと困るから、せめて次の世代までか、もうその次くらいまでに、という感じでやっていけたらなあと思います。
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「皆で貧乏になろうよ」=「反・小泉改革」
 「おたくの花咲く頃」のいま出てる号に、「ヅカファンにとっての戦時下」という文章を書いてます。私はヅカファンなんで、ちょっと調べたいことがあって『宝塚歌劇五十年史』という本を調べたんですね。いま宝塚は91年目なんですけど、40年前に作られたものです。

 とにかくものすごい気合いの入った年表が作られていて、いちばん上に宝塚ではこうだった、中段に宝塚以外の芸能、下段にそのときの社会の動きはこうだったと。戦前・戦中のところをここまで要領よく書いてるのはなかなかなくって、しかも年表だからすごくニュートラルにパーッと書いてあるから、こんなことがあった、次にこんなことがあったと良く分かる。散文で書かれるといろいろ書き手によって思い入れがあるんで、そんなにストレートでなくて、戦争は避けられなかった、こんなにがんばった、だけど駄目で負けてしまいましたという書き方があるけど、年表だったら本当にニュートラルで。あ、開戦してる、あ、次のページではもう負けてる、あ、もう駄目じゃん、と。マレー沖海戦で一瞬いいことがあっただけで、後はひたすら負けてる、負けてる、負けてるというだけだということが良く分かるんです。ちょっと抜き書きしてみます。

 昭和2年5月1日   東京市智識階級職業紹介所設置される(不況なんだなあ)
 昭和2年7月5日   中国各地で排日運動激化(昔からやってるんだ)
 昭和4年11月1日  全国の失業者数30万人
 昭和5年5月30日  間島で朝鮮人武装暴動勃発する(起きてる起きてる)
 昭和8年8月9日   3日間にわたり帝都初の防空演習(石原みたいなことしてる)
 昭和9年10月    北米アリゾナで排日運動起こる(また嫌われてる)
 昭和10年5月11日  内閣審議会、内閣調査局設置
 昭和12年7月8日  文部省パンフレット「国体の本義」(「心のノート」が出てきた)
 昭和12年9月13日  国民精神総動員計画実施要項発表される
 昭和14年1月20日  国民登録制実施(住基ネットだ)
 昭和15年9月15日  『宝塚グラフ』自発的に廃刊(まだ大丈夫かな)
 昭和16年1月11日  新聞紙など掲載制限令公布される(個人情報保護法だ)
 昭和20年3月    東京・大阪・神戸大空襲

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 年表を見ていると、順当にいま段取り通りやっていることがとても良く分かるんで、しょうがないなということになります。昔そうだったけど今度は違うとかいうけど、違うほうが難しいんで、どうもやばいよということが宝塚の年表見ているだけで分かるから、どうにかしなきゃというところがあります。

 どうやばいのかということで、「食育」というのがありますね。すごい盛り上がっていて、まあ体にいい食事をするのはいいことっていうか、けど、するかしないかは好きにしたらいいんじゃないですかね。私なんかは、そんな風に言われたら「健康に悪いからやめよう」っていうのは止めようかな、と思ったりして。

 でも、こういうことを決める人って、作らせる側なんですね。金さえ払えば、みたいな、食べるのに困らない人たちが。どういうご飯がおいしいかといったらやっぱり、他人に作らせたメシを他人に給仕させて食べるのが一番おいしいんですね。その他人というのは、女の人の場合は赤の他人、男の場合は赤ではない他人。で、他人に作らせる側が「食育」とか言っている。それが嫌だなと思います。男の人にはピンと来ないだろうし、かといって、男にもわかるように説明するのは、私としてはめんどくさいなとは思うんですけど。

 小泉内閣の竹中平蔵が言っている、「一部の金持ちが稼ぎ、他の人はそのおこぼれをもらっていればいい、皆で貧乏になるよりはその方がいいでしょう?」というのが小泉内閣の価値観ですね。「そうだね」ということになっちゃってる。普通の男の人は「そうだね」と言えちゃうけど、私は「ええ?」とか思うんですね。だってそれって、「男が金を渡して食わしてやってるんだからそれでいいでしょう、なんで女のくせに働きたいとか言うんだ、何が不満なんだ、食べさせてあげてるじゃん」、という男の多数派の本音とシンクロしているわけですね。でも、女の側としては、「食わしてもらう側はなんか嫌だ、それってすごくミジメ」っていうのが素朴な感情です。それだったら、たとえ絶対額は少なくても、自分名義の稼ぎを好きに使いたいというのが、「フェミニズムのようなもの」の本質なわけです。女の場合は、自分名義の稼ぎがなかったからこそ、個人の尊厳が無視され続けてきたんで、女が自分自身の尊厳を取り戻すためには、とりあえず仕事をよこせ、金をよこせと言う必要があった。だけど、「お金はちゃんとあげてるのに、どうして?」という側でしかない男の人には、所詮は分からないんですね。

 なんで分からないのか。引きこもりは男ばっかりですね。引きこもっていられる、人に食わしてもらうことへの後ろめたさのなさ、それが男の子にはわりとデフォルトなんだなあと。女だったら食わしてもらってるのは後ろめたいんで、やっぱり引きこもれる男の人って食わしてもらうこと自体の自覚がないみたいです。だから男は、個人の尊厳を軽視する、おこぼれをもらっていればいいという価値観の大衆になれるんです。

 これに反発するときにどういう価値観でいけばいいのかっていうと、斉藤貴男さんが書いている、「侵略戦争を肯定する国家を造ってまで国力を維持する必要はない、皆で貧乏になろうよ」ということだと思うんです。けど、本の中にそういうふうにスローガンみたいには書いてないんで、もしこんな風にはっきり言っちゃったら、「じゃあ私はいいです」みたいに思っちゃう男の人が多いんじゃないかと思う。貧乏になるのは嫌だ、と引かれるんじゃないか。

 そう思ったのは、先日とある憲法に関する集まりがあって、私は聞いてる側だったんですけど、小林よしのりさんがメインゲストで斉藤さんも出ていて、歴史観とかはみんな違うんだけど、小泉のイラク派兵はとにかく間違ってる、という立場でそれぞれが話したんです。その中で「でもやっぱり武力は維持したいですね」みたいな、「いざとなったらそれはしょうがないですね」「侵略戦争は肯定しないけど、やはり国力はないとね」とかいうパネラー達の意見に対して、斎藤さんだけが「侵略されても構わない、と思っているぐらいでないと、侵略を肯定する国家を否定することはできない」と言ってて、それは私もそう思うし、専守防衛ってありえないと思っているから。侵略されても構わないと思わないと、絶対に軍隊なしに平和をめざす国は作れないと考えるから。

 小泉内閣はいいわけじゃない、思ったほど良くなかったけど、わざわざ変える必要もないし、っていうのが普通の人が考えることです。でも三代目は身上を潰すのが定説ですから、小泉家の三代目はきっと潰すと思うんですね。そうなる前に三代目を勘当するしかないと思うんで、本当に小泉内閣を潰すにはどうしたらいいか。潰そうというつもりで動かないと、やっぱり駄目だろうと思います。
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おわりに
 私が「憲法改悪」に反対する理由。「気分はもう改憲」に書いたんですけど、ディズニーランドを作る能力がないのが日本人ですね。ディズニーのマニュアルはお客様を楽しませるためにはこうしなきゃいけないんだと、徹底的に書いてあるんです。マニュアル自体にはアメリカ人が考えた理想が描かれていて、お客様が喜んで楽しく一日過ごせるためにはこうしなきゃいけないといったことを、アメリカ人にはマニュアル化する能力があるんです。でも、人種差別があったり、能力格差があったりで実行することはできないんですね。でも、日本のディズニーランドは契約でそのマニュアルを完全に実行しないとペナルティがあるから、絶対実行しないといけない。だからカンペキなマニュアルを用意してもらえれば、日本人はやる。マニュアルを実行するのに支障があるほどの人種差別はないし、能力格差もないから。ただ理想的なマニュアルは絶対日本人には作れない。理想を夢見て、文章化する能力が日本人にはないんだということが良く分かります。

 日本国憲法はTDLのマニュアルと同じだと思うんです。作る能力がないんです、日本人には。カンペキな、すばらしい、理想の憲法を。でも、ないんだったら作らなきゃしょうがないけど、あるんだから、他の人が作ったんだけど、すでにあるんです。それをわざわざ変える必要はない。だから憲法改悪には反対です。

 戦争が嫌だと思うのは、いた苦しい死に方をしたくないんですね。男の人だったら、名誉の戦死ができるならいた苦しくてもいいというのがわりとあるみたいなんで、なんでかなって。やっぱり殴られたら殴り返せる能力を、腕力を神様に与えてもらっているから、いた苦しい死に方であっても名誉の戦死と思えばいいみたいなことができると思うんです。でも女はやられてもやり返す能力がない、やられっぱなしで死ぬしかないから、だからこそ殺されたくないと、それがまず原点になる。そういうふうに、男と女で話が食い違うと思うんですね。

 男には分かんないと思うし、分かるように説明するのも無理かなあとは思うんですけど。たとえ男には分からないにしてもとりあえず言っとかないと、言えば多少はわかる男の人もいると思いますし。言わないと一生気付かずに死んでしまう人が多いんで、味方を増やすためにも、これだけは言っておきたいなと。

 売春、「売るほうが悪い」ということで人類の歴史はやってきて、それをフェミニストは、「売るのは悪くない」ということではね返そうとしたけど、戦い方が間違ってると思うんですね。「売るのは悪くない」っていう言い方をするんじゃあなくて、「買うほうが悪い」、つまり、「悪いのは全面的に男である、諸悪の根源は男の側にある」という概念を広めないと、変えられないと思います。だって、「買うのは悪くない」と思っている男はやはり、「慰安婦には金を払ったんだからいいじゃん」になっちゃうと思うんです。とにかく金を払おうが払うまいが、嫌がっている女に突っ込んじゃ駄目なんだっていうことを、フツーの男にもわからせるためには、まずは「買うほうが悪い」ということを広めないと無理だと思います。

 あと住基ネット、もちろんいけないですけど、要するに戸籍制度自体がいけないわけですね。こんなものがあるから住基ネットみたいなものが出て来るんで、やはり戸籍自体がいらないと言うことが大事だと思います。

 さっき言った集会のときに小林よしのりさんが、「自分はジャーナリストじゃないし学者じゃないし、でもやっぱりおかしいことがあったら、漫画家だから裸の王様を見たら『ちんちん見えてるやん』と言わずにはおれない、だから書いてるんだ」と言ってました。だとしたら、「しかもあんた包茎じゃん、みっともないもの見せてんじゃねーよ!」というのが、私の性別役割分担です。そこまでは男の人は気付けないし、気付いても言わないだろうけど、女から見たら本当に「みっともないもの」「大したもの」とは一目瞭然ですから。そこまで言ってやったら気付くんじゃないかなと思うんで。こういうことを言う機会が他のところでもあれば、やってみたいと思っています。ありがとうございました。
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