2005年 7 月 1 日
準備書面(6)
「法の支配の回復と裁判所の責務」
東京地方裁判所民事第15部合議A係 御中
原 告 鈴 村 元 一
- 目 次
はじめに
1)「判決主文」と「傍論」
2)生け贄裁判論
【1】訴えの利益の要件
1.「基本権訴訟」
2.制度改革による要件の緩和
3.成熟性と特殊な権利
【2】立法事実論
1.合憲推定の原則
小括
2.『イラク特措法』は「錯誤」による立法
1 イラク攻撃は正当
2 大量破壊兵器は存在
小括
【3】被告の「イラク戦争支持」以外の選択肢
1.外交
2.大量破壊兵器は国際法に違反
という原則についての一般合意
3.兵器査察と発見された兵器の廃棄の継続
4.疑惑の立証
5.国連に対する尊重の促進
6.戦争犯罪法廷
7.地域的圧力
8.中東地域における他国の扱いの類似性
小括
- おわりに
はじめに
1)「判決主文」と「傍論」。
2004年4月7日の日本の三大新聞(朝日、読売、毎日)の夕刊は、全紙とも一面トップに靖国参拝福岡地裁判決を掲載している。紙面構成は同一事件の報道であるから当然と言えばそれまでであるが、各紙とも酷似している。『小泉首相の靖国参拝違憲』『首相の靖国参拝「違憲」』『首相靖国参拝は違憲』の大見出しに次いで『慰謝料請求は棄却』『賠償請求は棄却』(読・毎)と瓜二つの活字が踊っている。
この福岡地裁判決が画期的と称賛される理由は確かに存在する。これまで、「ム−トネスの法理」との関連で論じられてきた、「念のため」の傍論の憲法判断そのものは、法的になんら問題がないとしても、実際の「念のため」判決は、合憲性の大いに疑わしい法律などを、わざわざ合憲だというために使用されて来た。例示すれば、「メ−デ−の皇居外苑使用不許可処分の取り消しを求める訴え(1953.12.23)」・「朝日訴訟(1967.5.24)」・「長沼ナイキ基地訴訟の控訴審判決(1976.8.5)」等が典型と言える。しかし、今回はその使用発想が逆転しているのである。痛快と言えば痛快である。
具体的な内容をみると、首相の靖国参拝に関してあえて憲法判断に踏み込み、明確な「違憲」判断を下した点においても画期的である。更に注目されるのは、原告の損害賠償請求を斥けながら、それでも参拝の違憲性について判断して以下のように述べている。
- 「現行法下では、本件のように憲法20条3項に反する行為があっても、違憲性だけを確認したり、行政訴訟で是正したりする方法はなく、原告が違憲性を確認する手段は、賠償請求訴訟の形を借りるしかなかった。
- 「今回、裁判所が違憲性の判断を回避すれば、今後も同様の行為が繰り返される可能性が高く、当裁判所は違憲性の判断を責務と考えて判示した。」
従来の憲法裁判判決に不信感を抱く国民は、傍論とはいえ@Aの文言に賛辞を惜しまないのは当然ともいえる。まして亀川清長裁判長は、違憲判決後の右翼からの攻撃などを予想して、遺書を書いて判決に臨んだとも聞き、美談判決と形容したいぐらいの絶賛ぶりである。
しかし、原告は本件訴訟の根本命題の解決にプラス作用を伴わない「不十分判決」と受け取っている。靖国参拝福岡地裁判決の矛盾点を指摘し、本論において現行の審査制に具体策をも提唱したいと考えている。
矛盾点
- 首相の公式参拝を違憲と判断しているものの、結論としては原告に対する法的利益の侵害を認めず請求を却下して、被告の国側が勝訴している(国側は控訴することが出来ない)。
⇒首相が違憲行為をしても勝訴できる現在の違憲審査制度を「法の支配」と呼んで良いのだろうか?
- 原告団長は「はっきりと違憲を認めた判決で、完全勝利だと思っている。原告側主張を細かいところまで採用しており、控訴しても、これ以上の判決は出ない」と、控訴しない方針を明らかにした。(読売2004.4.7.夕刊)
⇒原告当事者が敗訴で納得、完全勝利宣言とは珍現象である。しかし、考えるに、このことは司法に対する不信感の表れと思われる。判決主文に信頼がおけず、「せめて傍論であっても--」という悲観的思考による逃避としか考えられない。原告当事者をここまで卑屈にさせる元凶はこれまでの違憲訴訟の判決であり、付随的違憲審査制度の限界の表出だと言えないだろうか。
- 裁判長が、職務を全うするのに、「遺書」を書くなどと言う社会は「法の支配」する社会なのだろうか?
極論すれば、司法消極主義により創りだされた司法環境の歪みの付けを自らが支払う立場となり、「遺書」が必要なったとも言える。
亀川裁判長を美談の主にするかの如き風潮は、民衆と司法の乖離を埋める親しみの現象とであるとしても、他面、現行の違憲審査制度の内包する根元的矛盾を忘れさせる弊害になりうる要素を含んでいると考える。
- 亀川裁判長は「原告が違憲性を確認する手段は、損害賠償請求の形を借りるしかなかった。」とのべているが、そのこと自体をどう考えているのか?
原告の手段を認めると言うことは、原告の「訴えの目的」も推定していると思われるが--。
再度主張するが、一国の総理が違憲行為を行っても原告の利益侵害は棄却の判決を下す。付随的違憲審査制の矛盾と限界を象徴している判決である。
2)「生け贄裁判論」
原告は、ここ10数年間に関わってきた違憲訴訟の経験から学習した結論が表記の裁判感である。
本件訴訟において原告は、平和的生存権・納税者基本権を中心に、憲法98条「憲法の最高法規性、条約・国際法規の遵守」と同99条「憲法尊重擁護義務」等を信条に公判に臨んできた。これに対して被告は、公判の冒頭から審理の必要を認めず、これまでの判例を基に却下・棄却を求めている。
ではこれまでの、司法の立場は--?、裁判所法3条のを全面にして、憲法81条は付随的違憲審査制を定めた規定と認識し、判例主義をも楯に司法領域を墨守している。この立場は合理性をもつ反面、残忍無情な非人間性を内在させている。
医療においては、予防医学と臨床医学との両面が問題となるが、司法の立場、特に違憲審査においては予防的な法の適用の思考回路は認められない。司法は、生け贄=事件=犠牲・被害を「貢ぎ物」として提出しなければ満足しない。
イラクの抵抗組織から「報復対象国」と指名され、星条旗に巻かれて同胞の遺体が放棄される政治状況でも、自分自身に物理的実害がない限り「争訟性」が認められない。これが現状の法の支配である。憲法を遵守することで、犠牲者(事件)を未然に防止しようとの願いは、司法には馴染まないようである。
勿論、過去に「精神的苦痛」も認めるとは判示されているが、「通常の社会での受容限度を超える苦痛」と言う抽象的判断基準で、特攻隊経験者の訴えも、中国戦線での捕虜生活体験者の訴えも「受容限度内」とされ、訴えは憲法解釈の違い、義憤・公憤、焦燥感と判断して、法の保護の対象外とされてしまった。
憲法学者の芦部信喜は1987年に、違憲審査制の「二類型の“合一化”傾向」を指摘しているが、実際の平和訴訟の現場での影響は非常に薄いように感じられる。しかし、彼は“合一化”の意義を「私権保障と憲法保障」の小項目を設けて簡潔に説明しているので、引用して当項目を終わる。
- 「本来、個人の権利を救済するのが司法権の役割で、それに付随して違憲審査制度が設けられたと考えられているのですが、----ただ個人の権利の救済というだけでなく、それを通じて憲法そのものを守って、憲法の中心ともいわれる基本的人権を定めた人権宣言の部分をとくに擁護していく、そういう憲法擁護の役割を違憲審査制度はもっていることを意味するし、それが期待されているからだとおもわれるのです。最高裁判所が「憲法の番人」と呼ばれるのは、そのためです。そこに二つの違憲審査制度の比較を通じて考えなければならないきわめて重要な問題があります。」『憲法判例を読む』芦部信喜 岩波セミナ−ブックス21
【1】訴えの利益の要件
憲法訴訟であることを理由に訴えの利益の要件を緩和すべきとの要求は、裁判の機能にかかわる問題を伴い、容易に認めがたいと言われている。しかし、憲法訴訟であることに関連した特別な訴えの利益の要件を確立することを検討課題とすることは、今や時代の要請ではないだろうか。この課題は学説上も未開拓の問題領域だとと記された文献を読んだ覚えがある。
この課題に対応して現状、次に述べる3つのパタ−ンが存在すると言われている。いずれのパタ−ンも法律の門外漢でブル−カラ−の原告には難解である。しかい、被害法益、原告適格が従来通りの判断基準で本件審理が進行することには、不満、不信、不安がある。
文献からの一夜漬けの知識は浅薄であるが生活実態を通して、精一杯の理解において主張を展開したい。
1.「基本権訴訟」
(法制改革によらなくても現行制度の下で解釈上可能な訴訟)
憲法に保護されている自由権、社会権、参政権といった実体的基本権は、裁判による基本権の実効的保護を保障した憲法32条の裁判を受ける権利と併せて読めば、すべての訴権性を有する実体的請求権であるとの説である。
この理解によれば、実体的基本権の侵害を争う訴訟は、民事、行政、刑事訴訟についての実定手続き法が定める訴訟要件や訴訟類型に拘束されることなく提起でき、裁判所の実体判断が得られるとする。基本権訴訟という概念からしてドイツの議論からの影響を受けていると言われ、裁判を受ける権利を手続き的基本権と呼んで、手続的権利としての性格をもたせている、との解説を読んで刺激をうけた。
余勢を駆って、『人権論の新構成』棟居快行著 信山社(285〜315p)に挑戦したが難解で困惑した。真意を把握したのかおぼつかないのであるが、ごく部分的ではあるが以下に引用して、英明なる裁判所の、勇気ある判断を願う者である。
- 『----付随審査制は本来、事件や具体的争訟に付随して審査がなされる、というものである。この場合の「事件・争訟性」は、実定訴訟法の定める争訟条件・訴訟類型と当然にイコ−ルではない。付随的審査制が要件とする「事件・争訟性」は、日本国憲法に於ける司法権の範囲の解釈にかかわる問題であり、既存の実定訴訟法とは無関係のはずだからである。』
『事件・争訟性の観念は確かに司法権の本来的守備範囲を画するものと思われる。しかし、広く憲法上保障された人権をめぐる紛争が事件・争訟性に当たると解すべきであろう。また、事件・争訟性と同義にとらえられている「法律上の争訟」(裁判所法3条)も、「実定法上の争訟」でなくて「憲法・法律上の争訟」とみるべきであるとおもわれる。』
『このように考えると、付随的審査制の下でも基本権侵害に対して出訴する際に、当然に実定訴訟法の定める訴訟要件・訴訟類型に従う理論的必然性はない。むしろ、いかなる態様の基本権侵害が憲法上の事件・争訟性を有すると言えるか、という問題を検討し、「事件・争訟性」の規準を明確にすることが付随的審査説にとって不可欠であろう。』※以上の解釈によれば、本件提訴の原告適格は、充足されていることになる。東京地裁による歴史的名判決を期待する。
2.制度改革による要件の緩和。
地方公共団体を相手に提起できる住民訴訟と同様な訴訟形態が国を相手にしようとするとき存在しないことに対して、立法的解決が是非とも必要と思われる。
地方自治は「民主主義の実践の学校」とまで言われる地方自治体に存在する主権者の権利態様が、国家レベルに存在しないことは、独裁政治への導火線を残しているようなものであろう。原告の「準備書面5」で前大戦の戦時予算の暴走を参照されたい。
3.成熟性と特殊な権利
- 成熟性とは、訴訟が司法判断に適する程度に至っているかを問う概念である。したがって、成熟性は、司法判断適合性の一要素をなし、特に、行政訴訟において問題とされることがある。
- この概念の有効性の議論。
ア)成熟性を具体的事件性と同義語に用いる限り、有効性はないと言える。
イ)これに対して、事件性さらには処分制とも区別しうる概念内容の設定をして、そこに、司法権行使の可能性を開くための機能をもたせるならば有効性が生まれる。
- 憲法訴訟と成熟性
「通常の訴え提起の要件では裁判所による憲法判断が得られない訴訟について、特別の要件を構成する基盤とならないかということ」が検討事項となる。
たとえば、環境権訴訟のように、環境が破壊されたり、環境の変更が加えられてからでは回復が困難なため救済が得られない場合や政教分離原則違反と思われる儀式が終了してからでは、裁判の意義が薄くなる場合等について、憲法訴訟の目的である憲法価値の具体的実現ないし憲法秩序の形成ということに照らし、成熟性を認めて、裁判所が憲法判断を下す余地を広げることはできないか」との期待感である。以上は、『憲法訴訟』戸松秀典著 有斐閣を参考にしたのであるが、同文献は成熟性について、否定的である。曰く「現行制度において成熟性の要件を展開させる余地がないことを念頭に置かなければならないからである。」「そもそも成熟性をめぐる議論がなされるようになったのは、アメリカでの成熟性(ripeness)法理をめぐる理論を日本に導入しようとしたからである。ところが、日本には、これに関する訴訟制度が不存在であったり、別の概念による展開がすでにあったため、導入して発展させることができなかったとみるのが適当である。」
※憲法学者がかくも明瞭に否定している理論概念を法廷で主張することが如何に愚かなことであるかは承知している。しかしである、「平和的生存権」や「納税者基本権」という特殊な権利性を訴訟要件として争うには、新しい理論、新しい要件構成が必要であると思われる。司法的には「二つの審査制度の合一化傾向」の時代であり、政治状況は、歴史に大きな汚点を残しかねない今日、素人が到達した「基本権訴訟」「成熟性」の論理概念を法律の専門家が熟慮して新法理を誕生させてくれることを願って止まない。