2001年12月8日開催
平権懇15周年記念シンポジウム

米軍のアフガン報復戦争と自衛隊の戦争参加を問う
主催・平和に生きる権利の確立をめざす懇談会

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アフガニスタンでの米軍による武力行使と日本の協力:1
       --主として国際法の視点からの問いかけ

本間 浩

■同時多発テロの衝撃と国家対応

 今回の同時多発テロあるいは同時中枢テロは、世界をまさに震撼させました。テロの被害の規模、テロのやり方、そしてそういう破壊の場面がテレビの画面にいちいち報道されたことで、本当に世界中の人々が驚いたと思います。そしてこの影響は、これからも政治の世界だけではなくて、経済、社会、いろんな面にわたって尾を引いていくことになるだろうと思います。

 とりわけアメリカ人にとって衝撃は大きかった。そのことが、またいろんな問題を生み出しているのだと思います。一つには、この同時多発テロ戦争、あるいは戦闘行為、あるいは「新しい戦争」とする、こういう見方ですね。それに対してアメリカが報復戦争をするというわけです。

 アメリカの人たちが戦争という言葉を使う場合に、法的な意味でどれだけ厳密な言葉を使っているのか、その点については、もう少し緻密に見ていかねばならないと思います。一つだけこの段階で申し上げておきたいことは、戦争は双方行為、つまり 片方が戦争を宣言した場合に他方も戦争に応じるという、そういう意味の双方行為という性格を持つものではなくて、一方的な意思表示だけで戦争状態が生ずるんですね。ですから、テロリストによる破壊行為を戦争行為と認めるということになりますと、アメリカがそれに対して報復を行うことも、これもまさに戦争だということになります。

■新しい国際法的枠組みが求められているのか

 また「新しい戦争」という言い方をしておりますけれども、では「新しい戦争」という考え方を法的にもきちんとしたものにするような、新しい国際的な枠組みの構築が求められているのか。米英軍を中心としたあの軍事的対応は、「新しい戦争」に対応する行為と見ることができるのか。それと同じことを湾岸戦争時の、アメリカを中心とする多国籍軍の軍事行動まで遡らせて見ることができるのだろうか。そういう問題が当然出てくると思います。

 こうして法的には何が何だか良く分からない状態でありながら、国際社会はテロを非難するということについては共同行動をとっているわけです。それについて反対する人あるいは国は、ごく一部にはあるかもしれませんが、圧倒的多数はテロを非難するということについては共通している。それと同時に非常に気になる点は、この米英軍の行動に対して、世界各国が、NATOを除けば実態的には沈黙している。それが何を意味するのかも考えてみたいと思います。

 いずれにしても、アメリカ軍あるいはイギリス軍の行動に対する、とくにアメリカ・イギリスの中での意見は、どうも本質を見ての判断ではないのではないか。私は次のように考えています。

--アメリカで起こったあの同時テロは、あくまでもアメリカ国内法上の刑事犯罪である。その犯罪の遂行者、犯行者は、国際的ネットワークで広がったテロリスト・グループである。テロリスト・グループは、他国にいる指揮者あるいは指導層の指令に基づいてテロ行動を行った。--

 これが問題の本質だと思うのです。

 そうなると、そこから出てくるのは犯罪者たちの身柄の引き渡し要求の問題です。身柄の引き渡しは、国連安全保障理事会が何度も決議を繰り返して、アフガニスタンに対して求めています。アフガニスタンも国連加盟国です。ただ、タリバン政権をアフガニスタンの政府として承認していないというところに、一つ問題がありますけれども。ともかくアフガニスタンという国家に対して、国連は安全保障理事会決議として、犯罪者の引き渡しを要求しているのですね。

 ただ、犯罪者の引き渡しは一般的には義務ではありません。引き渡し請求に応えなかったということで違法性を問われることはないのです。引き渡すか引き渡さないかは各国の自由です。ただ、テロリストの場合はちょっと違った面があるのですけれども、それについてはまた後でお話しします。

 そういうふうに見てくると、ビンラディンやアルカイダに対する攻撃と、タリバン政権に対する攻撃は、本当は分離して考えなくてはいけないのではないかと思うわけです。それに対応する国際法的な枠組みも、また分けて考えなければいけない。そういう性格の問題ではないかと思います。

■テロリズムとは何か

 次に、テロリズム禁止に関する国際法的義務という問題に入ります。まず、テロリズムとは何かということがありますけれども、じつは私も良く分かりません。というのは、テロリズムについての定義というのはないんですね。少なくとも法的な定義はありません。政治学的な説明を強いてするとすれば、恐怖を用いる統治、それを一つの政治的な方針とすること、それをテロリズムと言うのではないか。少なくとも本来の意味はそういうものであったと思います。

 恐怖を与えながら統治を続けていくという意味では、例えばイスラエルのパレスチナ人民に対する統治の仕方は、テロリズムではないかと言えるわけですね。ところが、今日問題になっているテロリストたちの犯罪を考えた場合、国家全体としてのテロというよりも、既存の制度あるいは価値観を改革しようとする意図を持って、そのための手段として暴力を用いている。

 このようなテロリズムを、かつては「自由の戦士」として弁護する考え方もありました。にもかかわらず、今日テロリズムが強く非難される理由の一つは、そのテロリストたちの掲げる政治的理念あるいは価値観にまったく関係のない、一般の人たちに対しても大きな犠牲を強いることではないかと思います。

■テロリズム禁止に関する国際法原則

 では、国際的にテロリズムに対してどう対処しているのかという点で、まず条約を見ていきたいと思います。いま申し上げましたように、テロリズムあるいはテロという行為についての定義がないことから、しばしばテロリズム禁止に関する国際法として、ハイジャック禁止に関する条約、それから人質禁止に関する条約、こういう条約が挙げられます。ハイジャックにしろ人質にしろ、恐怖の与え方の方法なんですね。これらの条約について国連は各国における批准を一生懸命呼びかけている。

 これらの条約の基本構造は、きわめて類似しています。それは、テロリズムといわれる行動を禁止するための国内立法を目的にしているということです。日本でいいますと、1970年に「航空機の強取等の処罰に関する法律」という法律ができて、関連して刑法も改正しまして、国外犯を処罰できるようにしました。引き渡しか処罰かのどちらかで、いずれにせよテロ行為を犯したものは裁判から逃げることはできない、こういう仕組みを作ろうということです。難民条約などでも、テロ行為を犯した者については難民の認定対象から外すという解釈が確立されているように思われます。

 先ほど西沢さんから、ハイジャックのような犯罪を犯すテロリストに対して、国際裁判で処罰を与えるようにしてはどうかという考え方が出ているというお話がありました。このハイジャック禁止条約、あるいは人質禁止条約で考えているのは、各国の裁判所が処罰をするという形です。その意味で、前ユーゴスラビア大統領のミロシェビッチが国際裁判でいま審理にかけられておりますけれども、この場合と全く違う。ミロシェビッチは国際犯罪として罪が問われているのでして、国内犯罪として罪が問われているのではないということですね。

■タリバン政権の責任の有無

 では、いったいタリバン政権はどういう違法行為をしたのだろうか。アメリカが武力行使をしてもいいと判断をするほどの行為をしたのだろうか。ここを見極めておく必要があります。

 それについては、私はこんなふうに見ることができると思います。自国内にいる私人、要するに国家機関でない人ですね。それが外国人である場合も含めてですが、こういう者の行為に発する国家責任が問われている。こういう性格の問題だろうと思うのです。自国内にいる外国人が、自国の領土をテロ行為の発進基地として使っている。あるいはテロ行為の作戦命令基地として使っている。にもかかわらずタリバン政権がそれを放置するということになりますと、そこにタリバン政権の責任が表面化してくることになります。ただ、テロリストたちがその領土内にいるというだけで、タリバン政権が違法性を問われるというものでもない。そういう外国人の行為、行動に対して、タリバン政権が規制のための相当な注意をしたのかどうか。もし相当の注意をしたということであれば、タリバン政権の違法性はなくなります。

 しかし、タリバン政権がテロリストたちの行為を黙認した、その黙認が意図的であるとみなされると、これは国家テロに似た形になっていると思われたわけですね。1980年代にリビアが、テロという方法を使ってアメリカの航空機を爆撃するなどの違法活動をした。これは国家意志がテロ行為にかかわっていた例です。しかし、タリバン政権がアルカイダあるいはビンラディンの身柄を引き渡さないということが、いったい武力攻撃になるのでしょうか。私はたいへん疑問だと思います。

 タリバン政権は一時、こういうことを言っておりました。もしビンラディン、それからアルカイダのグループが犯罪を犯したことが立証されれば、引き渡してもいいと。ただ、それまでの対応を見ていると、タリバン政権の側のそういう弁明というか釈明は、なお疑ってみる必要があります。というのは、国連決議を通じての引き渡し請求は、今回が初めてではないわけです。その前のクリントン政権時代に何度も国連決議として採択されている。しかもその引き渡し請求は国連憲章第7章によるもので、拘束力を持つものです。アフガニスタンは国連加盟国ですから、そういう国連決議には従わなければならない。にもかかわらず、引き渡しをしなかった。そういう状態がずっと続いている中で、今回の事件が起こった。

 こういう段階になって、タリバン政権があらためてアルカイダが犯罪行為を行った証拠を示せと要求するというのは、ある意味でムシのいい要求と言えなくもないと思います。少なくともタリバン政権は、自国領土がテロ発進基地として使用されることに対して、相当の注意をもって規制をしたと、国連に向かって立証しなければならない。そういう責任を負っていたと言えるのではないかと思います。

■国家責任の追及方法

 いまいくつか分解して申し上げましたけれども、タリバン政権の意図的な黙示のもとにアルカイダのテロが、アメリカでああいう形で実現されたということになりますと、これは国家テロに近い武力行使ということになりかねない。そうすると、アメリカとしては、とりあえずは自衛権行使という可能性もないではない。ただ、アメリカがタリバン政権側の釈明をきちんと求めるようなことをしたのかどうか。どうも私にはしたという経緯を認めることはできないのです。

 テロリストたちの身柄引き渡しの要求に対して、国際社会においては義務として応じるという仕組みができていない。犯罪人引き渡し条約に加入していれば問題は解消されるわけですけれども、アメリカとアフガニスタンの間にはそういう条約はない。では、国連が国連憲章第7章に基づく、拘束力をもつ決議の中で引き渡しを要求したにもかかわらず、アフガニスタンのタリバン政権が応じないという状況を、どうしたらいいのか。そこで初めて、国家的な追及方法が出てくるのではないかと思います。

 ちょっと横道に話をそらせてしまいますが、先ほど申し上げましたようにタリバン政権を国連は、アフガニスタンの正統政権として承認していません。承認していないということになりますと、タリバン政権に要求を突きつけようと思っても、理屈の上では存在していないものに対して要求するということになります。ところがいま国連では「国家責任に関する暫定条約文素案」というのを作っているんですね。これは既存の、国際慣習法として確立された原則を主としながら、新しい原則をとりこんで法律にしていこうというものです。

 その中で、私人のグループが国の名において行動する場合、この場合はタリバン政権がアフガニスタンという国家の名で行った行動については、国家としての責任が帰属する、こういう原則がいま作られています。その意味では、タリバン政権は国家責任を免れることができないと言うことができます。

■国連安保理決議の系譜

 次はアメリカ側に問われる問題です。米英のアフガンへの軍事攻撃の評価をめぐっていろんな評価があります。湾岸戦争の時も、多国籍軍の軍事行動のよりどころとして、国連安保理事会の決議が論拠とされました。安保理事会決議660です。ここに「国際の平和と安全の破壊が存在すると認定し」とあります。平和の破壊の存在を認定するということは、国連が強制行動を採るための一つの段階なんです。

 ところが国連は強制行動を採らず、結局は多国籍軍が行動したのですけれども、その根拠は決議678の2ですね。「必要なすべての手段をとる権限を与える」と出ています。しかもこれは国連憲章第7章に基づいたものであると出ています。拘束力のある決議だと明記しているわけですね。

 問題は「必要なすべての手段をとる」ということが、多国籍軍の軍事行動を認めたことを意味するのかどうかということです。もちろんアメリカはそれは認めたという立場を取るわけですけれども、フランスはしばらく否定的にとらえた時期がありました。ところがその後、「必要なすべての手段をとる権限」が、錦の御旗といいますか打ち出の小槌と言いますか、これをもって何でもできるというふうに捉えられているように思います。

 しかし国連憲章では、武力行使は一般的に禁止されています。例外として自衛権行使の場合と、国連が強制行動をする場合、それと国連が許可した場合があるわけです。「すべての手段をとる権限」というのは、そういう例外的に認められる現象のどれに入るのかというと、どうも明確ではないわけですね。そのままずるずるべったりにやってきた。そして今回の米英のアフガンへの軍事攻撃が、国連の枠内での武力行使と評価できるかということですけれども、それについては私はかなり疑問があります。


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